「希望」と「再始動」のためのコンテンツ・インデックスVol.3

なんと、3年半ぶりの企画が帰ってきました(笑)。マガジン9スタッフ&ボランティアによる、「『希望』と『再始動』のためのコンテンツ・インデックス」。いろいろなことがあった2017年ですが、今年もいよいよ終わろうとしています。新しい年へ向けて「希望」を見出し、2018年に「再始動」していくヒントになりそうな本や映画などを、マガジン9スタッフ&ボランティアが紹介します。年末年始にじっくりどうぞ!
Vol.1(2014年6月)、Vol.2(2014年7月)、「多分、ハズレなしの読書案内」(2014年12月)もあわせてご覧ください。


『海を渡る「慰安婦」問題 右派の「歴史戦」を問う』(山口智美 能川元一 テッサ・モーリス−スズキ 小山エミ著/岩波書店)
アメリカでの「慰安婦」碑設置問題とは?
西村リユ

 先日、大阪市が米カリフォルニア州サンフランシスコ市との姉妹都市解消を表明した、というニュースが流れた。理由は、サンフランシスコ市議会が民間団体による「慰安婦」碑設置を認める決議を行ったこと。吉村・大阪市長は「事実関係の不確かな主張を歴史的真実として広めることは日本へのバッシング」などと繰り返し主張していた(こうした歴史修正主義的な主張が、大都市のトップの口から堂々と発せられることにまず驚く)。

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 アメリカでの「慰安婦」碑設置はこれが初めてのことではなく、特に同じカリフォルニア州グレンデール市に設置された碑をめぐっては、「それが原因で日系人や日本人の子どもに対するいじめが起きている」という報道が一部でなされ、在米日系人を中心とする団体が碑の撤去を求める訴訟を起こしたりもしていた(すでに敗訴が確定)。
 しかし、本書で明らかにされているように、この「いじめが起きている」というのは完全なデマ。第二次安倍政権以降、こうした「慰安婦」の存在否定のような、歴史修正主義的なメッセージを海外で広げようとする「歴史戦」と呼ばれる動きが、いわゆる「右派」の間で盛んになっているのだという。
 その「歴史戦」について、その経緯や背景を詳細に解説したのが本書だ。在米研究者の山口智美さんが執筆する第4章では、自民党や日本政府がそうした「歴史戦」に積極的にかかわってきたことも指摘されており、ぞっとするような怖さを覚える。
 海外での話なだけに、国内ではそれほど認識されていない(ように思う)間に、着々と「歴史戦」は展開されてきており、大阪市のケースに見られるように、ともすれば現実の政治に影響を与えつつある。その危機感を共有するためにも、いま、多くの人に読まれてほしい本だ。

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『あのころはフリードリヒがいた』(ハンス・ペーター・リヒター著・上田真而子訳/岩波少年文庫)
普通の人々が、なぜ熱狂的にナチスを支持したのか
田端 薫
 わずか70余年前、文明国であったはずのドイツで、なぜあのような惨劇が起きたのか。たまたまヒトラーという特異な人物が現れたからなのか。普通の人々が、なぜあれほど熱狂的にナチスを支持したのか。その答えを求めて手にしたのが『あのころはフリードリヒがいた』である。

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 著者のハンス・ペーター・リヒターは、1925年ドイツ生まれの社会心理学者、児童文学者。本書はナチス政権下の少年時代を描いた自伝的作品で、1961年の初版以来ドイツのみならず世界中で読み継がれ、日本でも中学の教科書にその一部が採用された、古典的名著である。
 ご存じの方も多いと思うのであらすじは省くが、物語の主旋律は「ぼく」と、同じアパートに住んでいた同い年のユダヤ人少年フリードリヒ・シュナイダーとの仲良く遊んだ日々。そこに影を落とすのは、アパートの管理人や「ぼく」のおじいさんら、一部の大人たちのユダヤ人への侮蔑のつぶやき。それがいつしか暴言になり、暴力に膨らんで、フリードリヒ一家を追い詰めていく。
 圧巻は、13歳になった「ぼく」がついにポグロム(ユダヤ人襲撃)に参加してしまうくだり。顔なじみのユダヤ人のお医者さんや商店に凶器を持って押しかける大人たちに混じり、「ぼく」は我を忘れて金槌を振り回し、かたっぱしから壊しまくる。「やれ、やっちまえ!」という怒号にあおられるように、わけのわからない激情にかられ、「ぼく」は「自分のふりまわす金槌の威力に酔いしれて、声高らかに歌いたいほど」高揚する。そして破壊し尽くした果てに、突然疲れを感じ、吐き気を催す。
 本書に説得力があるのは、子ども向けなのに情緒的でなく、できる限り感情を抑え、冷静に客観的に淡々と事実に語らせるそのスタイルにあると思う。子どもの目線で見たこと、聞いたこと、やったこと、その「ファクト」を綴る。「だってぼく、ほんとに見たんだもん」というゆるぎない率直さは、読む者を圧倒する。そこには加害とか自虐といった評価が入る余地はない。
 日本にも戦争童話や戦争児童文学はたくさんあるが、被害者の立場から描かれた作品がほとんど、とよく言われる。戦争は恐い、かわいそう、いやだという価値観は育つだろうが、なぜ戦争が起きたのか、起きないようするにはどうしたらいいのかという一歩踏み込んだところにまで至らないのではないか。
 まずは歴史の事実を知ること。ファクトの大切さを改めて心に刻んだ年末である。

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『5時に帰るドイツ人、5時から頑張る日本人~ドイツに27年住んでわかった定時に帰る仕事術~』(熊谷徹著/SB新書)
日本の現状に対する厳しい問題意識
芳地隆之

