第78回:とりとめのないこと──私が裁判傍聴をする理由(渡辺一枝)

 とりとめのないことだけれど、このところ胸につかえていることがある。ふとした拍子にその胸のつかえが湧き上がってきて、収まりが悪い。文章化したらつかえは取れるかしら、とりとめのなさが正体を表してくれるかしらなどと思い、綴ってみました。 

「民衆の常識」×「お上の常識」

 雑誌『たぁくらたぁ』最新号の61号の編集後記に、私は下記の文章を書いた。

 いつもの道の横断歩道の一ヵ所は車の往来が少ないので、信号が赤でも車が来なければ渡る人が少なくない。私もその一人で、法律違反常習犯だ。法は、社会秩序を保つための規範だと承知してはいるし、私たちの生活は法で守られてもいるだろう。法文は言葉で書き表されるが、日々の暮らしには言葉では言い表されないことの中にも、守りたい大切なことがある。自然界の法則や秩序、自分自身の感覚、人との繋がりの中でのことなど、法文にはないがそれらを大切に生きている。
 だが経済優先の社会では、それよりも法が上位に立つ。そしてしばしば規制緩和をして、市民社会の暮らしよりも経済を優先させる。「法を守ってさえいれば良いのか?」と憤りながらあの横断歩道に差し掛かったら、信号待ちする子どもの姿があった。その日は私も子どもに倣って、青信号になるのを待って渡った。仕方ないなぁ。

 と書いたのだが、法文にはない謂わば「民衆の常識」と、「お上の常識(法)」の乖離を感じることが多い。つい先日、東京地裁で傍聴した裁判にも、それを感じた。
 この通信では、時々裁判の傍聴記を書いているが、傍聴はしたが書けずに過ぎたことも多い。12月4日の東京地裁での「住まいの権利裁判」も、傍聴したのに通信に書けなかった。 書けなかった理由が、そもそもこの案件を裁判にすること自体が問われるべきではないかと思うからなのだ。これは福島第一原発事故による被災者が原告になっている裁判だ。

 政府は原発事故の後、避難指示区域を決めたが、実際には区域外にも放射能汚染は広がっていた。そうした避難指示区域外から避難して、みなし仮設住宅とされた東京の国家公務員宿舎に入居した人たちがいる。
 しかし、2017年3月に避難指示が解除されると避難者への住宅支援は打ち切られ、あろうことか福島県は、国家公務員宿舎に避難していた避難者に住宅明け渡しを迫った。そしてまた呆れたことに、福島県は4名の居住者に対し住宅明け渡しを求め、福島地方裁判所に訴えた。原発事故の被害者に対して、本来なら被害者を支援すべき立場にある行政が加害者になって訴えるという「あべこべ裁判」だ。
 この「住宅追い出し裁判」は福島地裁で被告敗訴となった。被告とされた避難者は仙台高裁に控訴した。仙台高裁は、控訴審第1回口頭弁論で審理終結を言い渡した。これに対して被告側は、もっと審理を尽くせと「弁論再開の申立書」を提出している。
 さらに、福島県は福島地裁への提訴の後、やはり東京の国家公務員宿舎に避難している別の避難者11名も提訴すべく、県議会に議案を出していた。避難者と支援団体はそれを察知して、県議会が開かれる前に福島県を被告として東京地裁に訴えた。退去に協力させようと避難者に無断で親族に接したことや、勤務中の避難者に電話をかけてきたことなど、県側の数々の嫌がらせに対する「精神的賠償」と「居住権の確認」を求めて、損害賠償請求訴訟を起こしたのだ。それが、この「住まいの権利裁判」だ。
 この「住まいの権利裁判」もまた、実に奇妙だ。「危険な場所には住まない、住みたくない」というのは、私たち市民、民衆の当たり前の感覚だろう。避難指示が解除されたから住めるというのは「お上の常識」かもしれないが、そこはまだ放射線量が高く安全な場所でないし、医療施設や商店もなければ住めないのだから、戻らないのは「民衆の常識」だ。「2017年3月で住宅支援は打ち切ったのに避難先に住み続けるのは違法だ」というのは「お上の常識」で、それを振りかざして追い出そうとするのはいじめではないか。
 法律とかルール以前に、生命体として大事にしたいことがあるではないか。「衣食住」というが「住居」は命の存続に欠かせない、人としての普遍的な権利、「人権」なのだ。

