米国・トランプ大統領が2期目の政権をスタートさせてから1カ月あまり。この間、70本を超える大統領令に署名しています。なかでも、就任後すぐに、連邦政府のDEI(多様性、公平性、包括性)プログラムの廃止と、「性別は男と女の2つだけ」とする大統領令に署名したことは大きな波紋と動揺を広げました。こうしたトランプ政権の姿勢から見えてくるものは何か。ジャーナリストの北丸雄二さんにご寄稿いただきました。
救命ボートの倫理とは
「救命ボート倫理(lifeboat ethics)」と称して提示される問いがあります。60人乗りの救命ボートにはすでに50人が乗っている。そこにさらに波間を漂う100人もの遭難者がいる。さてその場合、何をどうするのが倫理的か、あるいは最適解か?
1974年にアメリカの生態学者ギャレット・ハーディン Garrett Hardin が持ち出したこの倫理上の難題は古代ギリシャの「カルネアデスの舟板」(※)の逸話にも似ていますが、カルネアデスが個人の行為として刑法上の緊急避難に敷衍されるのに対し、ハーディンの方は集団の行動規範をどこに求めるかの問題として豊かな先進国と貧しい途上国の関係に置き換えられました。
残った空間に10人だけを乗せるか、あるいは全員の救命を試みて舟もろとも沈没するか、それとも安全を確保するために10人分の余裕を残したまま波間の全ての遭難者を見捨てるか。
地球の生態系(人命)を維持するための資源(救命ボート)には限界があります。したがって全員の救命を図るという「完璧な正義」の実現は、実は「完璧な破局」に結びつく。だから生態系維持のためには現状を危険にさらす要素(他の遭難者)は排除しなければならない。すなわち未来を守るためには、途上国を見捨てて先進国の安全を確保することは、倫理的とは言えないまでも必要悪なのだとハーディンは結論づけるのです。
ハーディンのこの主張は当然の帰結として途上国への援助の停止、共有資源の独占的管理、厳格な移民政策などの政策に結びついていきます。もちろんこれは「反人道的」で「再分配の正義に反している」として強い反発を浴びました。
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もうお分かりでしょう。その批判から半世紀以上が過ぎ、私たちがいま目撃しているのはまさにこの「救命ボートの倫理」の再来です。トランプ政権が、第一次から4年間の周到な準備期間を経た第二次の今回、さらに徹底させているのが、「完璧な正義」を廃棄することで「完璧な破局」から逃れるという道筋の確立です。
例を取ります。
完璧な正義とは何か? 少数者を含め、全ての弱者・遭難者を救おうという「DEI(多様性、公平性、包摂性)」の思想に染まる「WOKE(意識高い系)」の理想と目標がそれです。
なぜトランピズムがそれを徹底排除するのか? 救命ボートもろともの沈没=完璧な破局を避けて、自分たちが生き残るためです。
その「自分たち」をトランプ政権は「アメリカ・ファースト」という大きな言葉で代用しています。しかしこの「アメリカ」をよく見てみれば、それは未申請・無届け移民やLGBTQ+、およびBLM(Black Lives Matter)の黒人や先住民たちを含まない「普通のアメリカ人」、つまり白人系のアメリカ人に象徴されるアメリカのことです。
※カルネアデスの舟板:船が難破し、船員たちが海に投げ出されたとき、小さな板が流れてきた。一人しかつかまれない板を、自分が生き延びるため他者から奪って相手を水死させたら罪に問えるかという問題
エコファシズムとの関係
ところでハーディンの生態学(エコロジー)は、1960年代の先進国の工業化に伴う化学農法の拡大や公害の激化を背景にしています。地球の生態系が危機に直面している。1962年にレイチェル・カーソンの『沈黙の春 Silent Spring』が出版され、ジェイムズ・ラヴロックが地球全体を一つの巨大生態系と見る「ガイア理論」を打ち出したのもこのころでした。やがて1973年には、それはノルウェーの哲学者アルネ・ネスの「ディープ・エコロジー」という概念に”深化”します。
