伊藤真さんに聞いた:閣議決定が濫用される「国民無視」の政治。変えられるのは「憲法を持つ私たち」

「重要そうなことが知らないうちに決められていた」──近年の政治を見ていて、そんな印象を抱いている人は多いのではないでしょうか。国全体の方針が閣議決定だけで決められて、あれよあれよという間にいろいろなことが変わっていき、平和主義も国民主権も無視されているような状況。「それでも、憲法は死んでいない」と言うのは、「憲法の伝道師」こと伊藤真さん。政治が国民の声を反映していないように思えるのはなぜなのか、そしてそれを変えていくためにはどうすればいいのか。憲法記念日にあわせ、改めてお話をうかがいました。

国民の意思と政治のあり方に、乖離が生じている

──前回インタビューさせていただいたのは、ロシアのウクライナ侵攻からまもない2022年の3月でした。そこから2年が経ちますが、この間政治の場で起こってきたことを、「憲法」の観点からはどう見ておられましたか。

伊藤 まず、さまざまな決定を行うための手続き面において、議会制民主主義や国民主権が非常にないがしろにされてきた2年間だったといえると思います。
 22年の7月には安倍晋三元首相の「国葬」の実施を閣議決定。そして、その年の暮れにはいわゆる安保関連三文書の改定が閣議決定され、敵基地攻撃能力の保有方針が定められました。さらに23年末には国家安全保障会議(NSC)で防衛装備移転三原則と運用指針の改正が決定、24年3月にも国際共同開発する防衛装備品の第三国輸出容認が閣議決定され、防衛装備移転三原則の運用指針改定もNSCで行われました。
 そのように、国のかたちを大きく変えるような重大な決定が、国会でのまともな議論のないままにどんどん押し進められてきてしまった。たとえば安保三文書の改定にしても、当時の防衛官僚と、一部の与党議員だけが出席する場で決められてしまって、与党の中ですらまったく知らされていなかった議員が大勢いたといいます。特に、そうした軍事的な問題は本来、国民の生活や命に直結する問題ですから、もっとも民主的にコントロールされなくてはならない。いわゆるシビリアンコントロールがしっかりと及ばなくてはいけない分野なのですが、まったくそうなってこなかったといえます。

──そうして「決定」された内容も、今挙げていただいたように、憲法上大きな問題があるのでは? と感じるものばかりでした。

伊藤 憲法「改悪」を先取りするような形で、日本がアメリカと一緒に「普通に」戦争する国に向かってどんどん突き進んできたということだと思います。
 ちょうど10年前、2014年に「集団的自衛権の行使容認」が閣議決定されました。それまで、憲法9条がないがしろにされているとは言っても、ぎりぎり守られていた一線はあった。それが突破されてしまったわけです。そこから、もはや憲法9条なんていうものはないかのように、軍事面における憲法的抑制のタガが外れ、日米の一体化が急速に進められてきたと感じます。

──実質的に9条はすでに変えられてしまったようなもので、もはや自民党も本気で明文改憲は目指していない、彼らがいう「改憲」は、それを求める一部の層へのリップサービスに過ぎないのでは? という声もあります。

伊藤 たしかに、そういう面もあるかもしれません。でも、岸田首相は施政方針演説のたび「改憲」に触れ、最近では「条文案の具体化」にまで踏み込んだ発言をしています。何かの拍子に、こうした動きが改憲の実現につながってしまう可能性は十分にあるでしょう。
 そして、首相の前のめりな発言とは裏腹に、改憲の内容について国民の理解を得るとか、国民投票法などの改憲手続きを整備するとか、本来なら先に議論すべきことの多くが置き去りにされたままです。ここでもやはり、国民の意思はまったく無視され、首相や一部の国会議員が先走っている状況があるわけですね。当然ながら、本来憲法を変えられるのは主権者である国民だけ、首相や国会議員には憲法99条に定められた憲法擁護尊重義務もあるわけですから、非常に大きな問題だと思います。

