医師が手術直後の女性患者への準強制わいせつの罪で逮捕・起訴され、2019年2月に無罪判決が言い渡された「乳腺外科医事件」(控訴中)。裁判の過程では、科学的証拠の信用性が一つの大きな争点となりました。そもそも裁判における「科学性」とはどのようなものなのでしょうか。また、人の人生を左右する刑事事件において、真実追求の鍵である「証拠の信用性」はいかにして担保されるのでしょうか。今回の講演では、乳腺外科医事件に弁護人の一人として携わった水沼直樹弁護士に、科学鑑定や科学的証拠の問題点や弁護活動の面白さなどについてお話しして頂きました。[2019年6月15日(土)@渋谷本校]
科学の本質は「再現性」があること
科学において最も重要なことは、再現性があることだと言われています。再現性とは、一定のルールに則って行えば誰がやっても同じ結果が期待できることです。裁判との関係では、鑑定書等の結果が客観的資料により裏付けられ、第三者が確認できる資料が存在することが、科学的証拠の信用性を担保します。
今日は、この再現性が日本の科学捜査にあるのかについて、乳腺外科医事件を例に話をしたいと思います。
この事件は都内の医療機関で起きました。右胸の良性腫瘍の摘出手術を受けた女性患者が、手術を終えて病室へ戻ってきた後のことです。午後2時48分ころ、女性は4人部屋の出入り口に最も近いベッドへと搬送され、看護師から体温や血圧測定等の様々な検査を受けていました。手術を執刀したドクターは、術後の経過を見るために術後30分以内に2回女性のもとを訪れました。
女性によれば、午後3時12分までの間に、「手術後、手術をしていない左胸をドクターになめられた」「ドクターが私の胸を見ながらわいせつな行為をしていた」というのです。午後3時12分ころ女性からわいせつ行為を受けた旨の報告をLINEで受けた上司が警察に連絡したため、直ちに警察が病院へやってきました。女性がなめられたという左胸の乳輪辺りを警察官がガーゼで微物採取したところ、医師と同じ型のDNAとアミラーゼが検出されました。なお、医療安全上の理由から、ドクターは手術前に女性の左右の胸を素手で触診して切除部位を確認し、手術前後の比較のために両胸の写真を複数枚撮っていました。
さて、この事件の争点は大きく二つあります。一つは、手術の際に使った麻酔薬により女性が「せん妄」を発症し、幻覚を見てしまったのではないかという点。もう一つは、科学捜査研究所が実施したDNA型鑑定の検査方法やアミラーゼ鑑定の結果に、極めて重大な問題があるのではないかという点です。
検察側の主張・弁護側の主張
検察側がドクターは有罪だと主張した理由は主に5つです。①左胸からアミラーゼと同じ型のDNAとアミラーゼが検出された。②実際になめているところを見たという女性の証言がある。③術後に2回も女性のもとへ訪れるのは不自然である。④15枚も女性の写真を撮るのは異常であり性的な目的があったのではないか。⑤押収されたデジタルカメラから女性の写真が削除されており、犯行を隠すために削除した。
これに対して弁護側の主張はこうです。①上記の各鑑定結果が信用できない。検出されたDNA及びアミラーゼはドクターが素手で触診をした際、もしくは喋っている際に付着したのであり、犯行によるものではない。②女性の被害証言は麻酔薬によるせん妄の一内容として起きうる幻覚作用である。③術後に2回見に行ったのは外科医として当然である。④15枚写真を撮るのも乳腺外科の世界では適切である。むしろ、手術前後の比較のために様々な角度からたくさん撮ることを推奨されている。⑤カメラはドクターの所有物ではなく看護師が管理する病院の共有物であり、消したのは本人ではない。
これらのことを立証するため、検察側・弁護側ともに、①DNAについては法医学の教授、②せん妄に関しては麻酔学の教授とせん妄の専門科(精神科)、③〜⑤については乳腺外科の教授(弁護側のみ)に、それぞれ証人として出廷してもらいました。
捜査における問題点
今回の事件では、科学捜査における問題点と、鑑定そのものの問題点の2点が大きく浮かび上がってきました。
科学捜査における問題点については、まず証拠物を採取・保管し、科学捜査研究所等へ運び、検査し、結果が出るまでの過程において、証拠物が適性に保管されていたのかが問題(保管の連鎖)となりました。具体的には、微物採取をする際には、採取した場所を明らかにするために写真を残す必要がありますが、実際の捜査実務では必ずしも写真は撮られておらず、尋問で担当者に聞くしか方法がありません。
