第22回:戦争を生き延びた人たちが去って行く(鈴木耕)

「言葉の海へ」鈴木耕

97歳、「2.26事件」の思い出

 2月3日の深夜、義母が亡くなった。97歳の誕生日から、ちょうど1週間目だった。大正10年(1921年、酉年)の生まれ。よく生きた。
 酉年の守り本尊はお不動様ということで、90歳ごろまでは毎年、正月には成田山へお参りに連れていった。長いドライブが無理になってからは、もっと近い高幡不動へ。
 お守りのお札を返して新しいお札に代えてもらうのが、ささやかな新年の我が家の行事だった。でも、もうそれも必要なくなる…。

 義母は、時折、昔話を聞かせてくれた。
 例えば「2.26事件」。これは昭和11年(1936年)の軍事クーデター事件だ。その時、義母15歳。落語の「目黒のさんま」じゃないけれど、江戸の風情が残る目黒の魚屋の娘だった。
 その魚屋を切り盛りしていたのが、義母の母でチャキチャキの江戸っ子気質。その母が、河岸に魚の仕入れに出かけたまま帰ってこない。不安になった義母は、雪の中(この日の東京は大雪だった)長い間、母の帰りを待ち続けたという。都電も何も交通網遮断で、母が帰ってきたのは、もう暗くなってからだったというから、義母はよほど心細かったのだろう。
 そんな義母、戦中は疎開児童の付添婦として福島県の白河へ。戦後まもなく結婚して、府中に嫁いだ。相手(義父)は元海軍の兵士だった。
 府中は戦後、米軍基地の街となった。義母は、米軍将校宅の掃除や炊事洗濯をして、苦しい生活を支えたという。
 こんな話も聞いた。
 その将校の奥さんが、お土産だといって、丸い缶に入った食べ物をくれた。高級なバターかなにかと思ったらしい義母は、もったいなくてなかなか食べられずにいたのだが、しばらくするとなんだか缶が臭ってきた。ブツンブツンと泡立ってきた。それはバターではなくマッシュポテトだったらしく、発酵し始めた…というわけだ。
 義母の、戦後の思い出話のひとつである。

義父の「軍歴表」に書かれていたこと

 義母の部屋の片づけをしに行った。カミさんがいろいろと分別して、必要なもの、形見分けにしたいもの、そのほかのもの…。義母が大切にしまっていた書類などを調べていたら、驚くようなものが出てきた。
 義父の「軍歴表」であった。
 彼は大正5年(1916年)生まれ。本籍地は新潟県になっていた。軍歴表には「昭和八年 横須賀海兵団入団」とある。たった17歳で志願入隊したことになる。どんな事情で17歳の少年が海軍に入ったのか、ぼくはよく知らない。しかし、貧しさから逃れるためだったのは間違いない。
 さらに「昭和九年度 操法検定成績八八六三 比叡」とか「昭和十年度 操法検定 賞状並賞品授与 五十鈴」「昭和十九年度 舞鎮通信(暗号)検定 舞通」などの記述が見える。どうも、通信兵をしていたらしい。比叡や五十鈴は艦艇の名前か。
 やがて戦況が深まるにつれて、義父の身辺も厳しくなる。「横須賀鎮守府第一特別陸戦隊付ヲ命ズ」とあり、昭和12年(1937年)には中国の旅順から上海に向かったとある。そして「感状 大川内海軍少将ノ指揮セシ陸戦部隊」の記述が生々しい。こうだ。

昭和十二年八月十三日ヨリ二十二日ニ至ル間 極メテ優勢ナル敵ニ包囲セラレ 昼夜間断ナキ攻撃ヲ受ケルニ拘ラズ 寡兵ヲモッテ善戦健闘ニ務メ 敵ニ甚大ナル被害ヲ与ヘ 克ク上海ヲ確保シ 敵ノ攻勢企画ヲ破砕シタルハ 以後ノ作戦ニ寄与シタル所極メテ大ニシテ其ノ武勲顕著ナリ 乃チ茲ニ感状ヲ授与ス

 簡単に言えば「中国・上海の市街戦で、優勢なる敵兵に囲まれながらも少数兵力で奮闘し、ほぼ10日間ももちこたえた。そして敵の意図を挫いたのは立派だったから、感状を授ける」ということだ。
 その後も「支那事変戦地戦務」とか、何があったのかは分からないが「侍従武官御差遣御煙草下賜」「普通善行章一線付与」などと続く。さらには「初任下士官特別教育終了」ともあるから、一兵卒から下士官になったようだ。
 だが兵務は厳しかったらしく、昭和15年(1940年)には「第一種症(熱帯熱マラリア)ニ依リ海南海軍病院海口分院ニ入院ヲ命ズ」とあり、その後転院を重ね、呉(広島)海軍病院でようやく回復、即日、呉海兵団に仮入団ということになる。つまり運良く、敗戦時は日本国内で迎えたのだ。12年間の海軍生活を、何とか切り抜けたわけだ。
 だが残念なことに、義父は1980年にこの世を去った。まだ63歳、肝臓ガンであった。
 結局、その青春のほとんどを軍隊の中で過ごすことになったのだ。
 義父の死の直前、ぼくら夫婦に長女が生まれた。義父母にとっては初孫になる。義母は「この子はお父さんの生まれ変わりね」と言って、ぼくらの長女をとりわけ気にかけてくれていた。