従来の環境保護活動は「シャロー(浅い)」、もっとディープに(深く)徹底しなければならない、というこの考えは、ガイア生態系の中で全ての生命存在が人間と同等の価値づけをされます。そうじゃなければ地球は救えない。人間の利益だけを考えていてはダメなのです。そこではガイアを保護すること自体が目的であって、人間存在の利益は結果的に付与される付随物に過ぎない。
そしてこの価値観が、実は40年前のナチスの「エコファシズム」と共通する。
これが本稿の本題である性的少数者排除とどう結びつくのか──トランプ政権の「アメリカ」第一主義が、エコロジーとファシズムの結託によってもたらされるということを示すには、かなり複雑な論理の道筋を辿らねばなりません。
ナチス・ドイツは発足直後の1933年に動物保護法、1934年に国家狩猟法、1935年に帝国自然保護法を制定しました。動物虐待の禁止、麻酔なしの生体解剖の禁止、野生生物の保護のための森林保護などはまさに地球の生態系の保護、つまり環境保護の先駆け政策です。人間のことだけを考えていてはダメ、人間中心主義から脱却して、全体のバランスを優先しなければダメ。これは、生態系の保護のためには人間の排除もやむなしというJ・ベアード・キャリコットの生態系中心主義に辿り着きます。そこでは人間も動物も同じ要素です。「同じように守られるべき」という主張は同時に、「同じように切り捨ててもやむなし」という結論にも等しく反転します。
こうして人間と動物の境界線が薄れます。動物の屠殺と、人間に対する殺人が同じレベルで論じられるようになる。
先進国では19世紀末からフランシス・ゴールトンの提唱した優生思想が受け入れられるようになっていました。ダーウィンの進化論と遺伝学を、人間集団の遺伝的な質を向上させるより良き未来のために使おうという思想です。
優れた者を優先させるこの考えは、ハーディンのあの「救命ボートの倫理」です。劣っている者=遅れてきた遭難者は見捨てても良い。むしろ人口は積極的に減らした方が持続可能な未来のためには効率が良いとまで言う、マルサスの人口論の発展系。あと10人が乗れるのに、その10人をも乗せずに60人乗り救命ボートに50人のままで行った方が生存率は高まるのですから(あるいはその50人すら40人、30人に減らした方が……)。
ナチスはそうしてドイツのために「劣等民族」であるユダヤ人の”浄化”に踏み出します。それは動物を屠殺するのと倫理的に違いはない。優秀なアーリア人こそが「ドイツ」です。ちょうど「アメリカ・ファースト」の「アメリカ」が「自分たち」だけのアメリカであるように。
こうしてディープ・エコロジーは実はナチスによって都合よく使われたエコファシズムにも繋がってしまう。それは「救命ボートの倫理」なのです。トランプを熱狂的に支持するMAGA(※)の人たちは、「自分たち」はその救命ボートに初めから乗り込んでいるのだと信じて疑わない人たちです。本当にそうなのかは、これからのトランプ統治の数年でわかることですが。
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そうやって見直してみると、トランプ政権が矢継ぎ早に打ち出す行政上の大統領令や外交における新基軸──”不法”移民の即時強制退去、高関税の脅し、法人減税、ウクライナとガザにおける「力による現状変更」の容認、グリーンランドやパナマ運河への覇権宣告、51番目の州としてのカナダ構想、行政省庁の縮小解体、DEIの排除、人種および性的多様性の否定、メディアやジャーナリズムの封じ込め、そしてイーロン・マスクの偏重──も、巷間言われる「支離滅裂」「何をやるか予測不能」ではなく、全てがこの「救命ボートの倫理」に則っていることがわかります。そしてこれらの背後には現在、トランプを盾にトランプ以上にトランプ的な政治を体現している、下野の4年間を臥薪嘗胆に周到に準備した、法理論に長けた多数の若手政治戦略家たちが控えているわけです。