次に、コントロールを採取しなかったという問題点があります。コントロールには、ポジティブコントロール(予め陽性の結果が出ることが分かっていて検査すること)と、ネガティブコントロール(陰性となることが分かっていて検査すること)がありますが、このポジティブとネガティブの両方を検査して期待通りの結果が得られることではじめて鑑定結果の信頼性を担保することができます。
特にネガティブコントロールは、鑑定対象となる資料が汚染されていないことを証明する意義もあります。乳頭以外の部分に医師のDNAがあるのかないのかは重要な意味を持ちます。というのは今回、医師は胸部を触診していたというのですから、乳頭部以外の部分からDNAが出てくれば医師の主張が正しい可能性が高まり、逆に乳頭部だけからしかDNAが出ないのであれば女性の主張が正しい可能性が高まります。そのため警察官は、本来であれば女性がなめられたという乳頭部分のみならず、その他の場所からも微物採取して検査しておく必要がありました。しかし、警察官は乳頭部分しか検査していませんでした。
裁判では、採取した警察官がポジティブコントロールとネガティブコントロールの意味を知らず、習った記憶もないということが判明しました。すなわち、科学の基礎知識を知らない者が科学捜査にあたっていたのです。
さらに鑑定については、検査の手法が不適切ではないかという問題がありました。その1つにアミラーゼの鑑定では、アミラーゼが陽性になったことを示す写真が全くなく、担当者がワークシートに「+」と記したメモしか残っていませんでした。しかも、アミラーゼを検出したゲル板は処分したと報告されています。したがって、客観的にどの程度陽性反応を示していたかを明らかにする証拠は一切存在していません。
またもう1つ、DNA型鑑定についても、DNAの定量検査に問題がありました。DNA量を測定するリアルタイムPCR法は、濃度が判明している標準試料と未知の鑑定試料とを「比較して計測」する必要がありますが、測定ごとに比較するべき資料である標準試料の検査を怠っていました。しかも、標準試料の増幅曲線や検量線図が存在しないことも明らかになりました。増幅曲線や検量線図が存在しなければその結果が正しいかどうか分かりません。また、DNAを抽出した抽出溶液の残量(50μL中の約48μL)が廃棄されていました。
さらに、DNAとアミラーゼ鑑定の際に作成したワークシート(鑑定経緯を記したメモ)は全て鉛筆書きされており、そのうち消しゴムで消した跡が9カ所、書き換えられた跡が7カ所ありました。
以上のように有罪無罪を決める極めて重要な証拠であるにもかかわらず、検査結果を担保するような客観的な資料がまったくないというのがわが国の科学捜査の問題点です。
専門家への証人尋問のポイント
主尋問は予め準備をすることができますので、努力次第で良い結果が導けるでしょう。しかし反対尋問は相手と打ち合せができないため、事前に入念な調査をしなければうまくいきません。まして相手が専門家であればちょっとやそっとでは太刀打ち出来ないので、よりしっかり準備や勉強をしなければいけません。
専門家は一定の原理原則を今回の事案に当てはめたらどうなるかということを証言します。専門家に対し専門的な評価を争っても勝てるわけがないので、反対尋問では専門家が述べている原理原則に学術的な裏付けがあるのか(いわば通説的見解なのか)、前提としている事実関係が必要十分か(すなわち、考慮漏れや他事考慮がないか)、証言に自己矛盾がないかなどをチェックしていきます。
ところで、科学捜査とは離れますが、せん妄は意識障害等の総称で、医学的にはDSMやICD等の診断基準を用いて判断します。なかには、簡易ツールとしてCAMというものもあります。本件で弁護側が依頼した専門家への主尋問では、このDSMやCAMに当てはめながら、女性がせん妄であった可能性について立証していきました。