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戦争とは、つくづくイヤなものだ

 義父の軍歴は「軍歴表」を見る限り、多岐に及んでいるが、生前はほとんど戦争の話はしなかったようだ。
 ぼくはあまりカミさんの実家を訪れなかったし、年始やお盆などに出向いて酒を酌み交わす機会もあったのだが、義父は自分の学歴のなさを恥じているかのように、ぼくに対しては無口であった。まだ若かったぼくは、それを思いやるような分別を持ち合わせてはいなかった。しみじみと、申し訳なかったなあ、と思う…。
 義父はかなりの酒好きで、よく夫婦ゲンカをしたらしいが、子どもにはめっぽう優しかったというのがカミさんの記憶だ。
 その義父が、カミさんにポロリと戦争の話を漏らしたことがあるという。
 「戦争でいちばん怖いのは、市街戦だ。船に乗っているときは、敵の顔なんか見えないが、上海の市街戦では、角を曲がったとたんに敵兵と遭遇した。それはほんとうに怖かった」
 実は、カミさんには、もっと具体的に生々しい恐怖を話してくれたというが、さすがにそれをここには書けない。今のぼくだったら、ゆっくり酒を飲み交わしながら相槌のひとつも打てただろうけれど、残念ながら当時のまだ若かったぼくには、そんな配慮はなかった…。
 まあ、その分、義母には親孝行の真似事をたくさんしたのだから、義父も許してくれるだろう。

戦争を知る者がいなくなって…

 ぼくの父母も、カミさんの父母も、すべて亡くなった。もう近親に、戦争やその時代を知っている者はいなくなった。ぼくもカミさんも、かろうじて戦後の混乱時代を生きたのだが、その記憶も次第に薄れつつある。
 ぼくの父親は、医学生のとき結核に感染。だから、兵隊にはとられなかったが、その分、かなり過酷な闘病生活を送ったらしい。
 そんな昔話も、ぼくは真面目に父親からは聞かなかった。18歳で故郷を出て、あまり実家には帰らなかったから、親父のその時代の話は、ほとんどがまた聞きだ。つくづく親不孝である。
 母が亡くなった時、やはり遺品を整理していたら、親父の青春時代の日記(のようなもの)が出てきた。ぼくの知らない親父がそこにいた。戦争への関心もそれなりに綴られていた。今考えると、かなり危ない記述もある。戦争に行かなかったうしろめたさと、それゆえに官憲に目をつけられていたことなども、記されていた。
 ぼくの両親は「戦争だけは絶対にイヤ」といって、ずっと当時の社会党に投票していたと、実家の姉が言っていた。そういえば、義母も投票先は必ず社会党だったらしい。その社会党がなくなって久しい。

 戦争を知る者が、次々にこの世から退場していく。野中広務さんのような「反戦保守」もほとんど姿を消した。
 かつての「戦争を知らない子どもたち」は、戦争を知らないがゆえに「平和の歌を口ずさみながら」歩き続けた。しかし、今の「戦争を知らない政治家たち」は、戦争を知らないがゆえに「戦争こそが平和」だと、あの『1984』の世界を現前させようとしている。

 これから、ぼくらの国はどこへ向かうのだろう?

鈴木耕
すずき こう: 1945年、秋田県生まれ。早稲田大学文学部文芸科卒業後、集英社に入社。「月刊明星」「月刊PLAYBOY」を経て、「週刊プレイボーイ」「集英社文庫」「イミダス」などの編集長。1999年「集英社新書」の創刊に参加、新書編集部長を最後に退社、フリー編集者・ライターに。著書に『スクール・クライシス 少年Xたちの反乱』(角川文庫)、『目覚めたら、戦争』(コモンズ)、『沖縄へ 歩く、訊く、創る』(リベルタ出版)、『反原発日記 原子炉に、風よ吹くな雨よ降るな 2011年3月11日〜5月11日』(マガジン9 ブックレット)、『原発から見えたこの国のかたち』(リベルタ出版)など。マガジン9では「言葉の海へ」を連載中。ツイッター@kou_1970でも日々発信中。