志田陽子さんに聞いた:日本はもはや民主主義国家ではない? 進行する「実質改憲」

昨年、「総裁としての今任期中に改憲を目指す」と宣言した岸田首相。2022年末には敵基地攻撃能力(反撃能力)保有を認める「安保関連三文書」が閣議決定、憲法審査会では緊急事態条項についての議論が続けられるなど、なし崩しに改憲への道が開かれようとしているようにも感じます。近年の日本の政治と憲法の現状について、憲法研究者の志田陽子さんにお話を伺いました。

高等教育無償化も同性婚も、憲法改正なしで実現できる

──昨年11月、岸田首相は自民党総裁としての今任期が終了する2024年9月までに「改憲を目指す」と発言しました。かつて、安倍元首相も同様に「任期中に改憲を」と述べていたことが思い起こされますが、首相や与党が前のめりに「改憲」を叫ぶ近年の状況をどう見ておられますか。

志田 今から10年ほど前、野党だった自民党が「日本国憲法改正草案」を出したあたりから、「憲法改正を実現することが保守の政治家としてのお手柄だ」という雰囲気が非常に強くなってきました。そして、その「お手柄」を立てたい人たちが、実際には憲法を変える必要のないテーマであっても、「このために憲法改正が必要だ」といってさまざまなアイデアを出してくることが続いてきたと感じています。

──「アイデア」とは、たとえばどういったものですか。

志田 私は教育者でもあるので、一番気になったのは、高等教育無償化のための憲法26条改正の議論ですね。本当に無償化したいのであれば、憲法改正をしなくても問題なくやれるはずで、むしろ議論すべきは財政的に本当にやれるのか、リップサービスとして言うだけで「できない理由」として憲法を利用していないかということです。
 たしかに憲法26条2項には「義務教育は、これを無償とする」とありますが、これはあくまで国がやらなくてはならない最低ラインを示したもの。財政の状態や国民の希望にあわせて、それより上の段階まで支援しますということであれば、憲法には抵触しないんですよ。本当に無償化が必要だと思っているというよりは、「何か改憲をやってみたい」政治家が、そのためにこのテーマを持ち出してきたということだと思います。
 また、LGBTQの権利、特に結婚制度をめぐる議論についてもそうです。同性婚に門戸を開くには憲法24条を改正しなくてはならない、だから今のままでは法整備はできないとしばしば言われますが、これも本来は憲法改正の必要のない問題です。

──24条1項に「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し……」とあることが、「憲法改正しなくては同性婚の法整備はできない」理由として挙げられています。

志田 それは、かつて「家制度」があった時代、婚姻が本人の意思を無視して、親などの意向だけで決められていたのを変えようということを表現しただけ。そこに「同性同士の婚姻を認めない」という意思は特にありません。
 24条2項には、婚姻や家族に関する法律を定める際には「個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して」定めるように、とも書かれています。こうした条文の本来の趣旨を無視するのではなく生かしていく方向への、人権をより発展させていくための法改正であれば、当然認められていい。そのために憲法を変える必要はまったくないんです。

──「人権を発展させていく」とは、より多くの人の権利を守る、認められていなかった権利を認めるといったことでしょうか。

志田 はい。たとえばアメリカやイギリスでは1920年代に女性参政権が認められましたが、それより以前、政治に参加する権利が男性に限られるのは当たり前だと考えられていました。それを改め、女性にも政治への門戸を開こうとなったときに、「憲法改正しないとできません」とは誰も言わなかった。「よく考えてみたら、同じ人間なんだから当たり前だよね」ということになったわけです。
 本来、人権とは誰にでも平等に保障されないといけないものですが、残念ながら法律家も立法者も社会のすべてに目が行き届くわけではないので、保障からとりこぼされてしまう人はどうしても出てきてしまう。それに対して、誰かが「おかしいよ」と声をあげることで社会に気づきが起こり、不平等が正されていくということは、これまでにも何度も起こってきたわけです。女性参政権もLGBTQの権利も、先住民族の権利などもそうでしょう。「今まで気づいていなかったけど、考えてみたらたしかに認められるのが当たり前だ」ということです。
 不平等があることが分かったときに、「憲法には『この人々について平等にせよ』とは書いていないんだからそのままでいい」という発想は、憲法はとっていません。14条に「すべて国民は、法の下に平等」だと書かれているように、人権保障から取りこぼされている人がいることが分かれば迅速にその不平等を是正すべきだという考え方が、憲法全体に組み込まれているのです。