 タイトルから、著者のドイツでの豊富な経験を織り交ぜたエッセイなのかと思いきや、日本の現状に対する厳しい問題意識が込められている。働き方に対する厳格な監視が行われているドイツと、政府の掛け声はいろいろあっても、実態は働く者の過剰労働を放置している日本。両者を法制面と慣習から比較し、私たちに本当の意味での働き方改革を提言する。

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 2015年暮れ、電通の新入社員が1カ月100時間を超える残業で自殺に追い込まれた事件は記憶に新しい。著者が以前勤務していたNHKでも、2013年に女性若手記者が過労死している。著者がNHK記者時代に不眠不休で番組をつくっていたエピソードは、読んでいるこちらまで疲弊してくるほどだ。
 ドイツでは1日10時間を超える労働は禁止。それが形骸化されないよう、事業所監督局が厳しく監視し、それを破った企業(あるいはその管理職個人)にはぺナルティが科せられる。年次有給休暇は最低24日与えることが法律で義務づけられているが、それを上回る30日の企業がほとんどだという。
 それでいて経済パフォーマンスはドイツの方が好調だ。
 日本は世界第3位の経済大国(ドイツは4位)だが、それはGDPの規模であり、一人当たりのそれ、すなわち労働生産性でいえば、ドイツ(4万7999ドル。世界9位)が日本(4万737ドル。同14位)を上回る。
 ドイツ企業では、長時間労働≒能力が低いとみなされる。効率的な仕事のやり方は働く者の健康あってこそだ。
 「仮に99%の人が長時間残業のストレスに耐えられるとしても、残り1%を見捨ててよいということにはならない。(中略)そういう1%の弱者を保護するためにも、政府は法整備をするべきなのだ。全国民の健康と安全を守るのは、政府の義務である」という著者の言葉を反芻したい。
 かつてあるドイツ人のサラリーマンに「日本では“ドイツ人は働きすぎず、家庭生活を大切にしている”といわれるが、普段、奥さんや家族とどんな風に過ごしているの?」と聞いたことがある。冗談交じりに返ってきたのが「(奥さんとは)口げんか、かな」で笑ってしまったが、毎晩残業続き、家では寝るだけみたいな生活を続けていたら、夫婦の関係は口げんかでは済まず、離婚への発展は必至だろう。
 互いに多くの時間を共有するからこその夫婦喧嘩と解釈した。

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『これってホント!? 誤解だらけの沖縄基地』(沖縄タイムス社編著/高文研)
本土の人間が陥りがちな沖縄の誤解を解き明かす
仲松亨徳

 東京MXテレビで放送された『ニュース女子』(DHCシアター=現DHCテレビジョン制作)での沖縄ヘイトは、BPO(放送倫理・番組向上機構)放送倫理検証委員会によって、テレビ局に重大な放送倫理違反があったと判断された。しかし制作会社は反省の色ひとつ見せない。かくも沖縄ヘイトとは根深いものか。

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 本書ではヘイトまで行かずとも、「在沖米軍がいなければ中国に攻められるのでは?」など、本土の人間が陥りがちな沖縄の誤解を事細かに解き明かしている。デマを広げるのはたやすいが、それを正していくことの迂遠さと重要性を実感させられる書。

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『サフラジェット 英国女性参政権運動の肖像とシルビア・パンクハースト』(中村久司著/大月書店)
「声を上げ続けなさい。闘い続けなさい」
柳田茜

 いまから100年以上前、女性参政権を勝ちとるために弾圧や暴行に抗い闘い抜いた英国の女性たちがいた。
 この運動がどのようなものだったのか知りたいと思ったのは、2017年1月に行われたウィメンズ・マーチの印象が鮮烈だったからだ。全米の都市の街路を埋め尽くしたピンクのニット帽の波、波、波。選挙期間中から女性蔑視的な発言を繰り返していたトランプ氏の大統領就任に対する抗議行動は米国一国にとどまらず、数百万人が世界各地で開催されたウィメンズ・マーチに参加したという。

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 参加者のなかには、かつてのウーマンリブやフェミニズム運動の女性活動家、公民権運動で闘った高齢の女性の姿もあった。あらゆる年代の女性が「私たちは黙っていない」と声を上げた21世紀のこの運動は、数世紀にわたる女性たちの苦闘の歴史と地続きなのだろうな。そんな思いから本書『サフラジェット 英国女性参政権運動の肖像とシルビア・パンクハースト』を手にとったのだった。
 英国で最初に「女性参政権請願書」が国会に提出されたのは1832年(日本はまだ江戸時代、天保年間)のこと。その後、さまざまな参政権獲得団体が生まれ、1903年にエメリン・パンクハーストと長女クリスタベル、次女シルビアによって設立されたWSPU(女性社会政治同盟)が運動を拡大していく。参政権獲得をめざすWSPUの女性たちは、やがて「劣った小さな女たち」と嘲笑う意図を含む「サフラジェット」という名称で呼ばれるようになる。
 著者が記すように、「サフラジェット」は「血みどろの闘争を継続」した。警官隊からの熾烈な暴行、逮捕、投獄と、獄中では拷問も加えられた。抵抗手段として、「人命は傷つけない」方針を示していたとはいえ、投石、放火、爆破などの行動も辞さなかった。
 彼女たちの活動がようやく実を結ぶのは、第一次世界大戦終結後の1918年。条件付きながら、30歳以上の女性が参政権を獲得する。そして10年後の1928年には、男女平等の参政権が実現した。
 「サフラジェット」の記録を読んでいくと「よくぞここまで…」とため息をつくしかない。とくに戦争反対を訴え、男女労働者と手を携えて闘い続けたシルビアの行動は圧巻だ。投獄された女性たちは「1000人のジャンヌ・ダルク」といわれている。シルビアもたび重なる投獄で心身を消耗し、担架に乗ってデモに行ったこともあった。
 いま私たちが当然のように選挙で自分の権利を行使できるのは、彼女たちの闘争があったからだ。表紙のシルビアの写真は「いつの時代でも、どこの国でも、女性の人権は簡単に傷つけられる。声を上げ続けなさい。闘い続けなさい」と語りかけているような気がする。女性参政権獲得から100年、ピンクのニット帽を被って行進した女性たちを、「サフラジェット」は遠い空の上から見守っていたかもしれない。