──安全保障以外の分野についてはどうでしょう。憲法と関連して、気になっておられることなどはありますか。

伊藤 ジェンダー平等や性の多様性といった問題に関しては、これだけ世の中の意識が高まっているにもかかわらず、いっこうに法整備などに向けた議論が進んでいません。選択的夫婦別姓や、同性婚の導入などがまさにそうですね。こうした問題に対して保守的な考え方を持っている議員が多いというだけでなく、旧統一教会はじめ特定の宗教団体などの価値観を政治行動にそのまま反映させている議員が少なくないということではないでしょうか。ここでも、主権者国民の意思は置き去りにされている──というか、国民のほうが進んでいて、政治が追いついていないと言ったほうがいいのかもしれません。
 先ほど、安全保障については政治が「戦争する国」に向かって突き進んでいると言いましたが、実際に「戦争する国になりたい」と思っている国民は、おそらく決して多くはないでしょう。つまり、軍事面においては政治が完全に先走って国民を置き去りにし、人権などの問題については逆に、国民が先に進んでいるにもかかわらず政治がブレーキをかけている。二つの側面から、国民の意思と政治との間に乖離が生じていて、国民──この国に暮らす人々の思いが政治にいっこうに反映されず、人々が求める社会のあり方になかなか近づいていかないということなのだと思います。

国会が「国権の最高機関」である意味とは

──国民の意思と政治とが乖離しているというお話ですが、本来であればその溝を埋めるのが国会なのではないかと思います。憲法第41条は国会を「唯一の立法機関」であると同時に「国権の最高機関」であるとも定めていますが、ここにはどのような意味があるのでしょう。

伊藤 国権の最高機関であるというのは文字通り、国会・内閣・裁判所の三権の中でもっとも重要な、まさに最高の機関であるということです。ただ、だからといって国会が一番上で、その下にある内閣や裁判所を統括するんだ、という意味ではありません。ご存じのとおり、国会が作った法律を裁判所は違憲無効にすることができますし、内閣も衆議院の解散などの権限を持っている。法的には三権のバランスが取れていて、国会の権限だけが特に強いというわけではありません。それでも、国会が非常に重要な機関であり、尊重されるべき存在だということを強調するため、ある種の「政治的美称」として「国権の最高機関」という言葉が使われているわけです。

──では、なぜ国会は「もっとも大切な機関」なのでしょう?

伊藤 それは、主権者国民にもっとも近いところに位置する国家機関だからです。
 なぜそう言えるかといえば、一つは憲法43条1項にある「両議院は、全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する」。つまり、国会議員は国民すべての代表だということですね。
 次に、憲法前文にある「われわれ日本国民は正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し」。要するに、国会議員の行動はそのまま、主権者である国民の行動だと法的には見なされるわけです。代表民主制、間接民主制といわれる仕組みですね。国民は直接国を動かす仕事はしないけれど、自分たちを代表する国会議員を通じて行動することができる。逆にいえば、それこそが国会議員の存在意義だといえるでしょう。

──そうであれば本来、国会は国民の意思を反映して動くことになるはずですが、そうなっているとは思えません。

伊藤 先に挙げた前文に「正当に選挙された」とありますね。つまり、国会議員が国民を正しく代表する存在であるためには、「正当な選挙」が前提として必要なのです。
 私は、その「正当な選挙」というのは、人口比例選挙だと考えています。議員一人あたりの有権者数が全国どこでも平等になるように選挙区を定め、有権者の一票の重み、すなわち政治的発言力がみな同じになるようにした選挙のことです。
 今の日本ではそうなっておらず、選挙区によって一票の価値が大きく異なる、いわゆる「一票の格差」が大きい状態が続いています。結果として、国民の多数が選んだ議員が国会の多数を占めるという当たり前の状況が実現していない。たとえば、現在の衆議院では自民・公明の与党が全議席の約62%を占めていますが、そこに投票した有権者は約47%、全体の半数にも満たないというねじれが起こっているのです。
 つまり、主権者である国民の意思を正しく反映しない選挙制度になってしまっている。あたかも国会議員が主権者であるかのようです。その制度によって選ばれた議員で構成される国会が、果たして「国権の最高機関」といえるでしょうか。こうした状況が、内閣支持率がこれだけ下がっているにもかかわらず政権交代には結び付かず、国民が求めているものとはかけ離れた政治がまかり通ることを許してしまっているのだと思います。でも、国会議員主権など許されない。11ブロック制(※)という人口比例選挙を実現する方法がすでにあるのですから、早急に主権を国民の手に取り戻さなければなりません。