──にもかかわらず、「憲法のせいで平等にできない」かのような言説をしばしば耳にしますね。

志田 それが一番腹立たしいところです。特に同性婚をめぐっては、「人権保障をしてほしければ改憲に賛成しなさい」とまで露骨な言い方はしないにせよ、そういう意味の発言が実際になされていますよね。本来、憲法の理念から言えば、むしろさっさと人権保障のために動くべきなのに、そうしない言い訳に憲法を利用するのは、まったく本末転倒だと思います。

憲法改正を政局化してはならない

──そうして本来は憲法改正が不要な問題に「改憲」が持ち出されてきたのは、やはり政治家が先ほどおっしゃった「お手柄」を立てたいから、あるいは政局を有利に進めたいからということでしょうか。

志田 最近、すごく正直だなと思ったのが、自民党議員の発言として報道された「経済で駄目なら憲法改正で事態を打開するしかない」という言葉です。岸田政権は岸田政権で、いろいろと経済政策は打ってきたのだと思いますが、結果として庶民の暮らしは苦しいまま。先行き不安は払拭できず、若者たちは結婚も子育ても無理だとあきらめているので出生率が上がらない。そんな状況では、内閣支持率が下がっていくのは仕方のないことですよね。
 そこで「じゃあ憲法改正でいくか」という発言が出るというのは、本当に憲法改正が必要だと考えているのではなく、内閣支持率を持ち直して政局を安定させるために憲法改正を利用したいということ。それ以外に解釈のしようがないですよね。
 でも本来、憲法改正というのは政局化してはいけないものです。改正手続きを定めた96条は、改正案の発議には「各議院の総議員の3分の2以上の賛成」が必要だとしています。一般の法律が出席議員の過半数で可決されるのに比べて、要件がはるかに厳しい。これは、憲法改正をするときには、その改正が国のためにどうしても必要だとみんなが納得して、党派を超えて合意できる内容でなくてはならないということだと思います。
 たとえば、選挙権年齢を20歳から18歳に引き下げる公職選挙法改正案は、衆参両院全会一致で可決されました。そのように、「この方向がいいね」と、みんなが理性的に考えて合意できる事柄はあるし、憲法改正を行うとしたらそうした内容の改正でなくてはならない。今の議論では、そこのところがまったく理解されていないのではないでしょうか。だから「改憲発議に賛成してくれる党派を3分の2集められるかどうか」を気にするのでしょうが、関心の持ち方自体が誤っていると思います。

──よく選挙の後、「今回の選挙で改憲派が3分の2を占めた」などと報道されますが、そこは本質ではないのですね。

志田 はい。さらに言うなら、憲法を論じて国の方向性、あり方を定める「憲法政治」というべきものは、一般の通常政治とはレベルが違うものです。政局を含む一般の政治に、憲法の内容が左右されることはあってはならないと思います。
 教科書などで図にするときは、憲法政治が通常政治よりも上にある図になるのが一般的ですが、私はむしろ、憲法政治を下に描く図で説明したいと思っています。憲法とは国の土台であり、その上にどんな建物を据えるか、その中身をどうするかが通常の政治。土台である憲法がおかしくなってしまうと、通常政治という建物が崩れていってしまう。逆に、土台が安定していて初めて、壁をどの色にしようか、どんなテーブルを置こうかなどと話し合えるわけです。
 そうした、憲法改正が社会に与える影響や意味を、おそらくは「改憲」を言い出す政治家たちは分かっていない。だから、壁紙の色を変えるために土台をいじるという、本末転倒なことをしてしまうのだと思います。でもそれは、日本という国のあり方自体を変えてしまうこと。事実、自民党改憲草案などは、前文を読んだだけでももう「日本は民主主義国家をやめるんですか?」と思わされる内容です。もしこの案が通れば、国際社会での日本の立ち位置にも大きな影響が出てくるでしょう。そのことが理解された上での改憲案だとはとても思えません。

