『パンとサーカス』(島田雅彦著/講談社)

 昨年12月、沖縄駐留米空軍の兵長が16歳未満の少女を自宅に連れ込み性的暴行を行って、今年3月に起訴された。わが国の外務省は同月に把握していたにもかかわらず、起訴後3カ月間公表しなかった。今月18日夜、神奈川県横須賀市で米海軍横須賀基地所属の軍人が運転する乗用車が右折した際、オートバイと衝突。オートバイに乗っていた日本人の若者が死亡した。現場の五差路交差点は乗用車側の右折が禁止されていた。現場に警察官が駆けつけたとき、すでに男性軍人は憲兵隊とともに基地に戻っていた。
 日本の立ち位置を象徴するような最近の事件である。米国の属国。本書は、そこから脱するための物語だ。
 主人公のひとり、御影寵児は東大法学部卒。ニューヨークのコロンビア大学で哲学の修士課程へ進んだ際、CIA東アジア分析部人事担当のダン・グレイスカイにリクルートされる。グレイスカイは、いわゆるジャパン・ハンドラー(日本を操る者)である。その申し出を受けた(断ることはもはやできない)寵児は日本に戻り、アジア政策研究センターなるシンクタンク──実態は米国が日本を統治するための司令室──の研究員となる。主な任務は、米国にとって危険な人物の身辺を洗うこと、組織の内部にいる裏切者(二重スパイ)=モグラを見つけ出すこと。
 後者であるモグラの一人に日本人の寡黙な上級研究員、通称「ミュート」がいた。ミュートが中国国家公安部に内部情報を流していることを寵児が突きとめると、ミュートはアジア政策研究センター所長、トム・グリーンウォーターによる査問の場で長らくの沈黙の後、意を決したように饒舌になった。
 「アメリカは日本を守る気がないし、中国と戦争するつもりもない。それなのに日本は核の傘に守られていると思いたがり、中国がミサイル攻撃を仕掛けてきたら、アメリカが反撃してくれると信じている。こんな国家規模の詐欺にはこれ以上、付き合っていられない」
 防衛省でミサイル防衛のシステムを米軍と共同で構築してきた「ミュート」は、もし日中間で軍事衝突が起これば、中国軍が2000発以上保有する、日本全土を射程に収めた中距離ミサイルが自衛隊や在日米軍の空港や港、指揮系統や通信のシステムを標的とし、艦船や戦闘機を出撃前に破壊すると指摘する。米国はそれでも戦闘に踏み切らない。日本が爆買いしたF35戦闘機を発進させることもなく、日本が焦土となっても、重慶や武漢に核攻撃を行うことはない。報復としてシアトルやサンフランシスコにキノコ雲が上がることを懸念しているからだ。ミュートは、アジア太平洋の軍事バランスが崩れれば、ハワイさえ奪われかねないと米国は考えていると喝破する。
 ミュートはその後、人知れず消された。寵児の頭には彼の言葉が残った。それでも通常の任務を続けていると、寵児の高校時代の友人、広域暴力団・火箱組の跡取りである火箱空也の存在が浮かび上がってきた。空也が右翼の大物と組んで、反米独立のテロを画策しているという不穏な動きを感知したのである。寵児はグレイスカイの命令で諜報活動を開始するが、やがて彼は空也、そして空也の異母妹である桜田マリアに共感し、戦線に加わるのである。
 空也やマリアが行っているのは単なる破壊工作ではない。米国に盲従する日本の政権を交代させることであり、寵児は日米間で不当な利権をむさぼっているグレイスカイを追い落とすことまでを射程に入れている。諜報員として身につけた寵児の頭脳と体力、空也の人心掌握術と腕力、無垢で倫理的、ときに戦闘性に富んだ言葉で2人を勇気づけるマリアを中心に、物語はCIAの策略なども絡みながら進む。
 権力者は平民にほどほどの食べるものと娯楽を与えておけば、多少不満はあっても自分たちに歯向かうこともないと高を括る。そのメタファーが「パンとサーカス」だ。本書では、反逆者が現体制をひっくり返そうとする行動そのものがサーカスだ。楽しみはこれからだと宣言するエンターテイメントのように。
 島田雅彦のデビュー作は、現役の大学生の時に書いた『優しいサヨクのための嬉遊曲』である。ぼくは著者と同世代にもかかわらず──いや同世代だったからか──氏の文章に接することをあまりしなかった。それでも当時の『朝日ジャーナル』に連載された筑紫哲也によるインタビューシリーズ「若者たちの神々」に登場した島田が「文学が芸術における最高の表現形式だと思って書く」と語っていたことをいまも覚えている。
 なるほど本書を読むと、現代日本の閉塞的な状況を変えるための最高の表現形式といえるかもしれない。
 ジョン・ル・カレ、あるいはフレデリック・フォーサイスとは異質、ヒューマンな色の濃いグレアム・グリーンのスパイ小説とも違う。もっと痛快な文学の誕生である。

(芳地隆之)

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