第73回:トークの会「福島の声を聞こう!」vol.44報告(後編)「大事な孫たち世代を守るために、原発は要らないと声をあげたい」(渡辺一枝)

 前回の一枝通信で、トークの会「福島の声を聞こう!」vol.44、菅野みずえさんのお話の前半を報告しましたが、その続きです。前編に続いてこの後編も大変長いですが、どうぞ最後までお読みいただきたく願っています。みずえさんのお話から学ぶことは多いと思います。

暮らしを奪うのは、戦争と原発

 避難して、子どもたちは大事にされているだろうかと思う。
 被災前の暮らしでは地区に障害を持った子どもがいた。とても賢い子で、地区では2年ずつ交代で運動会と敬老会をやっていたが、敬老の集いでは演し物をする。途中で忘れて間違えると「はい、婆っちゃんたち、こうだよ」と言って、その子が教えてくれた。本当に賢くめんこい子どもだった。
 その子が避難先で虐められてると聞いた時は、私たちはみんな仮設住宅で泣いた。「ここへ来い」と言いたくても、家族の仕事などでそうはいかない。その子は、近所だったおばあちゃんが入所している施設に「自分も寂しいから施設にいる婆っちゃんも寂しいに違いない。連れて行ってくれ」と言って連れて行ってもらったという。そこでおばあちゃんと2人抱き合って泣いたと聞いた時には、仮設の私たちもみんな、またもらい泣きをした。
 あの子たちが、めんこかった子どもたちが、本当に大事にされているだろうか。私たちの地域の宝が、どこでどんなふうに育つのだろう。そして、本当に健康に育つだろうか。それが心配でならない。
 今は離れているが、一緒に暮らしていた息子に子どもが生まれた。この孫は本当だったら地域の子どもとして、大事に育てられる筈だった。
 息子が近所の人に「俺もよ、お前の爺っさまに草刈りを習ったんだ。どうやったら草を綺麗に順番に刈れっか教えてもらった。だから今度は俺が、お前の息子に教えてやっからよ」と、そういう地域だった。子どもは、そんなふうに年寄りや周りの大人たちに育ててもらっていたのが、みんな分断されて、子どもは故郷の家や地域を知らない「町の子」として育っている。大人から見守られて育つのが当たりということを知らない子どもたち、私はそれが悔しくてならない。
 暮らしを奪うのは戦争と原発事故だと、身をもって知らされた。同級生がいて、幼馴染がいて、小さい頃を知ってくれている人たちがいる。住み慣れた町で、全てを話さなくても分かり合える人々との暮らし。「あそこの婆っちゃんが寝ついてっからよ。嫁さんはどっこも出られないんだよ。だからおめえたちで誘って、町さ連れて行ってやってくんねえか。オレはその日、婆っちゃんとこ行って『婆っちゃんと二人で話し合うことあっから、嫁さんは出てけ出てけ』って追い出すからよ。だからおめえたちで、一日一緒に居てやってくんねえか」
 そういう働きかけをしてくれるところだった。全てを話さなくても、あそこはこんな風だからこんな手助けが要る、そういうことをわかってくれる町だった。馴染みの店や、受診しても既往歴がすぐ分かるかかりつけ医が居る暮らし、地域の学校がある暮らし、そういうものを全て失くした。失くして分かる普通の暮らしの有り難さ。原発事故は、全てを一瞬に消して、二度と元に戻れなくしてしまう。
 私は福祉労働者だったから、福祉を必要としている状況を一挙に多量に生み出すのは戦争だと思ってきた。かつて福祉施設の入所者には、そういう人が多かった。だから福祉労働者は体を張って戦争に反対するのだと、働く中から教えられてきた。だから組合が要るのだと教えられて、そして今、原発も同じだと知らされた。
 組合の中で、原発反対は諸要求の中の一つに過ぎなかった。デモに行き、集会に行き署名をし、たまに「原発を止めよ!」と訴えて原発の前に立つ。それだけだったことを、いま恥じている。だから、原発事故で何が起こるのかを、伝えなきゃいけないと思っている。
 今、フクイチ(福島第一原発)を見渡せる見学台ができている。大熊町の元老人福祉施設の敷地内に足場を組んで造ってある。そこは中間貯蔵施設見学会のコースの中に入っている。見学する手続きは非常に厳しく、乗っていく車のナンバー、全員の身分証明書を添付して申請する。どんな人が入るのか、国が把握するためだ。そして、中に入ったら国の説明を一方的に聞く。
 中間貯蔵施設はフクイチの手前に広がっていた。汚染水タンクが増えて海に流すしかないと思わせる狙いもあるように、私には思われた。置き場が必要なら、東電が原発を増やすために確保した土地があるのに、国の説明ではそのことには全く触れない。7、8号機を造るはずの土地がある。デブリを取り出すために空けてある土地がある。しかし今、デブリは1グラムも取り出せない(1グラムは耳かき1杯程度だ)。それなのに、それを全部取り出せるなどと言っている。これから30年、それは不可能だろう。それなら30年、汚染水タンクはそこに保管できるじゃないか。だが、一切それを言わない。
 見学会で「青い汚染水タンクを置く場所はここしかない」と言うので、「7、8号機建設予定地は? デブリを取り出す場所は?」と聞くと、それは重要な場所なので空けておくと言う。国の説明を聞いていると、逆上しそうになる。
 今、ジャニーズのことがすごく話題になっている。メディアが反省を口にし、NHKは「私たちはなぜ伝えてこなかったのか」という番組を作る。フクイチのことだって何も知らせようとしていないじゃないか、同じことをやっているじゃないかと、テレビの前で私が怒るので、ジャニーズの話題になると夫はプチッとテレビを切る。