なぜ裁判傍聴をするのか

 なぜ私は裁判の傍聴をするのか、自身の内側を探ってみた。
 初めての裁判傍聴体験は2003年4月18日、東京地裁第103号法廷だった。2002年12月に東京地裁に提訴された、中国残留孤児国家賠償請求訴訟の傍聴だった。もしかしたら1945年1月に満州のハルピンで生まれた私自身、原告席にいる一人になっていたかもしれないと思いながらの傍聴だった。傍聴回数は覚えていないが、東京地裁には20回以上通ったと思う。2007年1月に敗訴し、原告団は控訴したが同年末に中国在留邦人を支援するための法改正が成立したので訴えを取り下げて、裁判は終結した。
 次に裁判所に通い出したのは私自身も原告になっての「安保法制違憲訴訟」だったが、原告として法廷に入る場合、「傍聴」というのだろうか、それとも「出頭」とでもいうのだろうか。だが私が原告になったのは「安保法制違憲 国家賠償請求訴訟」で、同じく安保法制についての「差止訴訟」や「安保法制違憲訴訟女の会」が原告となって提訴した国会賠償請求訴訟は、支援者として傍聴してきた。この2件に関しても、支援者としての傍聴とはいえ、原告の気分で裁判所に通った。
 原発事故に関しての何件かの裁判にも、関わり深く傍聴を重ねてきている。当事者意識が強いものと、支援者として深く関わっていきたいものとがある。私自身も告訴団の一人である「東電刑事裁判」は、当事者として傍聴してきた。「ALPS処理汚染水の海洋放出差止訴訟」の裁判はまだ始まっていないが、原告になったから、これには当事者として関わっていく。
 上記した「住宅追い出し裁判」や「住まいの権利裁判」、また「子ども脱被ばく裁判」「311子ども甲状腺がん裁判」「ふるさとを返せ!津島訴訟」「飯舘村訴訟」などには支援者として関わり、傍聴を重ねてきている。
 では、なぜ関わるのか、なぜ傍聴するのか。
 答えは単純。知りたいからだ。この国の司法(国)は、これをどう裁くのか知りたいから傍聴する。いや、「どう裁くのか知りたい」というよりも「どう判断するのか知りたい」という言い方のほうが、私の気分に合っていると思う。
 法律の知識がないし裁判用語もよくわからないから、傍聴しただけでは理解できないことも多いが、閉廷後の報告集会での弁護士の言葉で、法的な解釈を聞いてその日の法廷でのことが理解できたりする。
 『たぁくらたぁ』編集後記に書いたように、法は社会秩序を保つための規範であろうし、私たちの生活は法で守られてもいるが、それだけではない。法文化されてはいないが自然界の法則や秩序、また生命体としての自分自身の感覚や、人との繋がりなど、謂わば「民衆の常識」を大切に、私たちは生きている。
 司法が政府に忖度して「三権分立」ではなくて「三権連立」などと揶揄される今、それでも「民衆の常識」をわきまえた司法の判断を望んで、傍聴を続けている。けれども裁判官の中には、人権を蔑ろにする人もいる事実に胸がつかえる。

歳の終わりに

 今年一年を振り返ると、時が超速で過ぎていったように思えてならない。それは私の年齢のせいなのか、それともあまりにも色々な出来事があり過ぎたせいなのか、どちらなのかと思いながら2023年を振り返る。
 5年日記も、最上段の2023年欄をあと数日で書き終える。1月からのページを繰ると、「時が超速で過ぎて行った」と感じるのも無理のない1年だったと思えた。1月は、裁判傍聴だけでも、13日は福島地裁で「住宅追い出し裁判」、16日が東京地裁で「住まいの権利裁判」、18日は東京高裁での「東電刑事裁判」、19日には仙台高裁で「ふるさとを返せ! 津島訴訟」と福島と仙台に往復し、この他さまざまな用事で都内での外出も多かった。
 日記を読み返せばもちろん、楽しいこともたくさんあった。ライブやコンサート、観劇や美術展、また旅行にも行き、記憶を手繰り寄せれば、それらが浮かび上がってくる。けれども、ゆったりと心憩わせて記憶の中の時間に浸れない私が居る。どうしても、思いはガザへと向かい、ウクライナへ飛び、アフガニスタン、シリア、ミャンマー、チベット、新疆、沖縄、福島と、ブーメランのように思いが還る。
 そんな私の思いとは別に、時は巡る。どんな一大事が起きても、それでも日々は巡る。
 来年は、どんな年になるのだろう。6月まで既にいくつかの予定が入っているが、誠心誠意それらに向き合おうと思う。

 「トークの会 福島の声を聞こう!vol.45」を2月2日に開きます。どうぞ、ご予定に組み入れてくださいますよう、お願いいたします。
 今年一年、「一枝通信」にお付き合いくださって、ありがとうございました。
 みなさま、どうぞお健やかに新年をお迎えください。

一枝

トークの会「福島の声を聞こう!」vol.45

ゲストスピーカー:丹治杉江さん(「伝言館」事務局長)
日 時:2024年2月2日(金)午後7時〜9時(開場は午後6時半)
場 所:セッションハウス・ガーデン(新宿区矢来町1582F)
参加費:1500円
主 催:セッションハウス企画室 03-3266-0461  mail@session-house.net
https://session-house.net 
申込受付:03-3266-0461 ※2024年1月15日(月)午前11時〜(これ以前のお申し込みはご遠慮ください) 

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渡辺一枝
わたなべ・いちえ:1945年1月、ハルピン生まれ。1987年3月まで東京近郊の保育園で保育士として働き、退職後は旧満洲各地に残留邦人を訪ね、またチベット、モンゴルへの旅を重ね作家活動に入る。2011年8月から毎月福島に通い、被災現地と被災者を訪ねている。著書に『自転車いっぱい花かごにして』『時計のない保育園』『王様の耳はロバの耳』『桜を恋う人』『ハルビン回帰行』『チベットを馬で行く』『私と同じ黒い目のひと』『消されゆくチベット』『聞き書き南相馬』『ふくしま 人のものがたり』他多数。写真集『風の馬』『ツァンパで朝食を』『チベット 祈りの色相、暮らしの色彩』、絵本『こぶたがずんずん』(長新太との共著)など。