『シビル・ウォー アメリカ最後の日』(2024年米国/アレックス・ガーランド監督)

 タイトルのとおり、アメリカの内戦を描いた映画である。それがなぜ勃発したのかの説明はない。アメリカ合衆国に反旗を翻したカリフォルニア州とテキサス州によるWF(Western Forces=西部同盟)が、ワシントンD.C.に向って進撃している状況が、すでに起こっているものとしてある。長く戦場で多くの報道写真を撮ってきた女性フォトグラファーのリー、男性記者のジョエル、2人の大先輩に当たる老記者のサミー、そしてリーに憧れ、自身もフォトグラファーを目指すジェシーの4人が、ホワイトハウスで大統領にインタビューするため、「プレス」と記された車に乗ってニューヨークから首都を目指すところから物語は始まる。
 目的地に向かう途中で4人は、砲撃を受けた建物、炎上した自動車、通りに捨て置かれた死体、民兵と彼らにとらわれた血まみれの男たちと遭遇し、内戦に一切関わろうとしない、ただただ日常を送ろうとしている町や、クリスマスソングが流れるなか物陰からスナイパーが標的を狙っている緑地公園を通過する。
 「アメリカ人? どんなアメリカ人だ?」
 4人に途中から合流したジョエルの同僚であるアジア系の記者とジェシーがWFの民兵に拘束された。機関銃の銃口を2人に向けている男に、ジョエルが必死になって自制を求める。「同じアメリカ人ではないか」と。その際の返ってきた言葉がこれである。「アメリカ人」という表現にもはや同胞意識は宿っていない。彼らの掲げる星条旗の星は2つだけだ。
 この映画を観る私たちは「どうしてこんな状態になってしまったのか」と問う。と同時に、ドナルド・トランプ氏が大統領に就任した2016年以降から顕著になってきた、アメリカ合衆国の国民の分断を報じるニュースに接してきたことで、起こりうる光景なのかもしれないと思う。
 これから観る人は常に銃声を浴びることを覚悟した方がいい。その音はアメリカのアクション映画で聞きなれたそれとは違い、より大きく、より重く、より乾いている。観る者が銃口を自分に向けられているように感じるのは、銃社会のリアリティがそうさせるのだろうか。登場する民兵には引き金を引くことへの躊躇いがない。感情が激高することなく、あたかも普通のトーンで交わす会話の延長で発砲するのである。
 アメリカ合衆国では、不当な権力を行使する政府に人々が抵抗する権利=「抵抗権」が認められている。彼らにとっての抵抗権、自らは自らで守るとはこういうことなのか。南部11州が合衆国を脱退して「アメリカ連合国」を結成し、合衆国にとどまったその他の北部23州との間で戦争となった南北戦争(1861~1865年)はそんなに昔の話ではないのかもしれない。でなければ、あのようなラストシーンにはならないはずだ。アメリカ映画界の懐の深さというべきか、わが国の分断が進めば、われわれはこうなってしまうという危機意識の表れというべきか。
 戦闘シーンが断続的に続く。愉快でも痛快でもない映画体験になるだろう。が、アメリカという国の隠された内面を知るという一点において見る価値のある作品である。

(芳地隆之)

『シビル・ウォー アメリカ最後の日』(2024年米国/アレックス・ガーランド監督)
https://happinet-phantom.com/a24/civilwar/

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