第707回:生きていたら生誕祭に来て欲しかった3人〜鈴木邦男、塩見孝也、見沢知廉〜の巻(雨宮処凛)

 1月15日、イスラエルとハマスとの間で停戦が合意された。

 その後もイスラエル軍のガザへの攻撃は続くなど予断を許さない状況であるが、「停戦」という言葉の重みを噛み締めつつ、これ以上死者が増えてほしくないとただただ祈っている。

 そんな状況の中、ふと頭に浮かぶのは、「あの人が生きていたら、この状況になんと言うだろう?」ということだ。

 それは2年前に亡くなった鈴木邦男氏、そして2017年に亡くなった塩見孝也氏、また05年に亡くなった見沢知廉氏だ。

 鈴木さんは新右翼団体・一水会を作った人。塩見さんは元赤軍派議長。見沢さんは左翼から右翼に転向し、12年の獄中生活を経て作家デビューした人だ。

 いずれも私に多大な影響を与えた人たちで、20代前半のフリーター時代にこの3人と出会わなければ、絶対に「雨宮処凛」など誕生していないと断言できる。

 一番最初に会ったのは鈴木さんで、1996年頃。たまたまサブカル系イベントの打ち上げで隣になったぼーっとしたおじさんが「右翼の鈴木邦男」だと知った時は衝撃だった。以来、いろいろな集会に誘われ、多くの危険人物を紹介してくれるようになる。

 その次に会ったのが見沢さん。当時売れっ子作家だった見沢さんのイベントに行って知り合ったのだが、私がリストカットしていることなどを話すと、「お前のように何もなく何者でもない人間は革命家になるしかない」と物騒なことを言い出し、私を右翼や左翼の集会に連れていってくれた。結果、私は20代前半で右翼団体に入ることになる(2年で脱会)。

 その次に会ったのが塩見さん。ロフトプラスワンのイベントに行ったらいきなり「平壌に行こう!」とメチャクチャな誘いをしてきたのが初対面で、断りきれずに「はい」と答えたことにより、私は人生初の海外旅行で北朝鮮に行くことになる(北朝鮮にはハイジャックした赤軍派がいるため塩見さんはよく行っていた)。結局5回行き、日朝会談直後にはガサ入れまでされる羽目になった。

 このように、この3人との出会いによって私の人生はおかしくなっていき、現在のような仕上がりとなったわけである。いわば「製造物責任」者。そんな3人は私に「世界を見せてくれた」人でもあり、そのことについては深く感謝している。

 鈴木さんは何よりも、とにかく右翼や左翼の人を山ほど紹介してくれた。本でしか読んだことがないリアル右翼左翼との出会いは、私の人生観を大きく変えた。

 見沢さんは、より突っ込んで、右翼とは、左翼とはという英才教育を施してくれた。また、フリーターで、何かしたいけど何をしていいかわからなかった当時の私にとって、作家として生きる見沢さんの姿を見られたことは得難い経験だったと改めて思う。見沢知廉がいなければ、私は決して物書きになどなっていないと断言できる。

 塩見さんには、初めての海外旅行で北朝鮮という体験をさせてもらった。これをきっかけに、私は多くの国に行くようになる。そんなふうに「世界」への扉を開いてくれた人であることは間違いない。

 そうして振り返れば、彼らとの出会いはもう30年近く前。出会った当時、鈴木さんは50代前半、塩見さんは50代なかば、見沢さんなんてまだ30代ということに思い至り、驚愕した。

 なぜなら、私は今月末で50歳を迎える身だからだ。あと数年すれば、出会った頃の鈴木さんの年になるのである。

 そんな3人を振り返り、改めて驚くのは、私のような若手を「育てる」ことを当たり前にしていたことだ。

 ある時期まで、塩見さんなんかが私のことを「自分が育てた」みたいに言うのがすごく嫌だった。しかし、集会に誘ったり、勉強させたり海外に誘ったりと、彼らは確実に私を「育てて」くれていた。何者でもなく、どこの誰とも知れない人間を。