変わりゆく町

 「新たな産業基盤を構築する」といって始まった福島イノベーション・コースト構想には色々な会社が参画している。それらの会社は出資額の3分の1を負担すればよいことになっている。残りの3分の2は復興予算で出る。3分の1の出資でいいとは、濡れ手に粟だ。浪江の商工会にいた人に、出資額は3分の1でいいから事業所をつくらないかと言われた時に、夫は断った。「俺たちの税金を、そんなことで使って良いとは思わない。税金の使い途は、もっと他にある筈。少なくとも俺は、その先棒を担ぎたくない」と。
 浪江の海側は穀倉地帯だった。事故後、もう自分たちはそこで米作りはできないからと、地権者たちが手放した土地があるが、そこに大きな建物が建っている。太陽光発電設備のパネルを並べ、そのエネルギーを使って水素エネルギーを生み出す工場だ。ここも運営がうまくいかなくなった時、パネルをきちんと処分してくれるかどうか不安になる。
 私たちのところにも、土地を貸さないかと言ってくる。避難先をその会社に知らせたことなど無いのに。浜通りでも飯舘村でも、廃墟になった私たちの津島でも、そんなことが起きている。浪江町は、住民の個人情報を企業に出したりはしていない。では、誰が避難先の情報を漏らしたかと言うと、私たちが避難届を出している相手は東電しかないから、東電から情報が流れているのではないかと疑っている。除染し更地になった自宅跡の土地に、月1万円出すからパネルを置かないかなどという誘いが、避難先に届くのはなぜなのか。そんなことがあるから、水素工場などが立ち行かなくなった時に、そのパネルをちゃんと片付けるのか、そのまま放っておくのではないかと、不安を持つのだ。
 他にも新しい工場がたくさんできている。浪江には、福島ロボットテストフィールドのドローン滑走路もできた。これらの施設建設はアメリカのハンフォードをモデルにしている。ハンフォードは、第二次世界大戦中の原爆開発計画・マンハッタン計画に基づいてできた町だ。つまり、兵器を造った町のまちづくりを手本にして、ロボットテストフィールドなどが造られている。ドローンをいつでも兵器にできるような研究に繋がっているのではないか。
 木を分解して繊維だけを取り出して接着剤で貼り合わせ、コンクリートより頑丈な集成材を作る工場もできた。それを使えば木材建築で10階建の高層住宅ができるという。その接着剤が、どんな危険性があるのか。またそれを作った後の排水がどんななのか、それらを監視する住民が一人もいなくなったところにこうした工場が次々と建っていく。津波で流され原発事故で避難し、住民が帰ってこない土地、住民運動が起こらない土地でのことだ。
 原発事故が起きても、企業、経済界はなんの痛手も被らない。原発事故後に軍需産業がこれだけ煽られて、武力の増強や核武装は必要だという維新の会などが台頭している。もし日本海側の原発が事故を起こしたら、原発事故後の福島を格好の手本にするのではないだろうか。彼らが想定する「敵地」に向かう場所に、福島と同じような状況を二束三文で作れるからだ。そこに基地も造ることができるだろう。原発事故は、産業界にとって何も怖くないものなのだと思った。
 こんなふうに町は変わっていく。変えられていく。

