小さいころから、この季節になるとよく耳にするけれど、どうしても違和感が拭えない言葉があります。それが「今の繁栄の礎となった戦没者の方々に感謝の気持ちを…」というもの。
政治家とか校長先生とかのスピーチの中にもしばしば出てくるフレーズ(と書いてから調べてみたら、昨年や今年の安倍首相の戦没者追悼式典でのスピーチの中にも、やっぱりそんな感じの一節がありました)。でも、耳にするたびいつも不思議で不思議でしょうがなくて、そしてざらりとした嫌な気持ちが残るのでした。「哀悼」は分かる。「心が痛む」も分かる。政府として「謝罪」するのならそれも分かる。でも、どうして「感謝」なんだろう──。
「感謝」は、やってくれてありがたかったこと、うれしかったことに対する言葉だと思うのですが、「戦没者」のひとたちが死んでくれてありがたかったなんてことが、あるはずもない。彼らの死があったから今の繁栄があるなんて、考えてみればものすごく失礼な言い方じゃないだろうか。彼らが戦争によって命奪われず、生きて戦後を迎えていれば、それぞれの人生を懸命に紡ぎながら、もっともっと豊かな社会を築いてくれたんじゃないんだろうか。そう思わずにいられないのです。
きっと誰もが、家族や恋人や友人とまだまだ多くの時間を過ごしたかったでしょう。後世のための「礎」になることなんかより、やりたかったことも、行きたかった場所も、山のようにあったに違いない。その、幾多の「奪われた未来」を思うと、彼らに向ける言葉として「感謝」がふさわしいとは、どうしても思えなくなります。
もちろん、家族や親しい人を失った遺族の方たちが、その失われた命にどんな思いを抱き、どんな言葉をかけるのかは、また別の話です。想像することすら難しい、その痛みや悲しみを否定したいのではありません。ただ、戦火の中を逃げまどった経験も、身近な人を戦争で失った経験ももたない私たちが、決まり文句のように「感謝」を口にすることが、果たして本当に「追悼」なのだろうか、との思いは消えないのです。
さらに言えば、政治家の口から語られるときには、「感謝」の言葉はまた別の意味をもちはじめます。感謝され、尊重されるべき、貴い犠牲。戦没者をそう位置づけることは、戦死を美化し、次の「国のために命を投げ出す」存在を生み出すことにつながりかねません(先日掲載した本田由紀さんインタビューの、「国のいうことに逆らわない人づくり」が進められている、という話を思い出します)。
私たちが戦没者に伝えるべきは「感謝」ではなく、多くの命が戦争などという愚かなものによって奪われたことへの悲しみと怒り、そして同じことを二度と繰り返さないという誓いではないか。そして、それを現実にしていくために行動することこそが何よりの「追悼」なのではないか。毎年、そんな思いを積み重ねています。
(西村リユ)