第435回:「信教の自由」と「子どもの人権」のはざま〜『よく宗教勧誘に来る人の家に生まれた子の話』を読んで〜の巻(雨宮処凛)

 以前、親が亡くなって児童養護施設にいた人に取材した際、衝撃的な話を聞いたことがある。

 自分以外にどんな子どもが入所していたか、という話になった時、その人は「宗教に入っている親に人身御供にされて全身やけどの子どももいた」と話してくれたのだ。

 家庭という密室で、一体何があったのか、詳しい背景などはもちろんわからない。が、その子のその後の人生が過酷であるだろうことは容易に想像がつき、暗澹たる思いが込み上げてきたのだった。

 その子は全身やけどを負いながらも一命をとりとめ、施設に保護されたわけだが、宗教などにハマる親によって子どもの命が奪われる事件は今までに何件も起きている。例えば2015年には、「心霊治療」などと称する祈祷師の指導により、両親が糖尿病の子ども(7歳)にインスリン注射を絶たせ、死亡させている。祈祷師は殺人容疑で逮捕。また、05年にもある宗教団体の合宿で、やはり糖尿病の中1少女が死亡。母親はこの宗教の健康食品に傾倒し、インスリンを投与させなかった果ての死だった。

 命が脅かされるほどの事件が起きれば、警察や行政などは動くだろう。が、それは逆に言えば、事件という形で表面化しない限り、親がどんな宗教にハマり、子どもにどれほど理不尽な要求をしようとも誰も助けてくれないということだ。家庭の中のことだから、信教の自由があるから。そんな理由で、おそらく今も多くの子どもが「異常」と言われるような状況の中、放置されている。
 
 そんなことを思ったのは、昨年末に出版されたある漫画を読んだからだ。
 それは『よく宗教勧誘に来る人の家に生まれた子の話』(いしいさや/講談社)。

神様を信じるお母さんに連れられて毎日、宗教活動に参加させられていた私。ハルマゲドン後に楽園で暮らすために聖書に書かれていることに従い禁欲的な生活と奉仕活動をする日々。友だちができなくても恋ができなくても神様とお母さんが私の生活のすべてだった。そんなあのころを綴ったエッセイまんがです

 本の裏表紙にある説明の通り、著者自身の体験を綴ったものだ。冒頭に書いたような、やけどをさせられる、必要な医療を受けさせないなどのわかりやすい身体的虐待はない。しかし、著者は子どもの頃から「世の子」(自分たちの教団以外の人)との接触を避けるように言われ、週に何度も集会や勉強会に参加させられ、土曜日は宗教のパンフレットを持って各家庭のチャイムを鳴らすという布教活動に駆り出される。近隣の家に行くので、同級生にそんな姿を見られることももちろんある。

 それだけではない。行事にも様々な制約がある。「クリスマスは悪いお祝い」ということで幼稚園の時からクリスマスを祝うことはなく、誕生会も「異教のお祝い」だからと禁止。自分が祝ってもらえないのはもちろん、立ち会うこともNGなので、学校の誕生会では一人だけ廊下に出て待たなければならない。体育祭の「応援合戦」も、聖書に「争いは避けなければならない」という記述があるから参加は禁止。みんなが練習する中、一人だけ席に座り続けていなければならない。また、偶像崇拝にあたるので校歌・国歌の斉唱もダメ。人間の政治に参加することも禁じられているのでクラス委員などの投票もできない。輸血や血の入った食べ物を食べることもダメなので給食にも制限がある。

 当然、学校の中では浮きまくる。その上、親からは「世の子」と仲良くするなときつく言われている。そうして彼女は人とかかわることをやめ、友だちをつくることもやめてしまうのだ。

 辛いのは、「恋愛」までも禁じられていることだ。婚前交渉は絶対禁止。そもそも信者同士でしか結婚することはできない(信者になる前に結婚していた場合は仕方ないとみなされる)。が、そんな彼女が高校生の頃、好意を寄せてくれる男の子が現れる。付き合ってほしいと言われるものの、彼女は断る。デートしたりメールしあったり、そんなことも禁じられているからだ。

 「好きなんだけど、無理なんだよ」

 口に出せなかったその一言がなんとも切なくて、胸を掻き毟りたくなる。

 読みながら、ある人を思い出した。それは02年に出版された『「人を好きになってはいけない」といわれて』の著者の男性。新興宗教信者の両親のもとに生まれ、小学生の時には信仰に疑問を持ち、それを両親にぶつけるものの言葉が届かなかった男性は、家出を繰り返し、ひきこもり、新宿二丁目で働くなどするものの大検に合格する。この本はそれまでの経緯を綴った一冊だ。