緊急事態条項がなくても、「緊急事態」への対処はできる

──昨年、憲法審査会では、緊急事態における国会議員の任期延長についての議論が続けられていましたが、これについてはどうお考えでしょうか。議員の任期満了の時期や衆議院解散後に大災害が発生し、選挙実施が困難になったときに備えて特例的に議員の任期を延長できる定めを憲法に加えるべきだとして、自民党などは条文案の起草を行う機関の設置も求めています。

志田 任期延長は、憲法改正をめぐる議論の本筋からすればかなり些末な話だと思いますが、こうしたテクニカルな話はむしろ、発議されれば国民投票で可決される可能性が高いかもしれません。分かりにくい話なだけに、「詳しい人たちだけでいいように決めて」とさじを投げてしまう人も多いのではないでしょうか。

──たしかに、「選挙ができなくて国会議員がいなくなったら困るでしょう」と言われたら「そうかもしれない」と思ってしまいそうです。

志田 しかし現状、この任期延長の問題は、緊急事態条項創設と一体化した形で議論が進められています。そして、そもそも緊急事態条項とは、大きな災害が起きて交通網なども遮断され、国会議員が集まって話し合うことができない、つまり通常の民主主義プロセスを踏むことが難しいときに、内閣だけで物事を決められるようにしよう、法律と同じ効力を持つ政令を国会抜きで作れるようにしようとするものです。
 国会議員抜きで物事を決めなくてはいけないような緊急事態を想定しているはずなのに、そのときに議員の任期を延長するしないを云々するのは明らかに矛盾しているし、無駄な議論としか思えません。緊急事態であっても国会を意思決定から切り離すことを認めず、その対案として任期延長の規定を主張するのならまだ分かるのですが、そういう議論にはなっていないですね。

──今後、緊急事態に関する改憲条文案が出されるとしたら、国会議員の任期延長だけでなく、内閣だけで意思決定ができる緊急事態条項全体を含んだ内容になる可能性が高いということでしょうか。

志田 そうですね。その場合、任期延長という論点が前面に出されることで、本来国民が一番関心を持つべき論点──緊急事態に国会を意思決定から排除していいのかということ──に煙幕が張られてしまう可能性があります。

──衆議院と違って参議院は3年ごとの半数改選だから「議員がいなくなる」ことはない。だから、任期延長の定めを新たに加えなくても、54条2項にある「参議院の緊急集会」で対応可能だという指摘もありますね。

志田 そのとおりだと思います。そもそも、災害のような想定外の状況のために緊急集会、あるいは臨時会(53条)の規定があるわけですよね。その趣旨からすれば、緊急事態においてもやはり国会と内閣がしっかり侃々諤々の議論をして対応を決めなくてはならないということになります。どれほど面倒でも、それをやらなくてはいけないというのが民主主義国家の基本なんですね。「任期延長をしないと国会の機能が失われてしまう」というのであれば、平時でさえ政府が野党の臨時会開催要求に応えないなど、こうした規定を生かし切れていないことのほうを問題視すべきだと思います。
 むしろ緊急事態こそ、臨時会や緊急集会などを利用して議論の場を活性化させるべきだし、災害に遭った地方自治体が迅速に動けるようにサポートする、被災地のニーズを吸い上げて集約し、効果的な対策を提示するなど、やるべきことはたくさんある。いわば当たり前のことではあるのですが、現状の政府の災害対応を見ていると、それができているとはとても思えません。

──緊急事態条項よりも、当たり前のことをしっかりやってほしいというのはよく分かります。ただ、災害などにおいては、人命を救うため政府が国会に諮る余裕もなく何かを決定しなくてはならないような場面も想定されるのではないでしょうか。「緊急事態条項がないと、そうした決定ができなくなる」という声もあります。