※11ブロック制……衆院比例選挙でも採用されている、全国を11ブロックに分ける選挙制度のこと。一票の格差是正のための改革案として、参院で公明党などが提示している

「全国民の代表」の自覚を持たない国会議員たち

──さらに、選ばれた国会議員の側も、自分たちが「全国民の代表」であり、「自分たち議員の行動が国民の行動」だという自覚を、どのくらい持っているのだろうと疑問に思います。

伊藤 たしかに、全国民の代表であるという意識が乏しい国会議員は与野党問わず多いと感じますね。全国民ではなく自分の選挙区、あるいは支援団体や支持母体の利益になるように行動しているのでは? と思える議員が多い。逆に有権者の側も、たとえ自分の選挙区選出の議員でも、その人は選挙区民だけではなく全国民のことを考えて行動するべきなんだということが認識できていないのではないでしょうか。一票を入れたんだから、献金してるんだから、自分たちの地域や団体の利益になるような活動をしてくださいという思いを持っている人が少なくないように思います。でも、それは本来憲法が想定している国会議員のあり方ではないのです。

──なぜそうなってしまうのでしょう。

伊藤 以前調べてみたことがあるのですが、日本の国会議員の前職は大半が政治家の秘書や地方議員、つまり政治に関わる職業なんですね。世襲議員も非常に多いし、国会議員が「職業」になっているということなのでしょう。
 一方、世界には、政治と直接的には関係ない仕事──たとえば企業経営者や学者、弁護士などから国会議員に転身するケースが多い国もたくさんあります。任期中は政治家として仕事をするけれど、それが「職業」だというわけではないので、そこまで地位にしがみつく必要はない、任期を終えたり落選したりすれば、またもとの仕事に戻ればいいということになるわけです。
 ところが日本のように議員が「職業」になってしまっていると、「落ちたらただの人」などと言われるように、選挙で負けたら終わり、という感覚が非常に強くなる。結果として、地盤や支援団体の支持を失うことを恐れて、国民全体ではなく選挙区や支援団体の利益に沿って動いてしまう議員が多いのではないでしょうか。これは、非常に根深い問題だと思います。
 あともう一つ、党議拘束が非常に強いのも日本の政治の特徴です。法案などに賛成するか反対するかを所属する政党が決めて、議員はそれに従うだけ。「なぜ賛成するのか」「反対の理由は」などと自分の意見を持つ必要がないわけですから、「全国民の代表として行動するんだ」という意識は生まれにくいですよね。

──4月に離婚後の共同親権の導入などを含む民法改正法案が衆議院で可決された際、自民党の野田聖子議員が党議拘束に反し、「反対」票を投じて話題になりましたね。

伊藤 それが「造反」という形で報道されるのは本当におかしいと思います。本来なら議員一人ひとりが全国民の代表として責任を全うするために、何が国民の利益になるのかを自分で考え抜いて投票行動をするのが当たり前。「この法案はよくない」「議論が不十分だ」と思ったのなら、反対票を投じることも、当然あっていいはずではないでしょうか。

──党議拘束に従うということは、その党の支持基盤となっている団体の意図を汲んだ投票行動になってしまう可能性も高いですね。

伊藤 そう、やはり全国民ではなく特定の人たちの声だけを拾い上げるということになってしまいかねません。
 そうして、「職業」である議員の地位を守ることにひたすら力を注いで、国会では党議拘束に従って投票する。そんなことをしていれば、議員の政策形成能力も議論する能力も鍛えられるはずがありません。本来憲法が想定している「国権の最高機関」として国会が機能していない原因は、そういうところにあるのではないかと思います。

「変えられるかどうか」を決めるのは、国民の意志と意欲

──それにしても、これだけ国会を無視した政府の暴走が続き、9条があるにもかかわらず武器輸出や敵基地攻撃も可能とされてしまう……という状況では、もはや立憲主義は崩壊しているのではないか、憲法は完全に空文化してしまって、意味を持たなくなっているのでは? とすら考えてしまうことがあります。

