近年、増加を続ける女性自衛官の数。2023年時点で自衛官全体の8.9%を女性が占めているといいます。しかし、そうした女性の登用拡大は「ジェンダー平等の流れだけで実現してきたものではない」と指摘するのは、「軍事組織とジェンダー」の研究者である佐藤文香さん。「警察予備隊」としての出発から75年、自衛隊という軍事組織の中で女性たちにどのような役割が期待されてきたのか。その変化を振り返りながらお話しいただきました。【2025年1月17日@東京校】
軍事組織とジェンダー
私は長年「軍事組織とジェンダー」についての研究を続けています。
「女性の軍隊への参加」というと、フェミニズムの流れがついに軍隊にも及んだという形で整理されてしまうことが多いのですが、実際にはフェミニストの大半は女性の軍隊参加には批判的、もしくは無関心だったというのが実情です。もちろんリベラリズムの立場から、軍隊を含めたありとあらゆる領域の男女平等を推し進めるべきだとする人たちがいなかったわけではありませんが、それが大勢を占めてきたということはありませんでした。
軍隊の側にも、女性への門戸開放は「外からの圧力による結果」であり軍事力を損ないかねない危機であるというある種の被害者意識がありました。本来、「国民を守る」という任務から考えれば、男性だけで構成されるのが軍隊のあるべき姿なのに、世情に流されて女性を受け入れざるを得なくなった、といった見方ですね。ですが、実際には、こうした動きは単に軍隊の外側からやってきたわけではありませんでした。軍隊の指揮官などの中にも、女性への門戸開放を積極的に支持する人たちがいたのです。では、それは何ゆえだったのかを考える必要があると思います。
社会学においては、軍隊とは市民社会の縮図のようなものだとも言われます。軍隊のあり方を見れば、その国がどのようなジェンダー秩序によって成り立っているかを理解することができる。軍隊は民間企業のように「建前」を必要としない分、私たちがどういう社会に生きているかということを非常に端的に示してくれるのです。
また、軍隊とはジェンダー構築の決定的な場でもあります。私たちの社会がどのような「男らしさ」「女らしさ」を良いものと見なしているのか考えるとき、軍隊は非常に重要です。日本においても、軍事組織──自衛隊におけるジェンダーのあり方に注目することは、社会のあり方を考える上で不可欠だと感じています。
本日の講演タイトルは「カモフラージュされた軍事組織」としました。カモフラージュとは、辞書的にいえば「可視的な存在を周囲に溶け込ませることで認識不能にする隠蔽の手段」です。
憲法9条を持つ日本において、自衛隊はその設立の経緯から、自らの持つ軍事的性質を「カモフラージュ」し、市民社会に溶け込むことに心を砕き続けてきました。その中で、地味に、しかし着実に、重要な役割を果たし続けてきたのが女性自衛官たちです。
自衛隊における女性の包摂は、どのように進んできたのか。そして、そこにはどういった理由があったのか。自衛隊における「女性」の歴史を4つの時期に区分しながら考えていきたいと思います。
第1期「再出発の時代」
自衛隊における女性の歴史、第1期は1950年代〜60年代初頭まで、「再出発の時代」です。第二次世界大戦敗戦で日本は完全非武装化されますが、1950年に米ソ冷戦に半ば巻き込まれる形で警察予備隊が発足。その後52年に保安隊、54年に自衛隊とバージョンアップされていくことになります。
戦後のこの「再出発」の時代から、女性たちはこの軍事組織と関係をもっていました。警察予備隊の時代には一般職員として、そして保安隊となってからは看護職の保安官としてです。婦人保安官制度の発足にあたっては、保安隊長が陸軍病院の看護婦長だった女性に、募集に応じてくれるよう頼み込んだという記録も残っています。それほど、女性の存在が必要とされていたわけです。
民間の労働領域で性別役割分業が強固な場合、そこで女性が占めている機能については、軍隊も女性に依拠せざるを得なくなります。このときの看護職がまさにそうでした。民間でも看護職を担うのは専ら女性たちだったので、軍隊もまたそこに頼るしかなかったわけです。
