『ハルビン』(2024年韓国/ウ・ミンホ監督)

 ハルビンは19世紀に帝政ロシアが中国東北地方につくった都市である。シベリア鉄道を敷設し、モスクワから東の海の玄関口となるウラジオストクまでの約9,300kmをつなげたロシアが、その距離と時間を短縮するため、東シベリアのチタから中国の満蒙地方を抜け、ウラジオストクを結ぶルートとして東清鉄道をつくった。そのハブの役割を担ったのがハルビンだった。アジアの大地に忽然と現れた町には、西欧風の石造りの建物が並び、カフェや劇場ではロシア人らでにぎわうようになった。当時、日本人は「東洋のパリ」と呼んでいた。
 20世紀初頭、ハルビンを韓国統監府の初代統監を務めた伊藤博文が訪れることになる。元老となった伊藤の訪問目的はロシア蔵相かつ東清鉄道総裁のウラジーミル・ココフツォフと会談すること。東洋政策の基盤づくりを日露両国が提携して進めるという名目だが、その背景には日本の統治下にある朝鮮半島の独立を目指す大韓義軍の動きがあった。メンバーは中国東北地方やロシア極東でも抗日運動を展開していたのである。国を越えた動きは日露双方にとっての懸案だった。日本側には、日露戦争勝利によって得た南満州鉄道沿線ならびに朝鮮半島における権益にロシアは手を出さないよう、互いの勢力圏を侵さないようにしようというシグナルを送る意図もあった。
 前置きが長くなった。朝鮮民族を抑圧する象徴である伊藤博文を暗殺する。その実行までの数カ月間を描くのが本作である。主人公は安重根(アン・ジュングン)。大韓義軍の参謀中将だ。抗日戦におけるリーダー的存在だが、その戦闘において同志としばしばぶつかった。咸鏡北道(ハムギョンブクト)に駐屯する日本軍に奇襲をかけ、部隊を降伏させたときである。捕虜にした部隊のトップである森中佐が、自軍を全滅させた責任を負うため自決させろというのに対し、アン・ジュングンは森とその部下を武装解除させた上で釈放する。万国公法では捕虜の処刑は禁じられているというのがその理由だ。同志は反対する。こんなところで万国公法を持ち出してどうする、こいつらを自由にしたら、また俺たちを殺そうとするぞ、と。
 実際にその警告どおりとなった。物語はハルビンへ向かうアン・ジュングンと、彼を追う森という構図で進む。その過程では、ウラジオストクで武器を調達しようとする大韓義軍と日本軍との銃撃戦、日本軍が大韓義軍のメンバーを拘束し、拷問にかけ、密偵として敵の内部に送り込む工作など、権謀術数がめぐらされる。アン・ジュングンはそれらを掻い潜ってハルビンを目指す。
 しかしアン・ジュングンと同志の間では衝突が起こる。
 伊藤博文を殺してもいまの体制は変わらない。いったいあと何人が死んだら独立できるのだ――現状に落胆し、未来に絶望する同志がいう。しかし、アン・ジュングンにとって、伊藤を殺害しても朝鮮独立は果たせないかもしれないことは織り込み済みだ。彼は朝鮮独立を目指す自分たちの名を歴史に刻みたいと考えていた。功名心ではない。アン・ジュングンは不当な支配に対する義憤にかられていたのである。
 満鉄、東清鉄道を乗り継いでハルビンに向かう伊藤(リリー・フランキーが演じている)は車中で側近にこう語る。朝鮮民族は、愚かな王や儒生に支配され、たいした恩恵を受けていないにもかかわらず、国難になると厄介な力を発揮する、と。
 側近からは、アン・ジュングンら大韓義軍のメンバーの不穏な動きがあるので、ハルビン駅頭でのセレモニーを中止したほうがよいと進言される。しかし、伊藤は、それでは奴らの思うつぼだ、予定通り行えと命じる。そう語る彼の表情には朝鮮人に対する忌々しさがにじみ出ているが、一方で己の運命を予感しているようでもあり、独立闘争を展開する側とそれを弾圧する側の動きがぎゅるぎゅるとねじれ合いながら、クライマックスに近づいていく。
 アン・ジュングンによって伊藤博文が射殺されたのは1909年10月26日だった。翌年8月29日、韓国併合により朝鮮総督府が設置。日本による朝鮮半島の支配は1945年8月15日まで続く。
 本作品の主な舞台を振り返ってみよう。現在のロシア極東の沿海地方における行政の中心地であるウラジオストク、対中国、北朝鮮国境に近いクラスキノ、北朝鮮の北東部に位置する、中国と豆満江を挟んで国境を接する咸鏡北道――。豆満江は中国、ロシア、北朝鮮の国境であり、日本海に注ぐ約500kmに及ぶ大河である。本作品の冒頭と最後には、アン・ジュングンが凍った豆満江の川面をふらふらと彷徨するシーンが挿入される。
 多くの日本人にとってこの地域は、距離的には近くになりながら、精神的にはあまりに遠くなってしまった。戦後80年を経た現在、東アジアの近代史を掘り起こし、長きに渡る空白を埋めるような物語を日本映画も紡ぎだせないだろうか。私たちの意識を太平洋の向こう側一辺倒から北東アジアへ向けさせる、極上のエンターテイメント作品を観たい。

(芳地隆之)

『ハルビン』(2024年韓国/ウ・ミンホ監督)
2025年7月4日(金)より新宿ピカデリーほか全国公開
https://harbin-movie.jp/

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