『普天を我が手に 第一部』(奥田英朗著/講談社)

 大正天皇が亡くなった西暦1926年12月25日から同月31日までの、わずか7日間で終わった昭和元年に、4人の子どもが生まれるところから物語は始まる。
 陸軍省軍務局の少尉・竹田耕三の家にとって待望の男の子が東京・築地の聖路加病院で産声を上げ、志郎と名づけられた。石川・金沢では紡績工場社長の妾にされていた女工が男の子を出産し、直後に息を引き取った。北陸一帯の賭場を仕切る矢野一家の親分、矢野辰一(通称「やのたつ」)が彼女を預かっていたこともあり、男の子はやのたつの四男、四郎として引き取られた。
 東京・神田区神保町に社屋を構える社会主義運動の雑誌『群青』の編集部員である森村タキは、活動家・佐藤安治の子どもを身ごもっていたが、安治は父親になる自覚はなく、タキは聖路加病院で未婚の母として娘を生んだ。名前はノラ。ヘンリク・イプセンが女性の自立を描いた小説『人形の家』の主人公からとった。満州の玄関口・大連でジャズ楽団を主催する五十嵐譲二は、神奈川・横浜保土谷の開業医の次男であり、慶應義塾大学卒業後は財閥系商社に勤めていた。ところが、ジャズの興行に手を出して大失敗。実家からは勘当、妻には離縁され、昔とった杵柄のトランペットを手に渡った満州で、同じく大陸に向かった恭子と結婚。2人の間に息子の満が生まれた。
 それぞれの親たちは時代の荒波に揉まれていく。2・26事件の予兆を知り、皇軍兵士の反乱を止めようとした竹田耕三は、その後、対米戦争へと向かう軍部の暴走を抑えようとすることで何度も命の危険にさらされる。息子の志郎は、将来は軍人になることを目指し、成績優秀なガキ大将として育つ。やのたつは地元の資本家に乞われて行っていた組合つぶしの腕を中央の財界に買われ、右翼団体の大日本菊友会の会長に就任。息子の四郎は学校で親譲りの度胸と腕っぷしだが、親には似ない秀才でもあった。
 森村タキは妹にノラを預けて活動を続け、ソ連にも渡航した。特高に常に監視される日々のなか、プロテスタントの教会の牧師、池辺幸次郎と恋に落ち、ノラを呼びよせ、3人で家庭を築く。ノラは母親似の向こう気の強さと正義感をもつが、直情径行の母親とは違い、冷静なところもあった。五十嵐譲二は満州事変を境に関東軍に引き込まれていき、甘粕正彦(アナキストの大杉栄らを殺害したとされる甘粕事件で知られる)から満州映画協会での映画製作を依頼される。息子の満は満州の中国人やロシア人の子どもたちと対立しながらも、お互いうまくやっていけるようにする交渉上手だった。
 著者はそれぞれの人物像を実に巧みに描き出す。所々にスパイの影がちらつくも、物語はとっ散らかることなく、4組の親子の人生が、自分たちの意思とは関係なく、微妙に交錯していくさまとともに、戦争に近づいていく時代の空気を伝える。
 物語の終盤、在ワシントン日本大使館の駐在武官となった竹田耕三に、米国務省の極東部日本課のウィル・ブラウンは「ハル・ノート」にどう対処するかについて助言をする。アメリカ国務長官コーデル・ハルが日本に「支那全土及び仏印からの完全撤退、満州国の非承認」など呑めない条件を突きつけた最後通牒だ。ブラウンはいう。
 「もし貴国が大陸からの撤退を表明したとします。しかし、物資が足りない上、石油がないからトラックも動かせないのですぐには無理だと訴えたとします。アメリカ側は、ではいつまでなら撤退できると問うでしょう。貴国は来年春を目途にすると答えたとします。来年の春が来ます。まだ撤退できていません……」
 アメリカは約束が違うと抗議するだろうが、そうやって時間を稼ぎ別の交渉経路を探るうちに、世界情勢も変わるかもしれない。ブラウンは友人として竹田に戦争回避策を伝えたのだった。しかし、竹田耕三は、自分たちは天皇陛下のもとで正道を歩むとして一蹴した。
 そして昭和16(1941)年12月7日(ワシントンの現地時間)に日本軍はハワイを空襲。竹田にとっては寝耳に水。それを機に森村タキはある決断をし、アメリカになんぞ負けるかと息巻くやのたつは刺客に狙われ、五十嵐譲二は不気味な予感を振り切るように、憲兵によってジャズ演奏が禁じられるなか、得意のトランペットを吹き鳴らした――。
 昭和100年の大河ドラマの第一部はここまでだ。物語の主人公は親から子へ。竹田志郎、矢野四郎、森村ノラ、五十嵐満という出自の異なる、個性的で優秀な4人へと移っていくのだろう。第二次世界大戦を経て、戦後の混乱、高度経済成長と、私たちが生きる時代へ近づいていくなかで、どのような物語が織りなされるのか。楽しみを残しての読了となった。
 読書には体力も必要だと思う。600ページに上る本書と格闘したような気分とともに、自分の思考の骨組みが強化されていくような手ごたえも感じた。本を読むことの醍醐味である。

(芳地隆之)

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