先日、M:I(ミッション:インポッシブル)シリーズ第8作となる『ファイナル・レコニング』を見た。トム・クルーズのアクションは衰えを知らず、3時間弱、当方はスクリーンに釘付けだった。見終わった後も、テーマ曲が脳内で鳴り響き、人気のない駅の階段を二段飛ばしで駆け上がり、夜道を全力疾走したい衝動に駆られた(ぼくはトム・クルーズと同じ年齢なのである)。ボンドガールが登場し、必ずお色気シーンが入る007よりも、笑いの要素も散りばめられた、アクション満載のM:Iの方が好きだ。
ここから先は映画のネタバレになるが、本作は前作『デッドレコニング・PART ONE』の続編である。『PART ONE』で正体が見極めきれなかった敵は、“ENTITY”なるAIであることが明らかになる。世界の核保有国(米国、ロシア、英国、フランス、中国、インド、パキスタン、北朝鮮、イスラエル)の核ミサイル基地の制御を外し、ミサイルを発射させる。世界を滅亡に導くこともできる目に見えない存在だ。この暴走するAIを抹消することが、トム・クルーズが演じるイーサン・ハントのミッションだが、今回も信じられないような壁が立ちはだかる。詳しくは映画館でご覧になってほしい。ぼくがここで言いたいのは、回を重ねるごとに複雑さを増すストーリーの解説でも、これでもかとスケールアップするトム・クルーズのスタントでも、ない。
アメリカ人のヒーローが世界を滅亡から救うという物語の定型が終わったのではないかということだ。
アメリカの娯楽映画は物語にしばしば敵国を登場させた。かつての冷戦時代で言えばソ連、9・11後はアフガニスタン、いまだ中国が悪役として登場する映画は知らないが、アメリカが善で、相手国が悪という図式をつくり、前者が後者を倒すことで、国際政治で果たせなかった溜飲を下げるのである。
ところが『ファイナル・レコニング』では、イーサン・ハントが世界を滅亡から救うという大それた話になっている。しかも核ミサイルを大量につくったアメリカに対抗して核を保有した国が、暴走AIによって制御ができなくなる局面に立たされたとはいえ、それを防ごうとする行為が「世界を救う」とはどうよ、と思ってしまうのである。
ただのマッチポンプではないか。
アメリカの大統領は黒人女性という設定だ。彼女はENTITYによって制御不能になった核保有国のミサイル基地をターゲットに、自国の核ミサイルの発射ボタンを押すか、押すまいかの判断を迫られる。こちらが撃たなければ、ロシアや中国、北朝鮮という仮想敵国だけでなく、英国やフランス、あるいはイスラエルの核ミサイルが米国の都市を灰にしてしまうかもしれないからだ(それを阻止すべく、イーサン・ハントは人知れず戦っている)。その苦渋の表情を見ていると、その姿が先の大統領選挙で敗北した民主党の候補、カマラ・ハリスと重なってくる。と同時に想像してしまう。これがトランプ大統領だったら、どうするだろうかと。
さっさとボタンを押すかもしれない。が、その前に「そもそもなんでアメリカが世界のためにリスクを負わなくてならないんだ」と思うはずである。世界なんて知ったことではない、Make America Great Againだ、が通れば、イーサン・ハントのヒロイックな物語は成り立たなくなるだろう。それはM:Iに限らず、長くハリウッドのアクション映画の主流をなしていた「アメリカが世界を救う」物語の傲慢や偽善が明らかになることとイコールかもしれない。
トランプ大統領とハリウッドの相性の悪さは、存外、そんなところに理由があるのではないか。
M:Iの対極のような映画を撮り続けている監督がいる。クリント・イーストウッドだ。『ミスティック・リバー』『ミリオンダラー・ベイビー』『グラン・トリノ』など、晩年の彼が描くのは、見捨てられつつある白人中間層の現実だ。ニューヨークやボストンのある東海岸、ロスアンゼルスやサンフランシスコのある西海岸ではなく、中西部から東部にかけてのラストベルト、あるいは人種差別の激しいディープサウスに住む人々の物語である。トランプを支持した人たちだろう。
イーストウッドの作品に比べると、M:Iは非常に洗練されている。登場人物の心をえぐるような描写なく、危ないアクションでも、ぜったいトム・クルーズは死なないという確証があるので、数時間、暗い映画館のなかで浮世を忘れて、カタルシスに浸れるのである。
ところが、上記のような理由から、このシリーズを娯楽として消費するのが叶わなくなってしまったのだった。
なぜドナルド・トランプは『ミッション:インポッシブル』の物語を無効にするのか(芳地隆之)
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