 私が彼に出会ったのは、彼がまだ本を出版する前。生きづらさ系のイベントだったと思う。おそらく、彼は生きづらい一人として、そこに参加していた。詳しくは本を読んでほしいが、「人を好きになってはいけない」と言われてきたという本のタイトルが、すべてを表しているだろう。
 
 思えば、これまで様々な「生きづらさ」を抱える人たちと出会ってきたが、その中に、新興宗教の二世という人たちは少なくなかった。が、具体的な話について、詳しく聞いたことはほとんどなかった。「親に信仰を強要された」二世同士が盛り上がっている場面には何度か遭遇したことがあるが、彼ら彼女らが私に話してくれなかった背景には、「どうせわからない」という思いがあったのかもしれないと今になって思う。しかし、二世には、これほどの苦しみがあったのだと、今回の漫画を読み、そして『「人を好きになってはいけない」といわれて』を思い出して、思った。

 二世系では、16年に出版された『カルト村で生まれました。』、その続編である『さよなら、カルト村。思春期から村を出るまで』の著者も、子どもという立場から村での生活を振り返っている。こちらはあまり悲壮感はない描かれ方となっているが、「所有のない社会」を目指すコミューンで生まれ育った著者は、学校など一般社会との軋轢がどうしても生まれてしまう日常を丁寧に描いている。両親と離れ離れの子どもたちの集団生活、早朝からの労働、体罰、そして壮絶な空腹。

 読んでいて思うのは、『カルト村』でも『よく宗教勧誘に〜』でも、登場する大人たち(多くは学校の先生)があまりにも頼りないことだ。信教の自由や思想・信条の自由への配慮なのか、「異常」に思える環境の中にいる子どもたちを前にしても、ただオロオロするばかり。「この問題に触れてはいけない」というタブー感があまりにも強く、目の前の子どもがどれほどの苦痛を抱えていても積極的に介入する大人は一人も現れない。そこから子どもがどれほどの絶望を学ぶだろうかと思うと、こういった問題に教育関係者がどう介入するかというノウハウが絶対に必要だと強く思うのだ。子どもの状況に気づけるのは、今のところ、学校しかない。

 さて、『よく宗教勧誘に〜』は読んでいて驚かされるばかりなのだが、もっとも違和感を持ったのは、信者ではない父親の一言だ。輸血を禁じる宗教の決まりがあるからなのか、体調を崩してもなかなか病院に行こうとしない母。そんな母が救急外来に運ばれて入院となった際、父は中学生の娘に聞くのだ。

 「お母さんが病院に行かないのって、宗教のあれなの?」

 妻本人に聞かず、中学生の娘にそう聞くシーンが、私はただただ怖かった。漫画では父親は比較的「いい人」として描かれているのだが、この徹底した妻への無関心というか諦めというか「触れちゃいけない」感覚に、ゾッとしたのだ。この家族の中に深くある断絶に、嫌でも気づく描写だ。

 もちろん、私は宗教すべてを否定する立場ではまったくない。しかし、いくら親でも子どもに「強要」してはいけないと思うのだ。

 昨今、子どもへの虐待の関心が高まり、通報するなどして子どもの命を守るという取り組みは社会的に共有されている。しかし、ここまで書いてきたようなケースへの介入は、どこも及び腰だ。が、ネットなどを見ればこの手の話は溢れている。これからも、二世による体験談の出版などはおそらく続くだろう。「信教の自由」と「子どもの人権」のはざまで何ができるのか、改めて大きな課題をもらった。

最近、取材で訪れたJAZZ喫茶・映画館で

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雨宮処凛
あまみや・かりん:作家・活動家。2000年に自伝的エッセイ『生き地獄天国』(太田出版)でデビュー。06年より格差・貧困問題に取り組む。07年に出版した『生きさせろ! 難民化する若者たち』(太田出版/ちくま文庫)でJCJ賞(日本ジャーナリスト会議賞)を受賞。近著に『死なないノウハウ 独り身の「金欠」から「散骨」まで』(光文社新書)、『学校では教えてくれない生活保護』(河出書房新社)、『祝祭の陰で 2020-2021 コロナ禍と五輪の列島を歩く』(岩波書店)。反貧困ネットワーク世話人。「週刊金曜日」編集委員。