ただもう一つ、女性が求められた見逃せない理由として、「旧日本軍との差異化を図りたい」ということもあったでしょう。戦後まだまもない当時、人々の間には「軍隊アレルギー」が根強く、自衛隊に対しても、旧軍と似たような組織になっていくのではないかといった懐疑的なまなざしがありました。事実、訓練コストの問題もあって、隊員の過半数は「すぐ使える人材」である旧軍人によって占められてもいたのです。そうした中で、「われわれは旧軍とは違う新しい組織なんだ」と示す際、女性の存在は非常に有効に機能したのではないかと思うのです。
第2期「絆固めの時代」
続いて第2期は、1960年代から70年代にかけて。「絆固めの時代」と名付けてみました。
この時期には、自衛隊における女性の数と領域が急速に拡大しました。1968年には陸上自衛隊の中に「婦人自衛官制度」が設けられ、「看護職」のみだった女性の登用が、会計や事務などの「支援職」へと広がります。
この背景を、当時の防衛庁長官官房長で、婦人自衛官制度の「産みの親」となった海原治がのちに振り返っています。たまたま視察に行ったある補給廠(ほきゅうしょう)で、男性隊員が物の整理作業をしていた。それを見て「大の男がこんなことをやっていてはダメだ」と思い、「男は表で機関銃を担いで走り回る、婦人が整理をする、そういうふうになるべきだ」と考えたというのです。
ここにあるのは、「男性を有効活用したい」という思いです。整理作業などに男性自衛官を使うのはもったいない。むしろそういうことは女性のほうが得意なんだから任せて、男にはもっと表の仕事をやらせるべき──そうした、性別役割分業的な考え方がはっきりと見て取れます。
ただ、当時の自衛隊エリートたちは、こぞって女性自衛官登用に反対の声をあげました。看護師ならばまだしも、支援職であっても自衛官として男の世界に女性たちが入ってくることには抵抗感がとても大きかったようです。
その抵抗を抑えるにあたって、大きな影響を与えたのが米軍における女性軍人のあり方でした。当時、米軍の陸軍女性部隊(WAC)は、日本だけでなく韓国やベトナム、ビルマ(現ミャンマー)など各地から女性軍人を受け入れて訓練を受けさせていました。それが、冷戦時代におけるアメリカの一つの外交戦略でもあった。つまり女性の軍人たちがある種の外交官的な役割を果たしてもいたわけです。
そのWACで初代長官を務めたオヴィータ・カルプ・ホビーは、「われわれの女性部隊は、アマゾネスにもならないし浮ついた女にもならない」と言っています。つまり、女性らしさをかなぐり捨てて戦場に突進する兵士でもない、周りの男性兵士をたぶらかしてその絆をかき乱すような浮ついた女でもない、女性軍人とは節度ある淑女の集まりなんだということですね。男性たちの反発や「男まさりな女性ばかりなんじゃないか」といった疑念を払拭するために、いわゆる「女らしさ」を強調する必要があったわけです。
WACで訓練に参加した女性自衛官たちも、こうした姿勢を忠実に学んだのでしょう。初代の婦人自衛官教育隊長になった前田米子もアメリカのWACを訪問していますが、彼女が婦人自衛官の「服務指導上の方針」として掲げたスローガンは「優しく、麗しく、つつましく、心の笑みを忘れずに」でした。自衛隊の一部門としては、いささかちぐはぐにも感じられますが、アメリカで学んだことを生かした結果なのだと思います。
また、この第2期というのは高度経済成長期で民間市場における若い男性の需要が高まり、自衛隊が人材確保に苦労していた時期でもありました。その中で、当時の陸上自衛隊幕僚監部の男性が、こんな言葉を残しています。「(女性を入隊させることで)自衛隊を知り国防に関心を持つ者は数倍になるであろう。また、そのような健全な精神を持つ女性の子どもたちは、その影響を必ず受け継ぎ時代を背負って立つことが期待される」。
つまり、女性が入隊することで、彼女を介して家族や親戚などに、自衛隊のことを知ってもらうことができる。さらに、彼女は将来、「良い母」となって自分の子を自衛隊に送り込んでくれるかもしれない──。そういう期待がかけられていたわけです。
もちろん、第1期と同様、自衛隊に対する一般市民からの敵意を緩和するという点でも、女性たちには期待が寄せられていました。「ソフトで当たりのやわらかい」女性は広報部門などに置かれることが多く、1972年の「沖縄返還」の際も、沖縄に駐留する部隊の広報課には女性が配置されたそうです。