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『主権なき平和国家 地位協定の国際比較からみる日本の姿』(伊勢﨑賢治、布施祐仁著/集英社クリエイティブ)
本書を読んで浮かんできた、「忖度」という言葉
気仙沼椿

 日米地位協定の内容を、他国と米国が締結した地位協定のそれと比較してみた本だ。
 米国と、NATO同盟内のドイツやイタリア、その他フィリピン、アフガニスタン、韓国、イラク……地位協定がそれぞれ締結されているのだという。そのことだけで、「へえ!」を3回くらい言いたくなる。加えて、アフガンやイラクでさえ、地位協定内の自国に不利な項目や取り決めについて、米国と粘り強く交渉し、撤廃したり改善したりしているのだという。日本は、地位協定が発効した1960年以来、一度も地位協定本文の改定を米国側に提起したことがない。米国軍人が少女をレイプ殺人しようが、ヘリコプターが墜落しようが、米国の言いなりのまま何も変わらずにいるのは、我が国だけなのだ。

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 そして、本書の強力な著者二人(南スーダン日報問題で話題となった布施祐仁氏と、言わずとしれた紛争解決のエキスパート伊勢﨑賢治氏の共著)は、「地位協定が改訂されるには自国民の世論の盛り上がりこそがきっかけ、後押しとなっていく」と解く。
 私にもわかっていたことだ。日本では米軍基地の約7割が沖縄にある。だから、ほとんどの日本人にとっては、そこでのトラブルは他人事。沖縄だけに基地を押しつけてしまっているから、地位協定を改定しようという世論の盛り上がりなどおきないこと。刑事裁判権、基地管理権、全土基地方式、思いやり予算……と読み進むうちにやるせなさが心に鬱積してくる。
 目からうろこがぽろぽろ落ちたことがある。
 日米地位協定では、日本のどこに米軍基地を作られても、日本は文句を言えない。2016年12月にロシアのプーチン大統領が来日した際、北方4島が一部返還へ向かうのではないかと盛り上がった。それが会談終わってみたら、何にもなかった。この日露首脳会談に向けた協議の中で、ロシア側から「2島を引き渡した場合、『島に米軍基地は置かれるのか』と問いかけられて、日本側は『可能性はある』と答えた」のだと書かれている(本書157P)。まさかね。ロシアにしてみれば、返してやったとたんに喉元に米軍基地を作られたら、やってられないよね。だけど、今の日米地位協定では、米国がそうしたいと言えば、日本には「やめてくれ」と抵抗する術はない。「可能性はある」なんて答えたら、2島返還の協議なんて吹っ飛ぶのも当然だろう。
 うろこ、もう一枚。日本が2009年にジプチ共和国と地位協定を結んでいたこと。ジプチに駐留する自衛隊員と自衛隊の法的地位について定めたものだ。それが、ジプチで自衛隊員・自衛隊が起こしたすべての事件について、ジプチの刑事裁判権から免責される内容なんだって。つまり、沖縄で米兵が起こした事件をまったく捜査させてもらえないような、理不尽な取り決めを、日本はアフリカで他の国に押しつけていることになる。あ〜、なんということだ。私は、自分が他人からやられて嫌なことは、他人にもしないようにしましょう!と幼稚園で教えてもらったよ。
 外国軍隊の刑事裁判権は、その国の主権にかかわること。その主権をないがしろにして、平和国家だなんておこがましいよ! と著者たちは言いたいのだと思う。本書を読んで改めて浮かんでくるのは、「忖度」(そんたく)、「慮る」(おもんぱかる)という言葉だ。
 日本はこんなに理不尽なことに耐えているのだから、こんなにお金を出しているのだから、こっちの気持ちや状況を察してよというイジッとした態度でいれば、いつか米国が「OK、もういいよ」と慮って軍隊を撤収してくれることを期待しているのではないか。自分の要求は言語化しないと伝わらないこと、NOはきちんと示さないと相手にはわからないことを、社会で暮らしていれば、こんな私ですら知っているのに。
 日米地位協定――もう一度その不平等性を確認し、正面から米国と交渉する。そのことに、みんなで向かっていくべきなのではないか。9条をいじる憲法改定よりもそっちのほうが急務なのではないかと思う。

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『世代の痛み 団塊ジュニアから団塊への質問状』(上野千鶴子・雨宮処凛著/中公新書ラクレ)
団塊と団塊ジュニアの間にはさまれたバブル世代の非力とバカさを感じつつ
水島さつき