志田 政府の決定や行動が通常のルールを逸脱していたとしても、それが本当に人命を守るために必要な措置だったのであれば、国会は間違いなく事後承認をするでしょう。正当防衛や緊急避難のロジックで違法性が棄却されますから、内閣の行為が問題になることはまずありません。かつて、国連の難民高等弁務官だった緒方貞子さんが、通常のルールを破って軍用機で難民を避難させたことがあると聞きますが、それと同じですね。きちんと説明責任を果たしながら正当な意思決定をしさえすれば、緊急事態条項がなくても適切な対応は十分に可能なのです。
 また、通常の災害については、緊急対応がしっかりできる部局を、軍事防衛組織である自衛隊の中に混ぜこぜにしておかないで、環境関連の省庁に常設すべきです。そこができていないまま、人命が関わっている切迫したニーズを、「緊急事態」という極端で的外れな議論に落とし込んでしまっている。迅速な対応をするための熟議は憲法改正論とは別の筋で、今こそ本気でやるべきです。
 それを前提とした上で、さらに大きく想定を超える事態──一部の地域だけではなく全土が被災地になるような──が起こって、国会をはじめ国としての機能が完全に失われてしまうような状況に限定しての緊急事態条項であれば、議論はしてもいいのかもしれません。ただその場合、どのような状況を「緊急事態」と認定するのかを、しっかりと絞り込む必要があります。

──自民党改憲草案の緊急事態に関する条文は、そうなっていませんね。

志田 自民党改憲草案では、緊急事態とは武力攻撃や内乱、大規模な自然災害など「法律で定める」とき、とだけ定義していて、どの規模の自然災害が緊急事態と判断されるのかといった縛りはありません。つまり、どこかの地域で何か災害が起きれば、「緊急事態です、国民は心を一つにして被災地のことを考えましょう」といって、国会を停止して内閣の政令だけでさまざまな命令を出すことができてしまう。少なくとも法的にはそれが可能だということになります。
 また、多くの専門家が指摘しているように、緊急事態条項には、それがいつまで効力を持つのかという時限措置を必ず設ける必要がありますが、自民党改憲草案の条文はその点でも問題があります。今のままの条文では、内閣はいつでも好きなときに緊急事態認定ができて、それをずっと延長することが可能になってしまうかもしれません。

今の日本は「常に緊急事態が発令されている」状態

──安全保障と憲法についてはどうでしょうか。集団的自衛権の行使を容認する安保法制の成立をはじめ、武力放棄を定めた9条がありながら、「戦争のできる国」に向けてさまざまなことが進行してきているように感じます。

志田 先ほど、緊急事態条項とは国会を噛ませずに内閣だけで意思決定するための規定だとお話ししましたが、実は自衛隊の防衛出動も同じような仕組みになっています。
 2015年に安保法制が成立し、集団的自衛権の行使が容認されたときに、さまざまな自衛隊関連の法律が改定されました。その結果として、内閣がたとえば「これは武力攻撃事態だ」「存立危機事態だ」と認定すれば、電話一本で自衛隊に出動命令を出せる、相手国に反撃ができる仕組みができあがっています。ここには、国会が歯止めとして機能する余地はありません。
 また2023年の夏には、これまで禁じられてきた殺傷能力のある武器の輸出を一部解禁することが、与党協議で決められたと報道されました。これも、国会ではもちろん承認されていません。国会が閉じているタイミングに、内閣と産業界のみの協議でこれほど重要なことが決められてしまっているわけです。
 2022年12月には、敵基地攻撃能力の保有を定めるなど、日本の防衛政策を大転換させるといわれた「安保三文書」が閣議決定されましたし、安全保障については、国のあり方そのものを決定づけるような重要な事柄が、国会を外したまま決定され続けているのが実態だと思います。

──常に緊急事態が発令されているような状態ともいえそうです。

志田 そうなんです。福島第一原発事故後に出された「原子力緊急事態宣言」を除けば、今の日本では緊急事態が発令されるような大事件は起きていません。にもかかわらず、国の大きな方向性の決定プロセスからは、ほとんど国会が外されてしまっている。「国会は国会で議論してガス抜きしておいてくださいね、本当に重要なことは国会の外で、内閣がやりますから」という形が、どんどん進行しているのです。
 実はこれは、憲法が「絶対にやってはだめですよ」と言っていることでもあるのです。憲法41条は、国会は国権の最高機関であり唯一の立法機関であると定めています。つまり、国民主権の国である以上、最終的な意思決定には主権者国民によって選ばれた議員が関与しなくてはならない。そして、後で争い事が起こらないよう、その意思決定を法律にして明確な形で固めることにしているわけです。だから国会が「唯一の立法機関」であり、それ以外の場所で勝手に法律を作ることは許されないのですね。
 ところが現状では、その流れが完全に無視されている。この41条をはじめ統治について定めた憲法の条文は、すでに実質的に改変されていると言ってもいいと思います。