※MAGA:Make America Great Againの頭文字をとった造語。トランプの選挙スローガンであり、熱狂的な支持者のこともMAGAと呼ぶ
「キャンセル」される「T」の存在
その中で、あたかも「自分たち」以外の象徴のように消し去られようとしているのがトランスジェンダーの人たちの権利です。これまで米国政府サイトで使われていた性的マイノリティを列記する言葉「LGBTQI(レズビアン・ゲイ・バイセクシャル・トランスジェンダー・クイア・インターセックス)」が、トランプの再就任直後にすべて「LGB」に変わりました。「LGBTQI旅行者 」のための情報を提供していた国務省のサイトは現在、「LGB旅行者」に、LGBTQI+の養子縁組希望者のための情報ページも「LGB」向けになりました。コロナやエイズ禍で活躍したCDC(疾病管理予防センター)のサイトからも、司法省、労働省、商務省などのサイトからも、LGBTQ+関連の健康資料や性的指向に基づく差別回避の指針などが軒並み消え去りました。「T」だけでなく「LGBTQ+」全部がなくなりつつある……。
実はトランプが最初にアメリカの政治土壌に足を下ろした2017年1月20日のその初日にも、ホワイトハウスのウェブサイトからエイズやLGBTQ+関連のページが跡形もなく消えました。その4年後にバイデン民主党が政権を取り戻して、同時に関連サイトも復活するのですが、さらに4年後の今回、2025年1月20日に再びそれらが(より大規模に)「存在しないもの」になったというわけです。
前回は騒がなかった日本のメディアも「性別は『生物学的な男女のみ』トランプ氏、多様な性認めぬ大統領令」(朝日)、「『性別は男性と女性だけ』 トランプ氏、大統領令でDEI施策縮小」(毎日)、「性別は『男性と女性だけ』、『ドリル、ベイビー、ドリル』…トランプ第2次政権は前政権否定から」(東京)=いずれも2025年1月21日付=と大きく取り上げました。日本のジャーナリズムにおいてもやっと性的多様性を含む「DEI」問題が”旬”のテーマになったことの証左ですが、本家アメリカが逆方向に向かって日本の方が人権意識に覚醒するというのは皮肉な話です。
“予告”されていた大統領令
おさらいしましょう。
トランプの前のオバマ政権は教育や社会保障といった分野で「性別」の定義を個人の選択とする考えを打ち出し、トランスジェンダーの児童生徒に自らが選んだ「性」のトイレの利用を認めました。米軍へのトランスジェンダーの入隊も2016年に受け入れることを決めました。
ところが第一次トランプ政権は発足1カ月余の2017年2月22日、生徒が性自認に則してトイレを使用できるとしたオバマのトランスジェンダー生徒保護ガイドラインを撤回。同7月には「米軍は圧倒的な勝利のために集中しなければならず、トランスジェンダーの受け入れに伴う医学的コストや混乱の負担は受け入れられない」などとして米軍へのトランスジェンダー新規入隊の停止措置を執ったのです。
当時すでに米軍全体の0.7%ほどに当たる約9,000人のトランスジェンダーが軍務に就いていました。その当時の連邦裁判所は流石にトランプのこの措置を混乱が大きいとして阻止し、入隊手続きは再開されましたが、トランプ政権は諦めません。発足2年目、2018年の中間選挙を控えて、保守派の票固めをしたいトランプはさらなる攻撃に出ます。
選挙直前の同年10月、ニューヨーク・タイムズはトランプ政権が「性別」の定義を「男性か女性かのいずれか一方」であり「生まれた時または生まれる前に確認された不変の生物学的特徴に基づく」と規定し、また「出生証明書の原本に記載された性別は、信頼できる遺伝的証拠による反証がない限り変更できない」とする方向で統一することを検討している、と報じました。
それまでの小手先のトランス排除措置ではなく、性別に違和感を持つトランスジェンダーの存在自体を全否定しようとしたのです。
ね、今回の大統領令と全く同じ文言でしょう?