伊藤 でも、私たちには今も、選挙権があって自由に投票できるし、表現の自由も保障されていて、おかしいと思ったことに対して声をあげることもできます。これは憲法がそうした権利を保障してくれているからであって、保障されていない国も世界にはたくさんある。選挙権を行使できる、表現の自由も行使できるというのは、実はすごいことなんですよ。憲法が「行動しようと思えば行動できる」社会を作ってくれているんですね。
 だから、たしかに憲法無視の政治が続いてはいるけれど、憲法や立憲主義そのものが死んでしまったわけではまったくない。この政治の状況を変えるだけの力を、憲法はすでに国民に与えてくれているんです。問題は主権者である国民がその力を十分に行使して、政権交代などにつながるうねりを作り出せていないこと。政治を変えることができるかどうかは、すべて主権者国民の意志と意欲に委ねられているのだと思います。

──意志と意欲ですか。

伊藤 自立した市民として主体的に生きる意志、と言ってもいいかもしれません。政治のことはよくわからないから政治家に任せる、困ったことがあっても少し文句を言うくらいで「まあ、仕方がないよね」とあきらめてしまう……これでは戦前、天皇や国に絶対服従だった「臣民」と何も変わらない、表現は悪いですが愚民と言わざるを得ません。
 非立憲的な、憲法に縛られずに好き放題やりたいと考える政府は、私たちがそうした臣民、愚民であり続けることを歓迎します。そうならないために、私たちは口うるさい、もの言う市民でいなくてはいけない。自立した市民として行動し、おかしいことはおかしいと言い続ける。政治家に、旧統一協会問題も「裏金」問題も「しばらくすれば国民は忘れてしまうから大丈夫だ」なんて思わせてはいけないのです。 
 毎日の生活で手一杯なのに、平和だ人権だ、政治に関心をなんて言っていられない、そんなことができるのは余裕のある人だけだという声を聞くこともあります。そしてそれはある意味、そのとおりだとも思います。ある程度生活に余裕がないと、政治を変えるために行動するなんてこと、なかなかできませんよね。だからこそ、非立憲的な政府というのは経済格差を広げようとするんだと思います。
 でも、「余裕がないから」と声を上げなかったら、ますます社会は悪くなってしまう。よく「選挙に行っても何も変わらない」と言いますが、それは言い換えれば、行かなかったらもっと悪い方向に変わってしまうということ。せめて選挙で一票を投じることが、自分たちの生活を守るためにも不可欠なのではないでしょうか。
 同時に、憲法が想定しているような民主主義を実現するためには、貧困や格差の問題を是正していくことが大前提だということも、忘れてはいけないと思います。こうした問題もまた政治の問題であり、紛れもない憲法問題なのです。

──声を上げる、行動するというのは決して楽なことではありませんが、民主主義とはそもそも面倒くさいものなんだとも言われますね。

伊藤 そう、面倒くさいものです。今の世の中は「タイパ(タイムパフォーマンス)」なんて言葉があるように、徹底的に「面倒くさい」ことを嫌って無駄を省こうとするけれど、一見無駄に見えて実は意味があるということもたくさんあるんですよね。
 この30年ほど、新自由主義の広がりの中で、ものごとの価値を測る「ものさし」が、非常に単純化されてきてしまったように感じます。経済的利益につながるか、効率的かどうか……そうした観点で、すべてが評価されてしまう。でも本来、価値を測るものさしというのはもっと多様であるべきだと思うのです。
 たとえば、車いすを使っている人のためにスロープを作っても、利用する人はほんの一部なわけで、経済性や効率性から考えれば無駄だということになるかもしれません。でも、経済性、効率性だけでは計れないところにも価値がある。そういう意識を共有し、多様なものさしのあり方を認めていくことこそが、みんなが幸せに生きられる、平和で自由な社会へとつながるのではないでしょうか。その意味でも、「面倒くささ」を受け入れて、声を上げ、行動し続けることは、私たちにとって、とても重要なことなのだろうと思うのです。

(取材・構成/仲藤里美)

いとう・まこと●伊藤塾塾長、弁護士、法学館憲法研究所所長。司法試験合格後、真の法律家の育成を目指し、司法試験の受験指導にあたる。日本国憲法の理念を伝える伝道師として、講演・執筆活動を精力的に行う。日弁連憲法問題対策副本部長、安保法制違憲訴訟全国ネットワーク代表、弁護士として「1人1票実現運動と裁判」にも取り組む。『安保法制違憲訴訟』(寺井一弘氏との共著、日本評論社)、『9条の挑戦 非軍事中立戦略のリアリズム』(神原元氏、布施祐仁氏との共著、大月書店)など著書多数。

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