 1946年生まれの上野千鶴子さんと1975年生まれの雨宮処凛さんが「仕事」「格差」「結婚・非婚」「親子関係」「フェミニズム」「政治参加」などについて縦横無尽に語り合い、それぞれの立場や経験からテーマを掘り下げていくスリリングな対談集だ。本のサブタイトルには、「団塊ジュニアから団塊への質問状」となっているが、雨宮さんから「上野先生、教えてください!」という師弟の関係ではなく、極めて対等。時にフェミニズムの章では、上野さんが女性研究者や実践者、また全国で展開されていた草の根運動などについて説明しても、雨宮さんは「聞いたことも見たこともないですね」とクールに言い放ち、上野さんを「私、フェミの本たくさん書いたんだけどね……」と落胆させる。そして雨宮さんの実感や見聞きしてきた現場の話には、日本社会は、こんなところまで追い詰められてきているのか、と問題の深さが改めて浮き彫りになる。

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 1962年生まれの私は、バブル世代の代表格だと自覚している。東京の大学にさえ入ってしまえば、あとは明るい未来が約束されていると根拠のない自信に満ち溢れていて、大学にも行かずに下北沢や六本木で遊びほうけていた。ただフェミニズムとの出会いは、父親が昭和一桁生まれのひどい暴君で、専業主婦の母親はいつも泣かされお金で縛られた奴隷のようだったので、そういう女の人生は歩みたくないと、大学生になった頃には心に決めていた。誰に学んだわけではないが、「男性の承認欲求」というものは無縁で楽チンだった。この頃に上野先生の本と出会っていたら、実体験があるだけにバリバリのフェミニストになったかもしれなかったのに、惜しいことをした。
 バブル世代としては、「正社員も非正規層も追いつめられる時代〜はじまりは85年の男女雇用機会均等法」の章に書かれていることは、リアルに体験したことだ。86年に新卒で入社したその会社は、女性も全員総合職扱いだったが、翌年あたりから、人材派遣センターから女性スタッフが部署に配属され、バリバリと仕事をこなしていた。とても優秀なので彼女を正社員並みの待遇で契約し直そう、場合によっては正社員への登用もできないか人事部にかけ合おうか、という意見も課長あたりから出たのだが、この時大反対したのが、ベテランの女性社員たちだった。彼女たちの反対理由が、新人だった私にはよくわからなかったが、たぶん「嫉妬」だろう。彼女は結局居づらくなって、派遣もやめていった。そういう女が女の足を引っ張るという現場も実際にけっこうあった。
 本のあとがきに上野さんは長い文章を寄せている。「あの頃と比べれば少しはましになったではないか? しかし気がつけば政治ははるかに右傾化し、改憲勢力は国会の3分の2を占めるに至り、実際に手にいれたものを目にして唖然とするばかりだ。その変化を見過ごしてきた者たちにも責任の一端はある。抵抗してきたがあまりにも非力だった……としたら、非力だったことにも責任があるだろう」。
 ああ、あの時なぜ私は彼女の味方につけなかったのだろうか。そうすれば派遣の女子スタッフでも、正社員になれるという道が開けたかもしれなかった? それは無理でも派遣をやめることにまではならなかっただろうし…。私も加担してたんだ。
 私らバブル世代は、極めて非力でバカで無自覚だったことを振り返りつつ、団塊ジュニアより残りの人生が少ない我々に、何ができるかを考えるに最適な一冊だ。

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『助け合いたい〜老後破綻の親、過労死ラインの子〜』(さいきまこ著/秋田書店)
自分にもあり得るから「読んでいてつらい」
西村リユ

 「つらすぎて、なかなか読み通せない」
 そんな声を、いくつも聞いた。ここ数年、貧困や生活保護などをテーマにした作品をいくつも上梓している、漫画家・さいきまこさんの最新作である。

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 裕福とはいえないまでも特に不自由のない、平穏な生活を送っていた老夫婦。しかし、夫の病気をきっかけに、その穏やかな暮らしはあっという間に変貌していく。「介護のために」と同居を始めた長男もある「事情」を抱え、その弟や両親を支えようと駆け回る長女の家庭にも、徐々にひずみが生まれ始める。
 「読んでいてつらい」のは、一つひとつのエピソードがまったく荒唐無稽ではなく、「自分にもあり得るかも」と感じられるからなのだろう。自分や家族が身体も心も健康で、平穏な毎日。それが、いかに偶然の積み重ねでしかないことか、と痛感させられる。
 同時に、物語が進むにつれて明らかになるのは、妻が夫を、子が親を、「支えよう」「助けよう」とする思いが、徐々にきしみを生み、事態を行き詰まらせていくという構図だ。
 自民党が2012年に発表した(そしていまも党の公式サイトに掲載している)憲法改正草案の24条には、「家族は、互いに助け合わなくてはならない」との一文がある。もちろん、家族と「助け合いたい」という思いを持つ人は、きっと少なくないだろう。けれど、その思いを強制されたり、それ「だけ」に頼って生きざるを得なくなったりする社会は、決して生きやすいものではないはず。読み終えて、そう強く思った。

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『他人の始まり 因果の終わり』(ECD著/河出書房新社)
「家族」を冷徹に見つめ直す
仲松亨徳

 ラッパーのECDさんは、『失点イン・ザ・パーク』などの著書がある作家でもある。抑えた筆致で淡々と描かれる内容は、裏腹に衝撃的だ。割腹自殺した弟、入院する父、かつて精神に障害を来して家を出た母。そして自身がガンを発症する…。同時にECDさんは、写真家植本一子さんと夫婦であり、その間に子どももいる。自分の家族の凄絶な歴史と、現在の家族とを冷徹に見つめ直す。タイトルのように、家族は「他人の始まり」なのだろうか。そして、死によって「因果の終わり」を迎えられるのだろうか。


『ドナルド・トランプはなぜ大統領になれたのか? アメリカを蝕むリベラル・エリートの真実』(西森マリー著/星海社新書)
反対側の意見にも耳を貸すことの大切さ
寺川薫