全米で推定140万人(0.4%)と言われたトランスジェンダーの人々の存在を「無」にする動きは7年前のそのときは後が続かず拡大しませんでしたが、すでに十分に予告されていたわけです。
トランスジェンダー抜きに語れぬ歴史
「性別は男女の2つだけ」という今回の大統領令は、ややこしいトランス差別のあれこれをまとめて一気に吹き飛ばす論理です。
トランスジェンダーの存在が社会一般に認知されるようになったのは1969年の「ストーンウォールの暴動/反乱」が契機です。当時は性的少数者の内実に関する認識はそう解像度が高くはなく、外部の人間にとっては十把一絡げに「ヘンタイ」であり「オカマ」でした。英語ではいずれも侮蔑語や卑称の「ソドマイト(ソドムの住民)」だったり「ファゴット」「クイア」そして「ゲイ」だったわけです。
ニューヨーク・マンハッタンのダウンタウン、グリニッジ・ヴィレッジにある「ストーンウォール・イン」はいわゆる「ゲイバー」として伝えられますが、この「ゲイ」は当時は今で言う「LGBTQ+」の人たちを網羅的に示す言葉でもありました。そしてその「暴動/反乱」の主体は、警察の暴力や摘発の最大の標的だった男性相手の街娼たち、つまりドラァグ・クイーンあるいはトランス女性、そして警官隊への反撃を呼びかける第一声を挙げたレズビアンだったというのが定説です。
つまり現在に続く「ゲイ」の人権運動・解放運動は、ゲイ男性というよりむしろ(今で言うノンバイナリーやトランス女性をも少なからず含んでいただろう)ドラァグ・クィーンや、(今で言うノンバイナリーやトランス男性をも少なからず含んでいただろう)レズビアンの闘士たちが動いたからという起点抜きには語れない。
ちゃぶ台返しの「男女二元論」
しかし、トランプ政権は当初からすでに同性婚も合法化され可視化や理解も定着したゲイやレズビアンへの攻撃を諦め、より政治問題化しやすく一般の理解も浅いトランスジェンダーを標的にします。
政治問題化とは、新たな政治資金を集めるためのネタにするということです。また同時に、トランスジェンダーの人たちを、「普通のアメリカ人」にとっての脅威として恐怖を煽ることです。敵を作り、それに打ち勝つための資金を募る、という古典的な政治手法です。
最初は女性トイレや女性更衣室へのトランス女性の”侵入”を性暴力的脅威だと訴えました。それはやがて女性の競技スポーツの分野でトランス女性が「男性の肉体で思いのままにメダルを獲得している」という話になります。しかし前者はトランス女性による性加害の危険性ではなく、性犯罪者による性加害の問題です。後者は、トランス女性のスポーツ選手にトップ選手はほとんどいないという事実を挙げて包摂的な参加方法を模索する研究者と、わずかな差で勝敗の分かれるトップクラスのスポーツではトランス女性の参加禁止は必須とする研究者で議論が分かれます。
ところが「性別は男女の2つ」と断じた今回の大統領令は、上記の論争に簡単に片をつける──女性スペースにおけるトランス女性の、性犯罪とか脅威とかの可能性の真偽を論じる面倒くさい議論よりも、「人間には男か女かしかいないのだから出生時の性別で男なら女性スペースには入れない。それが常識だろう」というものです。
女性競技スポーツにおける議論も同じ。「テストステロンがどうだ、筋肉量がどうだという面倒な話はどうでもいい。男なら男、女なら女。話は簡単」
トランプが第二期の就任演説で「常識の革命 the revolution of common sense が始まる。コモンセンスこそが全てだ」とブチ上げたのはそういう「常識」のことです。19世紀末からコツコツと積み上げ、人間の性とジェンダーの在り方の不思議を解像度を上げることで「新たな常識」として更新してきた性科学や精神医学の成果が、最大の支持母体であるキリスト教福音派的な「常識」の一言でまるでなかったことにされる。人智の基盤を「宗教から科学へ」シフトしてきた人間の歴史が否定されるわけです。MAGAの人たちが批判する「キャンセル・カルチャー」とはまさにこちらの方ではないか?