中間貯蔵施設

 以前、福島第一原発を取り囲む形で大熊町、双葉町に整備された中間貯蔵施設を見学した。県内の1400ヶ所の仮置き場から、除去土壌が中間貯蔵施設に運び込まれ集中管理をしていた。フレコンバッグは1袋に1トン入るが、それを10トントラックに10袋積んで、2、3台連なって走ることになっていた。ある場所では、私が見ていた18分間の間に三十数台が通った。これだけ通れば沿道の家や道路が壊れていくのは当たり前だ。家も道路も、そんなものが通ることを想定してつくられてはいないからだ。
 そして今は、私の家の近くの仮置き場に積み上げられていたフレコンバッグは全て撤去されて、中間貯蔵施設に運び込まれた。今フレコンバッグを見ることができるのは、帰還困難区域だけだ。
 ほんの数年前まで、中間貯蔵施設では大きなベルトコンベアーを使って、土と可燃物を分別する場にフレコンバッグを運んでいた。そこで分けられた土だけを集めて土壌貯蔵施設に運び込む。その75%が放射性セシウム濃度8000ベクレル/キロ以下だと説明を受けた。
 原発事故が起こるまでは、100ベクレル/キロあるものは原発構内から持ち出してはならず、原子力マークをつけたドラム缶に収納されていた。それが原発事故後には8000ベクレル/キロ以下の汚染土は公共施設に使用可とされ、東京都で実証実験されている。今はそこは立ち入り禁止場所ということにしているが、いずれはその土を使って植物を育てるようなこともするらしい。
 中間貯蔵施設の広さは東京ドームの340倍。可燃物の焼却によって可能な限り減容化するそうだ。しかし焼却すればするほど放射性物質は濃度が濃くなっていく。
 8000ベクレル/キロ以下の汚染土を公共工事に使い、それでも残ったものは中間貯蔵開始後30年以内に県外に運び出して最終処分する。それが内堀福島県知事と国との約束だそうだ。内堀県知事が「県民のために」ということで、そう約束した。
 だが、運び出すことが県民のためだと思っている県民はいないだろう。「人様の土地を汚させちゃなんねえ」、県民の気質はきっとそうだ。人様のところを汚すくらいなら、もう汚れちまったとこに置けばいい、そう思うのが浜通りの気質だ。知事の気持ちと浜通りの人間の気持ちは違う。「他所さ持ってって、人様に苦労かけてはなんねえ。オレたちが苦労してんだから、その苦労を人様に与えてはなんねえ」が、浜通り気質だ。
 8000ベクレル/キロ以上の汚染土は5段階に積み上げて、上に土を被せて草を植えてある。2023年3月2日までに埋め立てができた分は、中間貯蔵完了ということになるという。どうやらここにはもう、地震も津波も来ないそうだ。そんなにここが安全なら、ここに汚染水を置けよ、と思う。だが、国は「これはあくまでも中間貯蔵なので、いずれは掘り出して県外へ持っていく」と言っている。

是非、読んでほしい

 イノベーションコースト構想でやっていることを理解するために、ぜひ読んでほしい本を紹介したい。


*『軍事の科学』(M・スーザン・リンディ著/河村豊監修/小川浩一訳/ニュートン新書)

 ハンフォードの町が作られる時にどれだけの人が被ばくして、その被ばくがどのように伏せられてきたかが書いてある本も紹介したい。


*『黙殺された被曝者の声――アメリカ・ハンフォード 正義を求めて闘った原告たち』(トリシャ・T・プリティキン著/宮本ゆき訳/明石書店)