他方、検察側の証人として出廷した証人の中には、女性がせん妄かどうかの判断について、「大量のDNAとアミラーゼが出ているのだから、せん妄かどうかを判断する必要もなく女性の言うような事実関係があったと認めざるを得ないのではないか」と証言した精神科医がいました。しかし、この人の経歴を見ていくと、元科学捜査研究所の職員であり、せん妄に関する論文が一つも見当たりませんでした。せん妄かどうかを判断するDSMやCAMの方法を尋ねても「ちょっと思い出せません」とすぐに答えられませんでした。すなわち、証人が述べる原理原則に学術的裏付けがあるかどうかで弾劾に成功しました。
また、検察側証人の麻酔科医師は、学術的に裏付けのある見解を示していたものの、そもそも尋問での主張と過去にその人が書いた論文での主張が矛盾していることが発覚しました。当然、反対尋問で弾劾していきました。
科学捜査、法医学の場面でも、本件ではいろいろと指摘したいことがありました。しかし、内容が極めて高度になりますので今回は省略いたします(詳細を知りたい人は、医事法令社の『医療判例解説』Vol.79に掲載されている「担当医から性的被害を受けたとする患者の被害申告が、麻酔薬等により発症した術後せん妄に基づく性的幻覚である可能性があると判断された事例について」を御覧ください)。
事件からの教訓と日本の科学捜査の展望
科学鑑定に関して、弁護側証人は主尋問で次のように述べています。誰がやっても一定の結論になることが再現性であり、これこそが科学の本質。刑事裁判は、死刑を含むような人生を大きく左右するものだから、通常の科学以上にしっかり再現性をみなければいけないことは明らかです、と。また専門家証人である法医学の教授は、これまで警察の人と一緒に仕事をしてきて、警察に対しては信用をもっていましたが、今回の事件での鑑定においてなされたことについては、少し背筋が凍るような気持ちになりました、と証言しました。
これらを受けて主任弁護人は最終弁論の中で次のような話をしました。
2014年1月、世界的な科学雑誌にこんな論文が掲載されました。生後一週間の赤ちゃんマウスを弱酸性溶液に浸して生き残った細胞を培養すると、細胞が初期化され万能細胞に生まれ変わることがわかった、という内容です。遺伝子操作を行わずに簡単に万能細胞(STAP細胞)になるという。これはノーベル賞級の世紀の大発見と称されました。しかし、1ヵ月もたたないうちに暗雲が立ち込めます。世界中の研究者が検証しても、STAP細胞は作製できませんでした。
この、いわゆる「STAP細胞事件」の教訓は何でしょうか。それは、科学の世界の作法が捏造を見破ったということです。科学者のルーティン、検証というルーティンが不正を排除し、科学的な正当性、信頼性を護りました。科学的知見を示すこと、根拠となる客観的なデータを明らかにすること、実験プロトコルや実験の経過や結果を示すデータを残すこと。そして、別の科学者が同様の手法で実験すれば同じ結果が得られることが示されなければなりません。これを「再現性」とか「信頼性」と呼びます。
もし科学者にこのような作法がなかったらどうでしょうか。もしこの発表が、科学研究ではなく科捜研の鑑定だったらどうか。刑事裁判だったらどうか。本件で問われていることはそういうことです、と主任弁護人は総論を締めくくりました。
今回のアミラーゼ鑑定とDNA鑑定は、わが国の刑事司法への信頼を揺るがすような重大な事件だったといえます。
一審の判決では、女性の被害申告はそれなりの一貫性があり信用できるが、その当時せん妄状態にあった可能性が十分にあり、これによる幻覚を体験した可能性が相応にあると判断されました。また、今回の諸々の科学捜査については、「担当者としての誠実さに欠ける」と極めて厳しい判断が下され、結果、無罪判決が言い渡されました。
まとめますが、科学とは再現性です。刑事弁護では、鑑定証拠がある場合に、その鑑定に再現性があるか、試料の連鎖があるか、鑑定結果を裏付ける証拠や資料があるか等を追及していくことが重要です。また、専門家証人に対しては必要充分な考察をしているか、前提としている原理原則は正しいのかをチェックし追及していくことが必要です。
水沼直樹氏(弁護士、文京あさなぎ法律事務所)
東北大学法学部・日本大学大学院法務研究科を卒業。2011年弁護士登録。2013年1月から2018年1月末まで亀田総合病院の内部弁護士などを務め、 現職に至る。日本法医学会、日本DNA多型学会、日本医事法学会、日本賠償科学会、日本子ども虐待医学会、日本睡眠歯科学会(兼倫理委員)、日本がん・生殖医療学会(兼理事)、オートプシー・イメージング学会(兼アドバイザー)の各会員。