 ここに書かれていることは本当なのか? 
 『ドナルド・トランプはなぜ大統領になれたのか? アメリカを蝕むリベラル・エリートの真実』を読みはじめて、そんな疑問が浮かんできた。私が知っている米国大統領選やトランプに関する情報と、ここで書かれていることのギャップがあまりにも大きかったからだ。しかし、この本を読み終えたとき、私は思った。今まで自分が得ていた米国に関する情報は、ごく一部のものにすぎなかったのだと。

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 簡単に言えば本書は「トランプ絶賛本」であり、トランプ不支持の「リベラルな人たち」に対する批判と攻撃で埋め尽くされている。こう書いただけで『マガジン9』読者からの批判の声が聞こえてきそうだが、少しだけ我慢してお付き合い願いたい。
 著者の西森マリー氏は現在米国テキサス州に暮らしているが、20年以上前は日本でキャスターやコラムニストとして活動していて、当時私は彼女の連載を担当する雑誌編集者だった。その時々公開される映画について西森氏が時事ネタを絡めて解説するコラムだったが、政治・経済・文化・宗教ほか様々な分野に関する西森氏の豊富な知識に驚かされた。そして西森氏の「立ち位置」は、「リベラル」だったように記憶している。そんな彼女がこのような本を書いたのだから、最初私は大いに戸惑ってしまった。
 大統領選でなぜトランプが米国民から支持されたのか?(なぜヒラリーが支持されなかったのか?) 本書によれば「議会を通さずに大統領令で権力を振りかざすオバマ大王と、地位を利用して私腹を肥やすヒラリー女王、政治家、金持ち、都会の中産階級、体制側に守られた人々──不法移民、難民、黒人、ヒスパニック、大学生、同性愛者──に対して、支配階級から忘れ去られた人々──田舎の人々、ブルーカラーの労働者、中道派の中産階級──が反乱を起こした」(前書きより)からであり、その結果がトランプ大統領の誕生なのだという。
 「リベラルな人たち」側に分類されるであろう私は、正直言うと途中で何度か読むのが辛くなることもあったが、本書で初めて知ることも実に多かった。国民皆保険を目指した「オバマケア」が市民を苦しめている、イラン核合意は世紀の大失敗だという声が米国では多い、銃規制を大多数の米国民は望んでいない等々。そして、私たちが得ている米国に関する情報の多くは、リベラル(反トランプ)系米国メディア発のものだということも。
 その指摘に対しての反論や批判は当然あるだろうが、日本に暮らし、普通にテレビを見て、普通に新聞を読み、普通にネットを見ているだけでは得られない情報がこの本に詰まっていることは確かだ。そして、人や物事に対して判断・評価を下すとき、自分とは反対側の意見にも耳を貸すことの大切さを改めて本書は気づかせてくれる。
 私は安倍政権に対して批判的な立場だが、「なんでもかんでも安倍が悪い」というような意見を目にするたびに辟易としていたこともあり、なおさらそう思ってしまった。
 2018年も、良くも悪くも間違いなく国際政治の主役の一人であろうトランプ大統領を理解するのに役立つ一冊だと思う。

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『日中戦争全史 上下』(笠原十九司著/高文研著)
こんな時代だから、多くの人たちに読んでほしい本
鈴木耕

 本書は資料としても一級品の大労作である。
 「序章 戦争には『前史』と『前夜』がある」から始まって、日中戦争の前史である対華二十一カ条要求(1915年)~南京占領(1937年)が上巻。日本がほとんど無理無体ともいえる要求を中国に突きつけてから火種がくすぶり始め、国際世論への挑戦ともいえる「満州国の独立」。結果、国際連盟からは脱退し、世界の孤児として、日独伊三国同盟へやみくもに傾斜していかざるを得なくなる姿は、日本国民のひとりとして読むほどに切なくなる。

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 亡くなったぼくの大好きだった作家に船戸与一さんがいる。かれの遺作となった大河小説『満州国演義』(全9巻、新潮社、のち新潮文庫)は、その荒れ狂う満州国に生きた敷島4兄弟の目を通してみた政治と戦争を描いて圧倒的だった。これも、絶対のお薦め本である。
 話がそれたが、本書『日中戦争全史』は、下巻では「日中戦争はどのような戦争だったか」についての詳細な解説があり、やがて日中戦争からアジア太平洋戦争へ至る経緯が描かれる。
 そして「終章 日中戦争に敗れた日本」は、日本の無条件降伏で幕を閉じる。地図や図録、当時の新聞記事も掲載されており、読み進めるのに苦労はない。むしろ、物語の世界のように、読者を導いてくれる。この戦争はどのような戦争だったか、なぜ日本は泥沼へ沈み込んでいったのか、われらはそこから何を学ぶべきか、この国はこれからどこへ行けばいいのか…。
 こんな時代だから、ぜひ多くの人たちに読んでほしい本だ。繰り返すが、記述はまことに明快簡潔で、とても読みやすい。

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『不安な個人、立ちすくむ国家』(経産省若手プロジェクト/文藝春秋)
モデル無き時代を生き抜く糸口を探して
芳地隆之

 時代の空気を掴んだタイトルだと思って手に取った。冒頭に掲載されているリポートでは、少子高齢化や格差の拡大、人生100年における暮らし方といった課題に、従来の国家の制度設計では対応しきれないことが、様々なデータによって示される。
 日本の未来に対する問題意識をもって若手官僚たちが臨む論客へのインタビューが面白い。