 これらの本で書かれているようなことが、私たちには伝わってこない。東電原発事故は日々形を変え、影響、被害はより深刻になっていることを私は伝えたい。知ってほしい。
 森林産業地では、新たな汚染が始まっている。除染の名のもとで、汚染された山の木を燃やして発電するということが始まっている。しかし、木を燃やすと汚染が濃縮した灰が残る。その規制基準値は何もない。
 汚染水も処理水と名を変えて、すでに海に流されている。そこには処理しきれない放射性物質が高濃度に残っている。でも、国は「トリチウムは安全だ」と言い、それ以外の物質のことは何も言わない。中国が「トリチウム汚染水を流すな」と言ったら、中国でも流しているじゃないかと言い返した。しかし、中国が流しているのは事故を起こしていない原発のものだ。
 事故を起こした原発のALPS処理機を通す前の水を処理途上水と呼んで、通した後の水を処理水と言うが、汚染という言葉が消えて実態と離れている。海洋放出には、福島中の農協や漁協が反対した。福島県内の3分の2以上の自治体が考え直せと言った。海に流さず、保管しておく場所も方法もある。でも、それにはお金がかかる。流すのが一番安上がりに済むから流すのだろう。
 また、爆発を起こした原発の建屋が倒壊することはないのか。もし建屋が倒壊すれば、取り出せていない燃料棒の安全な保管ができなくなるではないか。私は不安に思っている。不満に思っている。私は、しっかり社会を見ている「オババ」で在りたいと思っている。大事な孫たち世代を守るために、あの子たちが私たちのようなことにならないように、「原発は要らない」と、皆さんと一緒に声をあげたいと思っている。

県民は海洋放出に反対している

 福島では、阿武隈山系から豊かな地下水が湧き出ている。東電はそれを承知で原発を高台に造らず掘削して海ギリギリに掘り下げて建設した。大量に流れこむ地下水は、堰を作って管理していた。しかし今は、地震で建屋にヒビが入ったので、建屋の中に水が入って出ていく。例えるなら、トイレの便槽を通った水が綺麗か、という話だ。こういうことが世間に伝わっていかないのを、本当に悔しく思う。汚染水の問題を報道してくれていたのは大手メディアでは東京新聞だけだった。
 原発立地の浜通りが、なぜ原発に反対しなかったのか。原発交付金を受け取っているからだ。双葉町ではそのお金を、公共施設の建設に使った。大熊町では、交付金は人と教育に使うことにした。福祉と教育だと言って、大熊町の福祉政策は多分日本では5番目くらいの上位、福島県内ではダントツ1位だった。隣の浪江町から「ここまでするんだ!」と驚いて見ていたので、そのお金が原発交付金だと知ったときはショックだった。
 福島県人は原発に反対しているのだということが、県外の人には伝わっていかない。そして「反対するのは県内の人の気持ちを逆撫でする」などとネットに書き込む人がいる。その人自身は善意で書き込んでいるようだが。また、「寝た子を起こすな」とか「福島の風評被害に加担するのか」なども書かれている。県民は反対しているんです。そのことを伝えたい。
 東電事故直後、韓国の済州島ではタケノコからセシウムが検出されたそうだ。韓国では今6割以上の人が汚染水放出に反対し、済州島では92%の人が汚染水の海洋放出のことを知って反対しているという。では日本の中で、92%の人が海洋放出を知っているだろうか? 不安になる。済州島では海女さんの数が500人を超すそうだ。その人たちが、自分たちの生活圏だ、私の健康のことだ、海のものを受け取る人たちの健康のことだと言って、デモをし、ストライキをしている。そして漁村の人たちは船で、デモをしている。
 これを見て、なんで福島の漁業組合はこういうデモをしないのだという人がいるが、何言ってるんだと思う。津波で全ての漁具を流された人たちだ。家も船も流され、そしてやっとの思いで浜へ帰ってきた人たちだ。漁獲も減っている。売れるものも限られている。燃料費が高騰している中で、なんでデモに金が使えるだろうか。節約のために漁に出る日を減らしているのに、なんでそんなことができようか。どうか、「デモをしたくてもできない漁民の代わりに私が怒るんだ」と言って欲しい。本当にそう思う。
 福島県だけ見ても2022年11月時点で27,789人の県外避難者がいる。これは避難指示区域に指定されていた地域からの数で、指示区域外からの自主避難者は含まれていない。私の住んでいた場所も今年の3月31日で避難指示が解除されたので、今統計を取れば、私もこの中には含まれない。解除された地域からの住民や自主避難者は、避難者数の統計に入れられないのだ。そして県知事は、県外避難者に会おうともしない。