──そうすると、改憲で緊急事態条項が創設されたとしても、それは急に危険な仕組みが持ち込まれるというよりも、すでに進行中の事態をさらに堂々と進められるようになってしまうというふうに見るべきでしょうか。

志田 そうだと思います。すでに進行していることにお墨付きを与える、法的根拠を与えることになるのではないでしょうか。

国民主権の無視は、国のかたちそのものを変えること

──統治に関する憲法の条文が実質的に改変されている、とおっしゃいました。よく「9条はすでに形骸化している」といわれますが、9条だけではないということですね。

志田 そのとおりです。実質的に無視されている条文は、他にもたくさんあります。
 そして、それによって日本は、憲法によって形づくられていたのとはまったく違う国になりつつあると言えるかもしれません。憲法研究者の間の通説では、「正当な憲法改正手続きを踏んでも変えてはならないコアな部分が憲法にはある」ということになっています。そのコアな部分まで変えてしまったら、単なる憲法改正ではなくこの憲法そのものを捨て去る、廃棄してまったく別の国になろうとするのに等しいからですね。
 その、変えてはならないコアな部分の一つが国民主権です。「国権の最高機関」である国会が無視されている現状は、その国民主権が実質的に機能していないということでもあります。このままいけば、今までまがりなりにもなんとか実現されてきた人権保障や福祉制度など、私たちの生活を支えてきたさまざまなシステムが、バケツの底が抜けたようにどんどん壊れていく可能性があると思います。

──そうした状況に歯止めをかけることはできないのでしょうか。

志田 本来は、憲法81条の「一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するか しないかを決定する権限」──違憲審査権を有する最高裁判所が動くべきなのでしょうが、なかなかそうはなっていません。最高裁は、違憲審査権の範囲を非常に狭く自己抑制していて、「具体的なこの権利を侵害された」という人が原告になっての事件の形をとっていないと、憲法判断を下すことはしないのです。
 国会が無視されている、統治についての憲法の条文が実質的に改変されているというのは、本来は国民みんなが被害者だともいえる話なのですが、最高裁からすれば「具体的に目に見える損失を被っている被害者はいない」ことになってしまう。仮に誰かが訴え出たとしても、「憲法違反だ」と判断が下されるかといえば、非常に望み薄だと思います。本当なら、訴え出てきた原告は国民の代表であって、その背後には民主主義の担い手としてきちんと扱われるという権利を侵害された1億人あまりの人たちがいるんだと考えて、最高裁はしっかりと判断をするべきだと思うのですが。

──最高裁にも期待できないとなると、状況を変えていくために私たちにできることはあるのでしょうか。やはり声をあげていく、意思表示をしていくことですか。

志田 そうですね。今はポピュリズムの時代だといわれるけれど、それを逆手にとって、「この方向性を目指してくれるリーダーなら認めるよ」と私たち有権者が示していければ、流れは変わるかもしれないと思っています。そうなれば、最高裁もきっと変わってくるでしょう。
 日本の政治においては長く、正面から政策論議をせず、イメージだけで票を集めるような手法が取られてきました。その背後にいたのが大手広告代理店ですが、東京五輪の談合事件などを見ても、その広告代理店がひどいやり方で利益を中抜きしていたことが明らかになりつつあります。これを機会に、もうこんなことはこりごりだ、しっかりと私たちの生活を守るために仕事をしてくれる政治家を選びたいんだと本気で声をあげれば、候補者もそれを無視できなくなる。票を得るためには、まっすぐに政策論議をするしかないんだと思わせることができれば、少しずつでも状況を変えていくことができるのではないかと思います。

(取材・構成/仲藤里美)

しだ・ようこ 1961年生まれ。武蔵野美術大学造形学部教授(憲法学)、東京都立大学システムデザイン学部客員教授。著書に『「表現の自由」の明日へ』(大月書店)、『映画で学ぶ憲法(Ⅰ・Ⅱ)』(編著、法律文化社)、『日本は本当に戦争に備えるのですか?』(共著、大月書店)など。

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