 それってすごいことだと、50歳を前にした今思う。なぜなら、今の私は自分より下の世代を「育てる」などの感覚など、まったく持っていないからだ。

 ちょっと想像しただけでも、「面倒」「無理」という言葉が浮かぶ。それなのに、彼らは私に対してだけでなく、寄ってくる若者たちを当たり前のように受け入れ、交流を深めていた。

 鈴木さんはとにかく若者たちを集会なんかに誘ってたし、塩見さんもやはり多くの若者を北朝鮮に連れて行ってたし(これは自分がそうしたかったのが大きい)、見沢さんに至っては、自分を慕う「弟子」に部屋を借りてあげて生活費の面倒まで見ていた時期もある。作家たるもの、弟子にはそういうことをして当然と思っているようで、まるで「昭和の文豪」のようだった。

 なぜ、あの人たちはあんなに優しかったのだろう。見沢さんの享年(46歳)をとっくに追い越し、鈴木さん、塩見さんと出会った頃の年齢に近づいている今、改めて思う。

 周りを見渡しても、自分と同世代で「若手を育ててる」なんて話は滅多に聞かない。その背景には、氷河期世代ゆえキャリア形成ができなかった人が多く、未婚率も高いロスジェネ特有の事情もあるのかもしれない。なんとなく、いつまでも「若手感覚」が残っているというような。

 また、今は立場を利用してのセクハラやパワハラが大きな問題になってもいる。「若手を育てる」なんて人は、下心を疑われる時代かもしれない。

 さて、しみじみとこの3人を思い出しているのは、1月27日、生誕祭を迎えるからだ。

 生誕半世紀とデビュー25周年を記念するイベントを開催するにあたり、まず頭に浮かんだのがこの3人だ。生きていたら、絶対ゲストに呼んだのに、と。

 しかも会場はロフトプラスワン。塩見さん、見沢さんに初めて出会った場所であり、鈴木さんのイベントでも山ほど来た場所。そしてこの3人と何度も登壇した場である。

 そんな場所で開催される生誕祭。

 第一部のゲストはロフト席亭の平野悠さん。ここまで書いた3人と平野さんとよくつるんでいたのが私の20代から30代前半だった。しかも鈴木さん、塩見さん、平野さんとは一緒にイラクにも行っている。3人がいない今、生きてるのは平野さんだけ。そうして私はデビュー25周年だが、ロフトプラスワンは今年で30周年。ということで、平野さんといろいろなことを振り返りたい。

 第二部のゲストは、ゴールデンボンバーの歌広場淳さんと、サイコ・ル・シェイムのseekさん。突然異世界になるが、私がここまで生きてこられたのは「推し」の存在が大きい。命の恩人である。二部はバンギャに振り切る所存だ。しかも私は『バンギャル ア ゴーゴー』という小説も出版している。

 そうして第三部のゲストは山本太郎さん。

 第一〜三部でまったく違う世界が出現し、私の人格もまったく変わることが予想されるが、一粒で3度美味しいと思ってもらえたら嬉しい。いったいどんな展開になるのか、当の私もまったく予測不可能だ。

 が、次の人生のイベントが葬式くらいしかない上、こんなトチ狂った生誕祭、後にも先にも絶対一度きり。世の中を見渡せば嫌なニュースばかりで暗い気持ちになるけれど、1日くらい、「今生きてること」を寿ぐ日があってもいいではないか。

 ということで、ぜひ参加して「時空の歪み」を体験し、歴史の証人になってほしい。

 ※「雨宮処凛生誕50年&デビュー25周年大感謝祭」、詳細はこちらで。チケットもリンク先から買えます。配信もあり。

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雨宮処凛
あまみや・かりん:作家・活動家。2000年に自伝的エッセイ『生き地獄天国』(太田出版)でデビュー。06年より格差・貧困問題に取り組む。07年に出版した『生きさせろ! 難民化する若者たち』(太田出版/ちくま文庫)でJCJ賞(日本ジャーナリスト会議賞)を受賞。近著に『死なないノウハウ 独り身の「金欠」から「散骨」まで』(光文社新書)、『学校では教えてくれない生活保護』(河出書房新社)、『祝祭の陰で 2020-2021 コロナ禍と五輪の列島を歩く』(岩波書店)。反貧困ネットワーク世話人。「週刊金曜日」編集委員。