原発反対は当たり前の要求だ

 「GX(グリーントランスフォーメーション)」の呼び声のもと、稼働60年を超える原発を動かし続け、新しい原発も作ると、国は決めてしまった。福島の事故からたった12年で、原発政策を大きく変えると、国は言う。
 脱炭素社会に原発は有効だと言い切り、核のゴミのことも核再生サイクルはとっくに破綻していることも言わない。そして、どれだけの核のゴミを次の世代に残すのか、全く言わない。これは、本当に罪深いことだと思う。
 原発被害の大きさは容易には見えない。放射性物質の存在は、人と自然を分断する。そうすると暮らし方や生き方を変えさせられる。農業、漁業、林業が困難になる。そこにあった産業だけでなく、全ての生業がなくなる。都会の消費者にも、間接的に影響する。離れたところであっても、影響は出る。コミュニティの喪失にもつながる。これは、人と人の関係の喪失だ。コミュニティの喪失は、地域の文化の喪失をもたらす。私同時に避難者と、そこに暮らし続ける人の分断をも生み出す。分断しか生み出さない。
 原発反対は、特殊な考え方や政治的に偏った姿勢ではないと、避難して思っている。福祉を必要とする状況を一挙に多量に生み出すのが、原発事故と戦争だ。反対するのは、暮らしの当たり前の要求だと思っている。
 再稼働しなければ町がなくなると、原発立地の首長がテレビで言っていた。しかし私たちは、原発で町ごと奪われた。産業も観光も全てなくなり、私たちは暮らしを失った。
 再稼働しなくても、産業がなくなるなどということはない。安全に廃炉にするための産業は絶対に必要になる。だから原発立地の町は、長く雇用が生み出せることに自信を持って良いと思う。停止している原発は、動かし続けるよりも、うんと安全だ。
 以前、静岡県の浜岡原発がある地区へ行った。初めて原発事故の話を聞くという人たちに会った。「私たちは民宿をやっていて、年に何回か原発の定期点検に来る人たちで生業を成り立たせている。原発反対なんて言ってもらったら、暮らしが立ち行かなくなる」と言われた。「いや、いや婆っちゃん、それ違うと思うよ。廃炉になったら、毎日それ以上の人が来るよ。毎日来るんだよ。蔵建つよ」と話した。むしろ廃炉に向けた産業によって、新たな町おこしが絶対にできると伝えた。

