『揺さぶられる正義』(2025年日本/上田大輔監督)

 学生時代の友人たちとのランチ会でのこと。3人目の孫が生まれたという人がいて、最近のおむつの性能から父親の育児休暇まで、昨今の子育て事情に話が及んだところで、数日前に見たドキュメンタリー映画『揺さぶられる正義』を思い出した。

 「“揺さぶられっ子”って、知ってる?」「知ってる知ってる! 赤ちゃんをこういうふうに揺さぶって虐待するやつでしょう」。一時テレビで盛んに流れた、人形を激しく揺さぶる仕草を真似して一人が言う。「そうそう、亡くなった子もたくさんいたのよね」「ひどいことするわよね」「幼児虐待って、ほんと許せない」。ひとしきり盛り上がったところで聞いてみた。「ところで最近、揺さぶられっ子って、聞く?」「そういえば聞かないわね。虐待の話は多いけど」「実はこの話、いろいろ問題があったのよ」「えっ、どういうこと?」「子どもを揺さぶって虐待したとして逮捕・起訴された事件の多くが、無罪になってるの」「なにそれ?」「そう、冤罪だったのよ」「えっ!? 知らなかった……」

 揺さぶられっ子症候群(Shaken Baby Syndrome:通称SBS)とは、乳幼児の上半身が激しく揺さぶられることで脳の中などに損傷が生じる症状をさす。具体的には硬膜下血腫、脳浮腫、眼底出血 の3つの兆候が特徴とされる。1970代初頭では、目立った外傷がないにもかかわらず乳幼児に硬膜下血腫が見られた場合の仮説だったが、次第に「3徴候が揃えば揺さぶりが原因である可能性が高い」と診断されるようになった。日本でSBSの症例が最初に紹介されたのは1990年代前半。その後、子ども虐待対応のための厚労省のマニュアルや診断ガイドにも掲載されるなど、SBS理論の普及が進み、2010年代に入ってSBS事件での逮捕・起訴が急増した。

 一方で、弁護士、医師、研究者など専門家の間からは「3兆候があれば虐待」と短絡的に結論づけるSBS理論に疑問の声が上がり、検証プロジェクトが立ち上がった。その検証過程で、3兆候はつかまり立ちを始めた頃の転倒、家具からの落下など家庭内での事故、低酸素脳症や遺伝性疾患など病気によっても起こりうることが明らかにされる。その結果、2018年以降にSBS事件での無罪判決が相次いだ。刑事事件の有罪率99.8%という日本にあって、プロジェクト関与の裁判無罪率は86.6%というから、ただ事ではない。

 SBS冤罪事件を追った本作の監督は、企業内弁護士から37歳で報道記者に転身した関西テレビの上田大輔さん。記者になってまもなく大阪で頻発したSBS事件を取材し始め、テレビドキュメンタリーを制作発表。8年目の今年集、大成となる本作を全国に問うた。

 「虐待許すまじ」という正義と「冤罪許すまじ」という正義の衝突に挟まれ、また自らの記者としての正義、弁護士としての正義に揺れ続けた上田さん。SBS事件の加害者とされた人や家族との対話を重ねるなかで、報じる側の暴力性を自覚しジレンマに苛まれながら、司法とメディアのあり方を問う報道に挑む姿に、テレビジャーナリズムの希望をみる思いがした。

 映画は4人のSBS事件当事者とその家族を追う。逮捕され保釈も認められず、長期勾留される。あるいは子どもが養護施設に保護されて引き離され、家族との面会交流も制限される。人生も家族もめちゃくちゃにされ続ける日々。無罪となっても一度貼られた“犯人”のレッテルは消え去ることはなく、奪われた時間も戻ってはこない。ごく普通の市民がこんな目に遭うなんて酷すぎる、と思うと同時に、冒頭で紹介した友人たちとのおしゃべりを思い出す。

 「容疑者逮捕」となると、メディア、特にテレビは実名も顔も晒し、センセーショナルに報道する。とりわけ「幼児虐待」となると視聴者の感情には火がつき、「鬼のような母親」「DV男」といきり立ってしまう。何年かたって「あの事件は冤罪でした」となっても報道は地味で、記憶には残らない。なんと罪深いことを、私たちは平気でやり過ごしているのだろう。

 日々流れるニュースのその先を、私たちは知らない──映画のチラシのコピーを何度も何度も胸に刻んだ。

(田端薫)

『揺さぶられる正義』(2025年日本/上田大輔監督)
全国公開中
https://yusaburareru.jp/


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