日本における気候訴訟~将来世代を気候危機から守れるか~ 講師:小出薫氏

相次ぐ自然災害、毎夏の猛暑……気候変動の影響は、すでにさまざまなところで表れてきているように感じます。しかし、その悪化を防ぐための実効的な対策は、十分に行われているとはいえません。そんな中、司法の力を使って対策を前に進めようと、世界各地で起こっているのが「気候変動訴訟(気候訴訟)」。昨年、名古屋で提訴された「若者気候訴訟」の弁護団に参加している小出薫さんに、その狙いや意義を解説いただきました。[3月29日(土)@東京校]

現実化する気候変動の影響

 私は弁護士として仕事を始めて今年で12年目になります。大学で農学部森林科学科に所属し、二酸化炭素の吸収源である森林が身近だったことから、気候変動についてはずっと気になっていました。しかし、どうアクションしていいのか分からないまま時間が経ってしまい、気候変動訴訟に関わり始めたのはつい最近。気候変動訴訟自体は日本では10年ほど前から始まっているのですが、私自身はその中で「新参者」ということになります。
 人類が気候変動というものを認識したのはかなり前で、40年ほど前にはすでに国際会議で取り上げられていました。しかし、そこから状況は悪化しています。気候変動は深刻化し、その影響がさまざまなところで表れているのです。
 まず、豪雨被害です。昨年、奥能登地方で豪雨被害があったことは皆さんのご記憶に新しいと思います。イベント・アトリビューション(気候変動が起こっている地球と起きていない地球をシミュレーションにより比較することで、気候変動が異常気象にどの程度影響していたかを分析する手法)による解析では、もし気候変動がなければ、この奥能登豪雨における積算雨量は、9時間で15%ほど少なかったはずだという結果が出ています。
 それから林野火災、いわゆる山火事です。最近も岩手県の大船渡市、愛媛県今治市など全国各地の山火事が頻発しましたが、この背景にも気候変動があります。つまり、本来なら雨が降る時期に十分な雨が降らず、森が乾燥して火が広がりやすくなっています。反対に、集中して大量に雨が降ると豪雨被害になるわけで、この「水の遍在」が気候変動の大きな影響だといえます。
 そして、気温上昇です。世界平均気温は、2011年からの10年間で1.1度上昇したといわれています。地球はそもそも氷期と間氷期のサイクルを何度も繰り返してきたため、この気温上昇もそのサイクルの一部なのではないかという説もありました。しかし、IPCC(気候変動に関する政府間パネル)の第6次評価報告書でも、人間の活動が気温上昇を引き起こしていることはもはや疑う余地がないと述べられています。これは現代科学において考えられる結論としては、非常に精度が高いものだといえるでしょう。

「緩和」と「適応」

 では、この気候変動に対して、どのような対策が取られようとしているのか。大きく分けると「緩和」策と「適応」策があります。
 緩和策とは、気候変動の原因となる温室効果ガス──その大半が二酸化炭素(CO2)です──の排出量を減らして、気候変動そのものを緩和させること。一方、適応策は、気候変動を完全に止めることはもうできないので、それによる被害をどう軽減させていくかを考えるものです。
 緩和策においては、世界の平均気温の上昇を産業革命前と比較して2℃より十分低く、1.5℃未満に抑えることが、国際的な目標とされています。そして、その達成のために、日本を含む多くの国々が掲げているのが、2050年までのカーボンニュートラル(温室効果ガス量の排出量と、樹木によるものなどの吸収量とを均衡させ、実質的な排出量をゼロにすること)の実現です。具体的なアプローチとしては、省エネや効率化、化石燃料からの脱却と再生可能エネルギーへの置き換えによる脱炭素化ということになります。
 そして、この先気候変動がもっと深刻になって初めて手を打つよりも、今から緩和策を進めていったほうが、はるかにコストが低くて済むという研究結果もあります。
 今後、緩和策によって2050年までの気温上昇を目標の「2℃以内」に抑えるためには、世界合計で約6兆ドルの予算がかかるといわれています。しかし、対策を取らずにこのまま気候変動が進み、2℃を超えてしまった場合、世界の被害総額は推計で年間約38兆ドル。つまり、対策費の6倍以上もの損害が出てしまうというわけです。
 すでに気候変動の影響がいろいろなところに表れてきている今、たしかに適応策も重要になってきてはいるのですが、まだまだ取れる対策はあるのだから緩和策を諦めてはならない。今は、そういうタイミングにあるといえるでしょう。

