「反戦平和」はもう古いのか?(田端薫)

保守を推す若人ふゆる此の国の今此の時に吾れは老いゆく(東京都・斑山 羊)

 
 高市圧勝からおよそ1ヶ月、朝日新聞の歌壇欄(3月1日)に載った一首に目が止まった。3回読み直し、深く共感し、嘆息した。
 
 先の選挙運動期間中のこと。近くの駅頭で共産党の支援者が街宣をやっていた。マイクからは「高市政権は、日本を戦争ができる国へ導こうとしています」「9条守れ、平和を守れ」と、聞き慣れたフレーズが流れる。ビラ配りをしていた高齢女性が、大学生らしきカップルを呼び止め、ビラを押し付けるように話しかけた。「あなたたち選挙権あるんでしょう? 今、自民党を勝たせたら、あなたたちが徴兵されて戦場に行くのよ」。真剣そのもの、必死の訴え。そこから逃げるように離れた二人は顔を見合わせ「きもっ、こわっ、うざっ、やばっ」と笑いころげている。
 
 ちょっとショックだったので、アラフォーの娘に話してみた。
 
 「それ、わかるな。私たち世代にしてみれば、駅頭でビラ配っている高齢者って、カルト宗教の勧誘の人と変わらないのよ。あり得ないようなこと言って、迫ってくる。反射的に、ああこういうの、無理って感じ。あちこちで戦争が起きていて、中国の脅威が高まっている今、ある程度の軍事的抑止力は必要でしょう。そのための防衛費なら仕方ない。何も戦争したいわけじゃない。その逆よ、当たり前じゃん」
 
 こんなツイートも見かけた。 


 
 う〜ん、これが「新しいリベラル」なのか。
 
 この1ヶ月「リベラルはなぜ負けたのか」「リベラルはなぜ嫌われるのか」といった選挙結果の分析やら総括が盛んだ。「急拵えの野合が敗因」「批判や悪口ばかりだから」「5G(おじさん5人組)では、新鮮味がない」と言った言説の中でひときわ「新しい的確な分析」として注目を浴びているのが、橋本努・金澤悠介著『新しいリベラル──大規模調査から見えてきた「隠れた多数派」』(ちくま新書)である。
 
 「新しいリベラル」とは両氏が行った大規模社会調査から浮かび上がってきた「隠れた多数派」だ。この層にはいくつかの特徴があるが、従来型のリベラルと異なる点として「〈戦後民主主義〉的な論点には強くコミットしていない」ことが挙げられている。
 
 ただし「非核三原則を支持する」など、一般的な意味での反戦平和的価値観にはそれなりにコミットしている(本書については本サイトの雨宮処凛さん想田和弘さんのコラムにも触れられているので、詳しくはぜひそちらを読んでいただきたい)。
 
 「新しいリベラル」論にふむふむなるほどと感心しつつも、百年一日の如く「反戦、護憲、平和」を唱えてきたシルバーリベラルは、もう引退する潮時なのかなあ、あのビラ配りのおばあさんのようなやり方は、嫌われるだけなのかなあとモヤモヤしていた時に、朝日新聞編集委員の高橋純子さんの記事(2月28日朝刊)に出会った。

(首相が今後推進するであろう政策それ自体より)私がより深刻だと考えるのは、選挙結果を受けて、「反戦平和はもう古い」という類の言説が、首相支持/不支持を問わず猛烈な勢いで噴きだしていることだ…「時代遅れ」「票にならない」という木刀が振り回され、「反戦」「平和」をなんとなく口にしにくい空気がつくられられていく。

 でしょ、でしょ、なんか変だよね。(高橋さんが「新しいリベラル」を念頭に置いているかどうかはわからないが)「新しいリベラル」論を引き合いに出して「反戦平和ばかり言っているからリベラルは負けた」と選挙総括するのはおかしい。もちろんリベラル村の住人にしか通じない言葉、方法でなく、より多くの人に届く訴え方を工夫することは大切だが、「反戦平和」に古いも新しいもない。
 
 アメリカのベネズエラ、イラン攻撃をあげるまでもなく、世界は不条理な戦争だらけ。外交だの話し合いだのが通じない力が支配する時代に入ったのだと言われる。だからこそ陳腐であろうが時代遅れであろうが「戦争はイヤ、殺すのも殺されるのもだめ」という素朴で愚直な思いを持ち続けたい。と同時にそれをバージョンアップする努力もしなければ。

(田端薫)

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