吹き荒れるトランス排除の嵐
このスタンスで、トランプは「化学療法・外科手術による性器除去から子どもを守る」とする別の大統領令にも署名しました。19歳未満を対象とした性適合治療への連邦資金援助を停止する措置です。
これにも伏線があります。第一次トランプからバイデンに政権が変わった2021年から、主にトランスジェンダーを標的にした反LGBTQ+政治の戦場は連邦から州や地方自治体に移りました。トランス敵対法案の提出は2023年には全米で合わせて年間604本に積み上がり、うち87本が成立。2024年には43州672本に増えました。うち可決は50本で、他613本は否決されたものの、2025年には大統領令のお墨付きもあって激増する恐れがあります。
現時点では全米50州中26州で青少年を対象とした投薬、手術、メンタルヘルスなどの性適合治療が制限されるようになっています。うち25州は共和党主導の州です。
「賢いトランプ」として一時はトランプに代わる大統領候補として売り出したフロリダ州知事のロン・デサンティスは2022年7月に州議会共和党と結託して、ゲイなどの性的少数者について公の場で話すことを禁ずるいわゆる「Don’t Say Gay(ゲイと言うな)法」を施行し、現在は高校までのすべての公教育でジェンダー・アイデンティティや性的指向などに関して教えることを禁止しています。もちろんLGBTQ+に関する書籍は図書館から取り除かれてしまいました。これはロシアのプーチン政権が2013年に成立させた「同性愛宣伝禁止法」と同じ考え方です。その思想が全米に拡大しつつあります。
まだあります。一時はトランプの政敵だったマルコ・ルビオが長官に任命された国務省は、バイデン時代に導入された性別欄「X」付きのパスポートの発行申請を認めなくなりました。『ユーフォリア』や『ハンガーゲーム 0』に出演したトランス女性俳優兼モデルのハンター・シェイファーが、再発行パスポートの性別欄が「F(女性)」から「M(男性)」に変更されたとTikTokで抗議したニュースが流れたのも最近のことです。
また、連邦刑務所に収監中のトランス女性の受刑者の一部はすでに隔離用施設に移送され、男性用刑務所への移送を告げられている事例も始まりました。
このほかにも「ドラァグ(異性装)の禁止」「トランス学生のカミングアウトの強制」「出生証明書の性別変更の禁止」「運転免許証の性別変更の禁止」などの法案があり、中にはインターセックス(男女いずれの典型的な身体的特徴=染色体・生殖腺・性器などに当てはまらない性別未分化)の子どもに性別決定手術を強制する流れも生まれそうなのです。
こうした反トランスの空気が濃くなる中では、反トランス法の制定後にトランスの若者の自殺企図が前年比最大で72%増加した州もありました。トランプ二期目のアメリカ社会で、マイノリティ全般への差別加害がどれだけ拡大するか心配です。
「ノアの方舟」のアナロジー
さて、再び「救命ボートの倫理」です。
ここからの結論はなんとも突飛なものです。でも、就任1カ月で前代未聞の約70本もの大統領令を出し、それらが多方向に実に突飛に突出するように見える政権の狙いを見極めるには、こちらも論理を繋ぎながら突飛な分析にならざるを得ない。
現時点でわかっているトランプ政権の政策では、まず高関税貿易と無届け移民労働の排除でさらなるインフレが誘導されることになります。次に同じく高関税貿易と法人税減税と行政省庁の縮小解体による規制解除で国内企業活動が活性化します。ウクライナ、ガザ、グリーンランド、パナマ運河などにおけるアメリカの覇権拡張で国家の権益も増大する。
その流れで登場するのは超格差社会です。一般国民の所得も伸びる一方で、企業や富裕層の収益は比較にならないほどに増大します。ちょうど、イーロン・マスクの個人資産が2024年春の時点で約2000億ドル(30兆円)だったのが、同年末には人類史上初の約4000億ドル(60兆円)に倍増したように。