世代間の不平等

 気候変動においては、「世代間の不平等」も重要なキーワードです。
 実は、気候変動の被害は、誰もが平等に受けるわけではありません。生まれた時代、時期によって、どのくらい影響を受けるのかが大きく変わってくるのです。1960年生まれで今65歳の世代に比べて、2020年生まれで今5歳の世代は、気候変動による熱波にさらされるリスクが4〜7倍高くなってしまうというデータもあります。実際に、今65歳の方は少なくとも少し前まではあまり影響を感じずに過ごしてきたと思いますが、今まだ幼い世代、これから生まれてくる世代は、たとえば夏場は外で体育の授業を受けられないなどという影響も出てきます。
 そしてもう一つ、生まれた時期によって変わってくることがあります。気候変動の原因に、その人がどのくらい寄与しているか。つまり、どのくらいCO2を排出してきたかということです。これから生まれる世代はまだCO2をまったく排出していないにもかかわらず、確実に被害を受けることになります。
 それから、意思決定への参加の度合いも違ってきます。気候変動がここまで進んできた今の社会は、今まで生きてきた世代が意思決定することで作られてきたものです。しかし、まだ幼い世代、これから生まれてくる世代は、選挙権や被選挙権はもちろん、会社や組織の中での意思決定権は持っていない。それなのに、気候変動が進行した社会だけを受け取ることになってしまうわけです。
 こう見てくると、たしかに「世代間の不平等」というものがあると感じざるを得ません。日本で起こっている気候変動訴訟の一つ、私も弁護団に加わっている名古屋の「若者気候訴訟」では、16人の若者が原告になっています。年上の私たちから見れば、彼らも気候変動の被害に遭っているのですが、彼らはさらに世界や将来を見据え「加害者になりたくない」と言います。先進国に住む人間として、グローバルサウスなどの途上国に対してこれ以上被害を与えたくない、そして自分の子どもの世代に「なんであのとき対策しなかったの」と言われるときが来るのではないかと、非常に危惧しているというのです。
 最初に申し上げたように、気候変動に関心を持ちながらも長い間「何もしてこなかった」私にとっても、非常に考えさせられる問題です。

気候変動訴訟の枠組み

 さて、こうした気候変動に対し、国や企業に対策を求める訴訟が「気候変動訴訟」です。世界では2000年代から始まり、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの調査では2024年までに2666件の訴訟が起きているといいます。
 といっても、誰を相手取って何を請求するのか、その内容はさまざまで、いくつかの種類に分けられます。
 一つが「政府枠組み訴訟」。気候変動の緩和に向けた政府の目標や計画が策定されていなかったり不十分だったりした場合に、「きちんとした計画を作ってくれ」「計画を修正してくれ」と求める訴訟です。
 それから「汚染者負担訴訟」。実際に気候変動による被害を受けたときに、その原因をつくったと考えられる企業などに賠償を求める訴訟です。
 その他、気候変動によるリスクに対する適応策を取らなかったことの責任を追及する「適応失敗責任追及訴訟」、「環境にやさしい」「CO2が出ない」といった曖昧な表現を使って、実際よりも気候変動対策として効果があるように感じさせる広告などに異を唱える「気候ウォッシング訴訟」、企業にCO2排出量の削減や方針変更を求める「企業枠組み訴訟」、気候変動対策に適合しないプロジェクトへの資金流入を止める「”蛇口を止める”訴訟」など、さまざまなパターンがあります。
 その中でも、世界的に大きなインパクトを与えた訴訟がいくつかあります。お隣の韓国で、2030年より先の温室効果ガス排出量削減目標を政府が策定していなかったことを最高裁が「違憲」と判断した訴訟などもその一つです。
 また、オランダの「アジェンダ財団」というNGOが原告となって国を訴えた訴訟も、リーディングケースとしてよく知られています。最高裁が判決文の中で、「国には危険な気候変動による人権侵害から国民を保護する義務がある」と明言したのです。さらには、気候変動被害を「現実かつ切迫した人権侵害」だと認定したことも画期的でした。「今すぐ起こる被害」だというのではなく、今の流れを変えないと、少し先のことだとしても確実に被害が起こるという意味で「切迫性」が認められたということだと思います。
 それから同じオランダでは、大手石油資本であるロイヤル・ダッチ・シェルにCO2排出量の削減を求める裁判も起こされています。これは、地裁レベルでは「2019年比で2030年までに45%の削減」を命じる判決が出ました。高裁で判決は覆りましたが、この判決も削減水準にまで司法が介入すべきではないという判断によるもので、企業のCO2削減義務自体は認められています。
 他にも、気候変動訴訟をめぐっては、「被害者は誰なのか」「権利侵害の具体性・切迫性はあるのか」「企業にはどの程度責任があるのか」など、さまざまな論点がありますが、数多くの訴訟の積み重ねによって、その多くは克服されつつあると言って良いと思います。