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 冒頭で登場する解剖学者の養老孟司氏は、エリートのもつ気負いを諫める。子育てするなら田舎に行け、道端にミミズの死骸があったり、モグラの掘った穴があったり、草がぼうぼう生えていたり、という意味のないものに囲まれた経験がないから、共同体は成り立たないのだ――養老氏はそれを「ノイズ」と名づけ、「ノイズ社会」の重要性を説く。効率性を優先して勉学に励み、ここまで来たであろうエリートにはなかった視点かもしれない。
 「国民全体が共感できるビジョンなんか現代社会にあるはずがない」との持論をもつ冨山和彦氏(経営共創基盤〔IGPI〕代表取締役)の「(中略)日本に住んでいる人々が幸せであれば、はっきり言って何でもいいのです。極端に言えば、国家だってどうでもいい。国家は、国民に奉仕するもの、道具にすぎないと思っているので」には、自分たちの存在意義を過小評価された気分になったのではないか。批評家・ゲンロン代表取締役社長の東浩紀氏に、エリート主導の時代は終わった、官僚は大衆に奉仕する存在でしかないと言い切られた際には、「東さんを含め、日本の有識者や知識人という方々は、日本の社会を本気で変えようと思っていらっしゃるものなのでしょうか」との苛立ちを込めた質問も投げかける。
 お上への忖度と自己保身から、木で鼻をくくったような国会答弁を繰り返すお偉い役人はともかく、心ある官僚は本書の副題「モデル無き時代をどう前向きに生き抜くか」の糸口を探している。自分たちが抱えている課題や悩みを、名前も現在の所属も公開しながら表明しているところが本書のよさだ。
 国が抱えている問題は共通していても、その解決方法は地域によってさまざまに違いない。それがいまの時代なのだと思う。

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『ぼくの村は壁で囲まれた パレスチナに生きる子どもたち』(高橋真樹著/現代書館)
パレスチナ問題が身近になる、読みやすい入門書
中村

 トランプ米大統領がエルサレムをイスラエルの首都として宣言し、国連総会が緊急特別会合で首都認定は無効だと採決するなど、世界中に波紋が広がっています。しかし、こうした政治の大きな動きや大規模空爆などが起きたときにしか報道がされない日本では、パレスチナ問題は「遠い出来事」にように思われがち。さらに、「民族や宗教の紛争」というイメージが、理解の妨げになっていると著者の高橋真樹さんは話します。

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 高橋さんは、1997年のガザ訪問以来、たびたびパレスチナを訪問。本書では、パレスチナで何が起きているのかを、そこに暮らす人々の目線からも描いています。学校に行くたびに銃で武装した兵士によってIDチェックを受ける子どもたち、どこへ行くにも検問所の渋滞があり救急車でさえ何時間も止められてしまうこと、そして、人々を囲いこむ入植地の問題から、なぜ米国はイスラエルを攻撃を支持するのかまで…。この一冊を通して〈パレスチナ問題は「世界の縮図」〉という意味がわかってきます。さまざまな国際法違反や人権侵害の例を知ったあとでも、私たちは「遠い出来事」だと言えるでしょうか。パレスチナ問題を知るきっかけを探している人に、おすすめの一冊です。

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『謀叛の児 宮崎滔天の「世界革命」』(加藤直樹著/河出書房新社)
掛け値なしに「面白かった!」といえる本
鈴木耕

 人物評伝は、執筆することが特に難しいジャンルだとぼくは思う。著者の思い入れが、現存する資料(史料)をともすれば逸脱し、想像と事実が混然することが多いからだ。多くの評伝が、まるで「見てきたような嘘を言う」講談師の語り口になってしまうのを、ぼくは見てきた。特に、新書というジャンルを長く担当してきたぼくにとって「事実か物語か」は、重要なファクターであったのだ。

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 著者の対象人物への思い入れが強ければ強いほど、この混同には注意が必要なのだ。
 それが本書では、見事なほど抑制された文章として貫かれている。しかも、資料を扱う手つきがまことに慎重。著者自身の解釈や分析と、資料から読み取れる事実が、きちんと腑分けされているのだ。しかも、面白い!
 宮崎滔天という人物は、もはや「忘れられた革命家」に区分けされるだろう。だが実は、そのアジアに与えた影響が、これほど色濃く残っているとは、不明にしてぼくは知らなかった。右翼浪人、ナショナリスト、大陸浪人、アジア主義者、夢想主義者、そして謀叛者…。どれも違う。
 明治3年(1870年)熊本に生まれた滔天は、中国革命に世界の変革を見て、最後まで「世界革命」を目指した革命家であった。妻子を捨て、孫文ら中国革命派と親交を結び、政治家とつき合って泥中を這いまわり、中国と日本を往来し、さまざまな文章を遺し、浪曲師にもなり、それでも「革命」の志を捨てなかった、そういう「謀叛の児」であると、著者はいうのだ。
 これほどスケールの大きな人物が、昭和の貌を見ることなく1922年(大正11年)に、53歳でこの世を去る。
 大きな人物を描き切った大きな本である。

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『黙殺 報じられない“無頼系独立候補”たちの戦い』(畠山理仁著/集英社)
それでも、彼ら彼女らはなぜ選挙に出るのか
寺川薫

 ためになる、泣ける、怒りを覚える等々、ノンフィクション作品を形容する言葉は多々あるが、『黙殺 報じられない“無頼系独立候補”たちの戦い』(集英社)に最も適しているのは「面白い」だと思う。もちろん、テーマや文章が読む者を惹きつけるという意味での「面白い」ではあるが、私は本書を電車の中で読んでいて何度か吹き出しそうになった。そういう意味からの「面白いノンフィクション」でもある。