避難訓練は危険を隠す

 原発事故からの避難は、被ばくから逃れる避難だ。二度と元の暮らしに戻れない、一方通行の避難だ。原発事故を想定した避難訓練はそれを隠している。福井県の避難訓練の監視行動に行って、それを痛感した。危険だと知らせない。まるで遠足みたいに扱う。お菓子を配って、防護服の代わりに防護服みたいなヤッケを着せる。
 住民の避難訓練が必要な電力供給など、あってはならない。原発事故は、自然災害とは全く違う。人の努力で元に戻るようなものではない。その人が原発に賛成でも、反対でも、それらに一切関係なく被ばくする。原発事故で出た放射性物質を含むプルームは県境で「オッと、こっから先へ出ちゃなんねえ」などというものではない。
 宮城県の丸森町など、すごい線量だ。福島の川は北へ向かって流れる。汚染した山を流れてきた水は丸森を通って、そこで大きく蛇行して流れていく。数年前、ここで水害が起こったときには、子どもたちがその泥かきに駆り出された。子どもたちが被ばくするからやめてくれ! と、思わず丸森町に電話した。
 「原発反対」は、賛成の人の子や孫まで守る心の広い運動だと思う。臭いもしない、色もない、味もない(と言われるが、私にはちょっと金気臭い味がした)放射性物質は、あそこに原発賛成の人がいるから避けて行こうとか、あそこに反対の人がいるから一挙に降らそうとか、そんなものじゃない。どんな罵りを受けても、原発反対は、人の命と健康を守る広い心の具体的な運動だと思っている。
 今の福島を見れば、この次はどうなるかは目に見えている。本当に切り捨てられていく。私たちの浪江町は、思い出の残る学校校舎が一挙に全部壊された。それは住民にとっては悲しいことだが、でもそれは大事なことだ。コンクリートの中に溜まった放射性物質は、出ていかない。だから人がその校舎に入って何かをするなどということは、あってはならない。壊すのは当たり前のことだ。
 それなのに帰還困難区域の津島の小学校や中学校の校舎は残して使うという。被災前の暮らしがうかがえる展示場にしたいという。そこに古い農機具を集めて、失われた暮らしを保存しておきたいのだと。「あんたの家にもあるだろうから出してくれ」と、行政の農業関係者から言われた。その農機具に、どれだけの放射性物質が積もっているか伝えることもしないまま、それを一堂に集め、そして「こんな暮らしをしていました」と、見学に来た人に見せる。もしそこで風が起こったら、見学者も放射性物質を吸い込むだろう。でもそのことには全く触れられない。
 被ばくから避難しながら、被ばくについて教えられないままできているからだ。本当に、あってはならないことだ。
 避難してきた道を、私たちは元に戻ることはできない。それが原発事故からの避難ということだ。原発を止める前に事故は起き、私たちは間に合わなかった。だからこそ共に、一緒に頑張って声をあげていきたい。「原発は要らない」、「汚染水放出には反対」。
 汚染水放出に反対して、私たち浜通りの婆っぱたちは、物を言わなきゃいけないと思って、2012年12月から2013年にかけて反対署名を立ち上げた。まだ汚染水の問題が世間に知られていないような時だったが、すでに東電は流そうとしていた。
 雨が降る度に、雨にまぎれて汚染水が流される。すると東電は「下請けの職員がコックを捻るのを間違えてずっと流していた」などと言い訳を言っていた。「また降ったから、東電は流すのに忙しいぞ」なんて私たちは話していた。
 私たちは一生懸命、汚染水に含まれるトリチウムのことを勉強して署名活動を始めたのだが、一番初めに漁協が署名集めを引き受けてくれた。また浪江町では、当時の馬場町長が全仮設住宅を回っての署名集めを許可してくれた。町長にも署名を頼むと、快く署名をしてから「強制ではありません」と言って職員に署名用紙を回してくれた。ほとんど全員の職員が署名をして返してくれた。
 生協からも声がかかり、いろいろな集会や母親大会で報告させてもらうようになった。全国からの参加者に署名用紙を持ち帰ってもらい、署名が集まった。あるときは東京で集会があると聞き、汚染水の問題を訴えさせて欲しいと申し込んだ。集会は社会党系と共産党系があると聞き、なぜ一緒にできないのかと思ったが、片方は紹介者がないとダメだと言うし、もう片方からは、自主避難者の訴えを5分間取っているので、その内の2分間を使って話すように言われた。でも自主避難の人たちの2分間を奪うわけにはいかないと思い諦めた。
 官邸前の脱原発集会にもよく行っていたが、そこで叫んでいるだけで何が変わるのだろうと虚しく思うようになり行かなくなった。でも、そこに集まっていた女の人たちの中から、たくさんの運動や行動が起こっていた。今、その人たちと繋がって、一緒にさまざまな運動をしている。その人たちは皆、「原発は、幸せなど何ももたらさなかった。すべての生業と暮らしを奪ってしまった。そのことをしっかりと伝えていこう」という人たちだ。
 そしてこのたび、汚染水放出差止を求めて提訴するというので、原告になりたいと申し込み、今日の集会と提訴行動に参加してきた。有ったことを無かったことにはさせない。有った事実を伝えたいと思っている。
 今日、こうして東京で報告できたことが、とても嬉しい。東京の電気がどんなふうに作られ、東電がどんなに人を蔑ろにしてきたか、今も蔑ろにしているかを知っていただき、ご一緒に原発は要らないと声をあげていきたい。
 ありがとうございました。

***

みずえさんのお話を聞いて
 廃校になった学校の校舎を使い、そこに農機具や生活道具を展示して、被災前のここにはこんな暮らしがあったということを展示する計画についてのみずえさんの思いを聞いた時、私は、私が陥りやすい弱点に思い至りました。原発事故が何をもたらしたか、原発事故による被害を考える時、情緒に流されてはいけないのだと深く心に刻みました。私は、ともすれば情緒的な話に心揺さぶられますが、一番大事に考えるべきことは「被ばく」の問題だということを、決して忘れてはいけないと、みずえさんの話から教えられました。
 他にもたくさん心に残る言葉が多く、その生き方を学びたいみずえさんのお話でした。

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渡辺一枝
わたなべ・いちえ:1945年1月、ハルピン生まれ。1987年3月まで東京近郊の保育園で保育士として働き、退職後は旧満洲各地に残留邦人を訪ね、またチベット、モンゴルへの旅を重ね作家活動に入る。2011年8月から毎月福島に通い、被災現地と被災者を訪ねている。著書に『自転車いっぱい花かごにして』『時計のない保育園』『王様の耳はロバの耳』『桜を恋う人』『ハルビン回帰行』『チベットを馬で行く』『私と同じ黒い目のひと』『消されゆくチベット』『聞き書き南相馬』『ふくしま 人のものがたり』他多数。写真集『風の馬』『ツァンパで朝食を』『チベット 祈りの色相、暮らしの色彩』、絵本『こぶたがずんずん』(長新太との共著)など。