日本の気候変動訴訟

 では、日本で気候変動訴訟をするとしたら、誰が原告、誰が被告となって、どのような請求をすることが考えられるか。これはぜひ、皆さんにも考えてみてほしいと思います。
 実際にこれまで起こってきたものとしては、仙台、神戸、横須賀での、それぞれ個別の石炭火力発電所に関する訴訟があります。
 まず、仙台で運営会社に対し発電所の操業差止を求めた民事訴訟では、審理の早い段階で気候変動が論点から外された末、「石炭火力発電所の有用性、公共性は直ちに否定されない」という理由で請求棄却、控訴も棄却されました。
 横須賀では、国に対し、石炭火力発電所の環境影響評価書確定通知の取消しを求める行政訴訟が起こされました。地裁では、原告である発電所周辺の住民がCO2による温暖化の進行に伴う事象によって生命健康に被害を受けない利益は「一般的公益にとどまる」ので訴えの利益がないとされ、原告適格(原告に訴えを起こす正当な理由があること)が否定されました。さらに控訴審でも、この発電所が排出されるCO2は世界の排出量の5000分の1に過ぎず、それによって温暖化による被害の規模や頻度が「優位に増大するものとは認め難い」として、控訴棄却という結果になりました。
 行政訴訟の場合、この原告適格の問題は避けて通れない面があります。気候変動というのは、本当に広い範囲で影響を及ぼすため、どの範囲の人にまで原告適格を認めるかというのは難しいところがあります。
 神戸で行われた同様の行政訴訟でも、やはり原告適格は否定されました。ただ、なお書きにおいて、この判断は現時点の社会情勢を前提としたものであり、今後の内外の社会情報の変化によっては、「個人的利益として承認される可能性を否定するものではない」とも言及しています。
 一方、同じ神戸で人格権と平穏生活権を根拠に石炭火力発電所の建設や稼働の差止を求めた民事訴訟では、個人の生命や身体の安全はきわめて重大な保護法益であり、「各人の人格に本質的なもの」だと認められました。環境汚染によって生命、身体、健康に係る人格権が侵害される具体的危険があるときや、生命、身体、健康について深刻な不安に曝され、平穏に生活する法益が侵害されたと認められるときは、侵害行為の差止めを求めることができるという枠組みが提示されており、少なくとも人格権の枠組みにおいては、気候変動を理由とする差止請求が認められる可能性が肯定されたということになります。
 ただ、この事案そのものについては、生命、身体、健康にかかる人格権が侵害される「具体的危険」が生じているとは認められないとして、請求棄却という結論になりました。
 そしてもう一つ、先ほど少し触れた「若者気候訴訟」。これは、2024年8月に名古屋地裁に提訴された訴訟です。原告は提訴時点で15〜29歳の若者16名で、主要電力事業者10社を相手取って、CO2排出量を2019年に比べて、2030年までに48%、2035年までに65%削減することを求めています。
 日本では、エネルギー起源のCO2排出量のうち約3分の1が、被告となった主要電力事業者10社によって占められています。求めている削減はIPCCの報告書などでも提示されている国際的な合意に基づく水準ですが、被告各社が掲げている目標はどれもそれに届かず、そもそも目標自体がない年度もあることが分かりました。
 まだ始まったばかりの訴訟ではありますが、気候変動による権利侵害が実態として起こっていることを社会に広く示し、CO2排出量削減を大きく進める一つの力になればと考えています。

「負の外部性」構造を変えるには

 気候変動訴訟が私たちに投げかけるのは、「負の外部性」あるいは「外部不経済」という問題でもあります。これは経済学などで使われる概念で、企業活動などにおいて発生する不利益を、外部にいる人たちが負わされている状態を指します。
 現状、企業が排出したCO2を自分たちで回収・処理しなくてはならないという直接的なルールはありません。そうすると、自分たちでコストを負わなくていいように捉えられ、企業は特に排出を制限せずに企業活動を続けてしまうことになります。CO2排出を進める方向のインセンティブが働くわけです。
 そこを抑えるために、炭素税や排出量取引などを通じて何とかコストを内部化しようという試みも始まっていますが、まだ十分ではありません。企業のほうでは逆にコストの内部化を避けようとする動きがあり、日本だけではなく世界中でロビー活動などが行われています。
 結果、企業の外側にいる市民、それも海沿いに住んでいて引っ越す余裕もない人が気候変動による海面上昇で被害を受けたり、高齢者や子どもが熱中症になったりと、特に脆弱な立場にある人が犠牲になったり、将来世代にしわ寄せが行ったりするわけです。
 こうした構造を、どうしたら変えられるのか。個人や家庭の行動だけではなく、大元の意思決定から変える必要があるのは当然ですが、大きな企業が自分から変わることはなかなか難しい。そして政府も──ここには産業界との関係が見え隠れするのですが──拘束力のある削減目標などをいっこうに定めようとしない。そのように、現実の気候変動に追いつけるペースで対策がなされているとはとても言えない状況の中で、数少ない残された選択肢が気候変動訴訟ではないかと考えています。
 国連は2020年代初め、「これからの10年の決定が、今後数百年の気候を決める」としました。それほど「今」の選択は重要です。よく憲法学で「切り札としての人権」という言葉を使いますが、それに倣えば気候変動訴訟は、政府や企業が自ら変わろうとしない中で、この状況を変えるために、まさに切り札として取り組んでいるものです。気候変動対策には、訴訟も含め、様々な関わり方があります。ぜひ一緒に取り組んでいきましょう。

 

こいで・かおる 2006年京都大学農学部森林科学科卒業、2007年ニューヨーク州立大学大学院(公共政策学コース)修了、2012年一橋大学法科大学院修了。同年に司法試験合格し、2013年弁護士登録。グリーンライツ法律事務所所属。

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