当時の自衛官募集ポスターを見ると、男性自衛官に交じって女性たちが何人も写っているものがたくさんあります。女性が男性に肩車されていたり、腕相撲に興じる男性たちを女性たちが見守っていたり。そうした写真には「平和を守る若い力」「友情が芽生え、信頼が生まれる」といったキャッチコピーが添えられました。決して危険な存在ではない、「平和的でフレンドリー」な自衛隊のイメージを打ち出す上で、女性の存在は大きな貢献を果たしたといえるのではないかと思います。
第3期「拡張の時代」
さて、第3期は1980〜90年代、「拡張の時代」です。自衛隊にとっては、アメリカからのプレッシャーもあって軍事的な活動の領域が急速に拡大していった時期でした。特に、カンボジアPKO(国連平和維持活動)を皮切りに自衛隊が海外派遣されるようになったことは、大きな転換だったと思います。さらに、90年代後半には阪神・淡路大震災や地下鉄サリン事件で救助活動にあたる自衛官の姿がテレビなどで流れたこともあり、自衛隊に対する好感度がぐっと向上しました。
そしてこの時期、自衛隊における女性の数は急速に増えています。1986年時点の女性自衛官の数は4000人程度、比率にするとわずか1.7%だったのが、91年には8000人を超え、比率は3.4%。わずか5年で約2倍に増えているのです。
この急増はバブル経済と不可分の関係にあります。高度経済成長期と同様、好景気で男性の人材獲得が難しくなったことで、女性という人材に注目がなされました。ただ、それだけではありません。ジェンダー平等の世界的な流れがこれに棹さしました。
中でも大きかったのは、1985年に日本が女性差別撤廃条約に批准したことでした。同じ年に男女雇用機会均等法も成立し、民間で雇用機会を均等にするならば、国家公務員はその手本にならねばならないと、自衛隊における女性登用拡大への圧力が強まっていったのです。
数だけでなく、職域も大きく広がりました。1992年に女性自衛官の職域制限見直しが行われ、支援職だけでなく戦闘職にも女性が就けるようになります。これを後押しした文官たちの間には、世界最先端の「女性に開かれた職場」を目指したいという意識が強くあったようです。
さらに同じ1992年には、防衛大学校が女子学生の受け入れを開始しました。実は、国会では、70年代ごろから受け入れを求める議論があり、攻防が続いていたのですが、ついに拒否しきれなくなったわけです。ただ、内部での抵抗はやはり根強かったようで、私がインタビューした防大女性一期生は、「キャンパスで敬礼しても無視する先輩がいた」と話していました。
この受け入れ開始の背後にも、さまざまな思惑が働いていたようです。たとえば、女子学生受け入れに賛成していた国会議員の一人が当時自民党にいた鈴木宗男さんですが、彼は「女子学生が入って来たら世の中の自衛隊を見る目が変わってくるし、防衛大学に行ってしっかり国の安全を守れば、いい嫁さんをもらえるかもしれない(と考えるようになるのではないか)」と言っています。つまり、女性が入ってくることには、自衛隊のイメージの向上、あるいは女性目当てで男性の志願が増えるといった期待があったことがわかります。
第4期「国際貢献の時代」
最後の第4期は2000年代以降、「国際貢献の時代」です。ちょうどその直前、1999年に男女共同参画社会基本法が成立し、ジェンダー平等が国是と位置づけられました。「性別によらずすべての人に能力に応じた活躍の場を与える」ことが国の基本方針とされたのです。
2002年には東ティモールPKOに自衛隊が派遣され、女性自衛官が初めて海外派遣に参加します。1992年に海外派遣が始まって以降、女性の参加には反対の声も根強く、10年を経てついに実現に至ったわけです。
これ以降、海外派遣には一定数の女性自衛官が参加することが常態化していきます。2004年のイラク派遣の際も当然のように女性たちが参加しましたが、この派遣については「米軍などと一体化しての戦闘地域での活動であり、憲法9条違反ではないか」という批判の声が起こっていました。
それに対して、当時公明党の幹事長だった神崎武法氏は党の機関紙で、ある女性自衛官がイラクの宿営地から何度も外出したけれど「危険を感じたことはなかった」と発言したことに触れ、自衛隊が派遣されていたサマーワが「戦闘地域」ではない、とアピールしています。また、現地の子どもたちと笑顔で交流する女性たちの写真がメディアなどで取り上げられることもありました。「女性たちを派遣しているんだから、危険な場所のはずがない」というロジックが展開され、「平和任務に邁進する自衛隊像」をアピールする上で、女性たちの存在が利用されたわけです。