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 選挙におけるいわゆる「泡沫候補」を著者は「無頼系独立候補」と言い、20年以上にわたって彼ら彼女らを取材してきた。出馬にあたっては家族から反対され、街頭演説のときには通りすがりの人から嘲笑され、選挙が終われば何百万円もの供託金を没収される。それでも、彼ら彼女らはなぜ選挙に出るのか──その答えがこの本に書かれている。
 本書には、20年以上も選挙の取材を続けてきた者でなければ書けないことが満載だが、私はさりげなく書かれていたこんなエピソードが強く印象に残った。「ベテランのウグイス嬢はとても目がいい」と著者は言う。選挙カーから「白衣のお父さん、お店の中からありがとうございます!」「2階の窓からご夫婦揃って手を振っていただきありがとうございます!」「畑でお仕事中のお父さーん!」などとウグイス嬢は次々と声をかけていく。最初は適当に言っているのかと著者は思ったが、目を凝らして見ると、白衣のお父さんも、2階の夫婦も、畑のお父さんも本当にいた。200メートル以上先の人影も見逃さず、ウグイス嬢は次々と声をかけていったという。選挙取材を長年続けてきた著者だからこそ、気付けた光景ではないだろうか。
 そうした内容もさることながら、私は著者の姿勢に感心(「感動」と言ってもいい)した。著者のようなフリーランスライターにとって大事なことの一つに「効率」があげられる。目の前の仕事を短時間で次々と仕上げていけば、安定した収入につながる。あるベテランジャーナリストが「ベストセラーを年間2冊書いても、会社員時代の年収には及ばない」と言っていたが、効率よく仕事をすることは、どの業界のフリーランスにとっても大事なことだろう。しかし、この著者は「効率」を度外視したかのように、目先の利益につながりにくい無頼系独立候補たちへの取材を20年以上も続けてきた。開高健ノンフィクション賞を受賞し、このような立派な一冊の本に収まった今だからこそ、その行動を評価する声は多いが、そんな「結果」を予測できないなかでの20年はあまりにも長い。時にはライター稼業の断念を考えざるをえない状況に陥ったことも何度かあったことが本書には書かれている。それでも「なぜ取材を続けたのか」、その答えについてもぜひ本書を読んでほしい。
 この本を読んだからといって、次の選挙で無頼系独立候補に投票してみようと私は思わない。ただ、次の選挙では、「主要候補」ではない人たちの演説を聞いてみよう、チラシを受け取ってみよう、ホームページを覗いてみよう、そんなことを思っている。きっとこの本を読んだ人たちの多くもそんな思いを抱くことだろう。

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『焼け跡のハイヒール』(盛田隆二著/祥伝社)
ほんとうの息子の愛情をもって描いた家族小説
鈴木耕

 誰にとっても自分の父母の生い立ちというのは、なんだか触れるのが怖いような、しかしすべてを知りたいような、そんな微妙な感覚にとらわれるものだろう。それを物語で描こうとするのは「小説家の業」というべきものかもしれない。
 著者は、その「業」を見事に文学に昇華してみせた。

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 この小説の前史ともいえそうな著者の本に『父よ、ロング・グッドバイ 男の介護日誌』(双葉社)がある。母亡きあと急速に認知症を悪化させていく父と心を病む妹との狭間で、悶え苦しみながら、壮絶ともいえる介護を記録したノンフィクションの傑作であった。
 しかし、この小説にはそんな著者の実体験が反映されているわけではない。著者自身が本書の冒頭で語っているように、父母に関する資料はほとんどなかったのである。そこから著者の模索が始まる。そして、作家としての想像力が若き日の父母の姿を、薄明の中から甦らせる。
 少ない資料や関係者の話から紡ぎ出された物語は、読者を戦争と戦後の混乱期を生き抜いた若いふたりの暮らしや思いへいざなう。看護師としての生涯を、訪問看護ステーションの創設という大仕事までやり遂げて、その生を終えた母と、中央気象台の職員として奉職、母にすべての生活を委ねていた父。そのふたりの最期までを、著者は描き切った。
 誰にでも父と母はいる。本書が、愛おしくも時には面倒で迷惑でもある親という存在を、ほんとうの息子の愛情をもって描いた家族小説として、今年の収穫であることは間違いない。

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『ルポ 国家の暴力―現場記者が見た「高江165日」の真実』(阿部岳著/朝日新聞出版)
まさに「ジャーナリスト魂」の真の発露
鈴木耕

 本年のルポルタージュの中では、迫力と怒りに満ちた筆致が本書に勝るものはない。実際に「沖縄県東村高江地区」という米軍ヘリパッド反対運動の最前線の現場に長期間にわたり張りついて、その眼前で起こった出来事を、最初は淡々と、だが次第に熱気を帯びて記述するさまは、まさに「ジャーナリスト魂」の真の発露だ。
 ただし本書については、ぼくはコラム「言葉の海へ」第2回で触れているので、ここでは詳しくは語らない。

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 だが、つけ加えてかなければならないことがある。あの暴言作家の百田尚樹氏が沖縄へ乗り込んで講演し、取材に訪れた阿部記者に面と向かって「悪魔に魂を売った記者」と罵倒した上で「あなたの娘さんは中国人の慰み者になる」などと発言したという事実だ。
 「辺野古は怖いから行きたくない」とのたまい、現場へ行きもせず取材もなしで「辺野古反対派は中国の工作員」「反対派には日当」などと喚き散らす極右作家の罵詈雑言に、阿部記者は何を感じただろうか。
 それを思うと、本土の人間のひとりとして、ぼくはいたたまれない気持になる。むろん、そんなことで筆致の鈍る阿部記者ではないことは承知している。エールを送り、日々の取材と新たなルポルタージュに期待しよう。