4000億ドルというのは、韓国、オランダ、ブラジルの国家予算に匹敵します。マスクの所有するスペースXなどは米国政府から200億ドル(3兆円)もの連邦資金を得てロケット開発を進行中ですが、そのマスクがDOGE(政府効率化省)のトップとしてNASA(アメリカ航空宇宙局)を潰そうとしているのはまさに利益相反、つまり「NASAの宇宙開発は効率が悪いから是非うちのスペースXのロケットに転換を」と言っているようなものなのです。
超格差社会の出現で、何をするのか? 超富裕層向けの救命ボートを作ることです。
「救命ボートの倫理」はナチスのエコファシズムと通底していると書きました。人減らしを目論むマルサスの先の「超」人口論とも。ゴールトンの優生思想とも。
地球は、もう人類を支えるだけの環境を持ち得なくなっている。気候変動は(「神の意思なのだから」と福音派支持者には説明するが)もはや人間がどうこうできるものではない。しかし民主主義とは、WOKEとは、DEIとは、現在の77億人から2050年には97億人にもなる全ての人類を救おうとする非効率な試みだ。完璧な正義は完璧な破局をもたらす。我々は世界全体を救うことなどできない。ならば、生き延びられる者、優秀な者、選ばれし者が生き延びる道こそが人類の選択すべき最も倫理的な道である。
まさに福音派の好きそうな「ノアの方舟」のアナロジー。実に古典的な白人至上主義、男性優位主義の復活です。
ベルリン自由大学グローバル思想史大学院の博士研究員ベン・ミラーは、ローリングストーン誌の「ARE TRUMP’S ACTIONS ‘UNPRECEDENTED’? HERE’S WHAT SEVEN HISTORIANS SAY(トランプの行動は先例なきものか? 7人の歴史家は語る)」(2025年2月22日)の記事でこう指摘しています──トランスジェンダーの人々に向けていま飛んでいる攻撃は「the front of a flying wedge which is really going after the bodily autonomy of absolutely everybody, cis women included(トランス女性とシス女性を分断させる楔(くさび)の先端に見えるが、実はそれはシス女性を含む本当に全ての人間の身体的自律を対象とした攻撃なのである)」。
トランス女性でもシス女性でもない誰かが、この楔を投げつけている。そしてその誰かは、他の全ての人間の自律を蔑ろにして、自分たちだけは別の世界にいる。
かつて「宇宙船地球号 Spaceship Earth」という言葉がもてはやされました。地球という運命共同体の乗組員の一員として、国家間の争いはもうやめようという意味でも使われました。
いまイーロン・マスクの画策する「宇宙船トランプ号」は、そんな地球を見捨てて「自分たちだけ」で火星へ向かおうとしています(いま何か起きた時の当座の避難場所は太平洋のシェルター付きの孤島だったりしますが)。その「陰謀」の目眩しに、地球上に取り残されることになる私たちにはトランスジェンダーや異人種や移民や難民の「問題」にボウボウと放火して騒がせている。トランス抹消の目論見は、そういう大きな青写真の中で考えなければならない──私のこの「突飛な」「突拍子もない」分析が、トランプ嫌いの癇癪持ちの妄想に過ぎない「陰謀論」であればよいのですが。
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きたまる・ゆうじ ジャーナリスト、作家。中日新聞(東京新聞)NY支局長から1996年に独立し、在NYのまま日本向けに国際政治・社会・文化などの情報を発信。2018年に東京に拠点を移しラジオやネット番組でニュース解説などを行う。東京新聞で毎金曜『本音のコラム』連載中。著書に『愛と差別と友情とLGBTQ+ 言葉で闘うアメリカの記録と内在する私たちの正体』(人々舎)など。訳書に『LGBTヒストリーブック 絶対に諦めなかった人々の100年の闘い』、絵本『ぼくらのサブウェイ・ベイビー』(ともにサウザンブックス社)などの他、ブロードウェイ演劇台本も多数訳出。