その後、2007年には防衛庁が防衛省に格上げされ、14年には集団的自衛権の行使容認が閣議決定、翌年には安保関連法制が成立します。一方、17年には再び自衛隊の職域制限見直しが行われ、すべての職域が女性に開放されました。今では、護衛艦にも潜水艦にも、戦闘機にも女性が乗ることができるようになっています。同時に、自衛隊基地に保育所が併設されるなど、ワークライフバランスのためのインフラ設備も進められてきました。
こうした変化の背景には、第一に少子高齢化による人材不足があるでしょう。充足率(定員に対する自衛官の実数の割合)は現状、90.4%。幹部ではない「士」クラスではわずか67.8%で、非常に危機的な状況です。もはや、男性だけで組織を回していくことは不可能で、「女性が入るのは嫌だ」などと言っていられなくなってきているわけです。
そしてもう一つ、グローバルに進むジェンダー主流化(施策などにジェンダーの視点を取り入れること)の流れに、日本もキャッチアップする必要が出てきたことがあると思います。2000年10月には、平和・安全保障分野での女性活躍推進を謳う「女性・平和・安全保障に関する国連安保理決議1325号」が国連安全保障理事会で採択されました。こうした動向を受け、先進国として恥ずかしくない組織編成をしていかなくてはならないという意識が強まってきたのです。
「女性解放の戦い」の物語が覆い隠したもの
現在、日本社会においては自衛隊の存在が広く受け入れられ、その必要性についても一定の合意形成がなされていると言えるでしょう。自衛隊自身がそのための涙ぐましい努力を続けてきたことと同時に、その中で女性たちの存在が果たした役割にも目を向けるべきだと思います。女性自衛官が増え、その職域も広がってきた。それは単に「男女平等が自衛隊にも到達した」のではなく、「日本社会に定着する」ことを目指す自衛隊の、さまざまな思惑があったからこそ実現したことだったのではないかと思うのです。
これまで見てきたように、「自衛隊を旧軍と差異化したかった」第1期、日本市民やアメリカとの「絆固め」をしようとした第2期、軍事的拡張に貢献し、先進的組織のイメージを作りたかった第3期、そして自衛隊が「平和維持に貢献している」イメージを広げたかった第4期。それぞれの時代において、女性たちは大きな役割を担ってきました。
それは日本だけのことでもありません。たとえば2001年のニューヨーク同時多発テロ事件以降、アメリカの女性兵士は「テロとの戦い」のカモフラージュとして使われてきた側面があったのではないでしょうか。アメリカでは、「勇敢で自由な女性兵士」のイメージが、「抑圧されたアラブの女性たちを救うために戦う」として、アメリカのアフガニスタンやイラク攻撃を正当化する重要な役割を果たしたことが指摘されています。また、そうした「女性解放の戦い」という物語が、当時のブッシュ政権が女性の権利を尊重してこなかった事実をカモフラージュしたと指摘する研究者もいます。
アフガニスタンやイラクに派遣された米軍の中には女性だけのチームが作られ、彼女たちは、子どものケアや少女の教育、女性たちの身体検査や聞き取りなどに力を発揮しました。「平和のプリンセス」が人々を救い、ケアし、荒廃した国を再建する姿は、私たちがこれまで持っていた軍隊の「殺し、傷つけ、破壊する」という旧来的なイメージを塗り替えることに大きく貢献しているといえるでしょう。
冒頭で「カモフラージュ」という言葉に触れましたが、大事なことは、カモフラージュには必ずしも隠蔽の意図は必要とされないということです。「隠そう」とする意図がなかったとしても、ときに私たちから何かを見えなくしたり、気付かなくさせたりすることがある。そうした視点を持ちながら、日本だけではなく世界の女性兵士たちの「活躍」をもう一度点検してみることに、重要な意味があると考えています。
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さとう・ふみか 一橋大学大学院社会学研究科教授。慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科博士課程修了。博士(学術)。専門はジェンダー研究、軍事・戦争とジェンダーの社会学。主な著書に第15回昭和女子大学女性文化研究賞を受賞した『女性兵士という難問 ジェンダーから問う戦争・軍隊の社会学』(慶應義塾大学出版会)など。