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『ルポ 思想としての朝鮮籍』(中村一成著/岩波書店)
在日として戦前から生きた6人へのロングインタビュー
仲松亨徳

 朝鮮籍とは「北朝鮮国籍」ではない。朝鮮の植民地化によって日本国民にされたその地の人は、日本敗戦によって切り捨てられた。1947年の外国人登録令などによってすべての朝鮮半島出身者は国籍等の欄に「朝鮮」と表記されたのである。韓国が建国され、さらに日韓条約締結後は韓国籍に変更する人もいたが、朝鮮籍を維持する人もいた。その中には、北朝鮮支持者もいれば統一朝鮮を願って変更を拒否する者も。そうした思いが「朝鮮籍」に詰まっている。在日として戦前から生きた6人へのロングインタビューは重厚で、その史実に圧倒される。


映画『人生フルーツ』(2016年日本/伏原健之監督)
老夫婦の里山的暮らしに見るヒント
芳地隆之

 自宅の庭を雑木林にし、70種の野菜と50種の果物を育てながら自給自足的な生活を送る老夫婦と聞いて、都会の喧騒から離れた自然のなかで里山暮らしをする2人をイメージしていた。
 90才になる夫の津端修一さんは建築家。日本住宅公団に勤め、数々のプロジェクトに携わってきた。そのなかのひとつが愛知県春日井市の高蔵寺ニュータウンである。

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 1960年代、まだまだ住宅不足が深刻な時代だったとはいえ、大きな山野をブルドーザーで平地にし、巨大な団地群をつくっていくことに疑問を感じた。
 ここまでであれば、他の建築家とさほど変らないだろう。修一さんが凡百の同業者と違うとのは、自ら設計したことへの落とし前として、土地を一区画購入してそこに住み、開発地で植林運動を始めたことだ。そして自分の住処も自然との共生の場に。つまり自宅を里山にしてしまったのである。
 妻の英子さんは、自宅で採れた梅を干し、桃をジャムにする。彼女の手にかかると野菜や果物が魔法のようによりすてきな姿に身を変える。小さな身体をこまめに動かす彼女のリズムがこちらにも伝わってきて、日々の暮らしとは小さなしごとの積み重ねであることを実感させてくれる。
 2人の表情が実にいい。亡くなった修一さんの姿を私たちが穏やかな気持ちで迎えられるのは、終始スクリーンに漂う心地のよい時間の流れゆえではないか。
 高度成長期に建てられた多くの団地では世代交代がうまくできず高齢化が進み、櫛の歯が欠けていくように空き家が増えている。全国で空き家が820万戸以上といわれている現在、東京のウォーターフロントに高層マンションが林立していく光景はクレージーに見えないだろうか。
 ハードからソフトへ。新しい箱物をつくるのではなく、いまある資源をいかに活用するか。
 それを考える前に、まずは老夫婦に寄り添うような映像、淡々としたピアノの奏でる音、そして樹木希林さんの訥々としたナレーションに身をゆだねてみよう。かつてのニュータウンで実践する津端さん夫婦の里山的暮らしに、そのためのヒントが少なからずあるはずだ。

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展覧会『「1968年」―無数の問いの噴出の時代―』(国立歴史民俗博物館/2017年10月11日~12月10日)
なぜ、若者の叛乱は起きたのか。過去が現在に訴えてくるもの
鈴木耕

 1960年代末から70年代初頭にかけて、日本は未曾有の激動期を迎えていた。大学で、高校で、予備校で、職場で、組織で、街頭で、あらゆる場所で「これでいいのか」という根源的な問いが、いわゆるエスタブリッシュメントに対して突きつけられていたのである。

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 きっかけは米国によるベトナム戦争への「反戦闘争」であったことは間違いないが、それが「大学改革」へ場を移し、やがて青年労働者や街頭での市民をも巻き込んだ大闘争に発展していった。戦後経済成長の中で隠されていた矛盾が、一気に露呈した瞬間だった。成長神話の陰の公害という闇が表に引きずり出されたのもこの時期だった。
 連日のように数万人規模の群衆が都心を埋め尽くすという異常事態も起き、ついに東京大学は69年の入学試験を中止せざるを得ないところまで追い込まれたのだった。また各大学には学生に理解を示し、学生とともに闘う「造反教官」という人たちも姿を現した。
 若者の叛乱は、日本だけではなく、戦争の本家アメリカやヨーロッパ各国、とくにフランスやドイツでは大きな盛り上がりを見せた。
 この展覧会は、その「問いかけ」を克明に拾い上げた珍しい催しであった。なぜ、叛乱は起きたのか。何を訴え、何を求め、どう行動したのか。
 その内容は以下の通りである。

第1部 「平和と民主主義」・経済成長への問い
1.平和運動の展開 ベトナム反戦とベ平連運動
2.地方都市から戦後社会を問う:神戸の街から
3.戦後民主主義と戦後農政への問い:三里塚闘争
4.経済成長と豊かさへの問い:熊本水俣病闘争

第2部 大学という「場」からの問い―全共闘運動の展開
1.1960年代の大学
2.全共闘運動の形成と展開
3.大学闘争の全国展開
4.闘争の鎮静化と遺産

 ぼくもあの時代の空気を吸っている。
 展示室には、当時のアジビラ、タテカン文字、掲げた旗、運動メモ、各組織の色分けされたヘルメット、多くの写真や記録文集、そして当時の映像が据え付けられたテレビで流されていた。
 あの時代とこの時代…。いったい何が違うのだろう。
 過去が現在に訴えてくるもの。
 ぼくは久しぶりに息づまり、言葉を失って見入っていた。

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