第2回: 福島原発事故は「エンターテインメント」になるのか?『Fukushima 50』(ウネリ・牧内昇平)

東日本大震災からまもなく10年が経とうとしています。原発事故が起きた福島県には、いまだに人の住めない場所もたくさんあり、さまざまな形で被害は続いています。しかし、時間が経つ中で記憶が薄れてきた人、もともとよく知らないという人もいるのではないでしょうか。震災や原発事故について学びたいけれど、ぶ厚い本を読む気にはなれない……そんな人におすすめなのが「映画」です。
福島県福島市の映画館「フォーラム福島」で支配人を務める阿部泰宏さんは、3・11後、原発や震災をテーマにした上映企画を粘り強く続けています。阿部さんを案内人として「いま観るべき映画」を毎回ピックアップしてもらい、そのポイントを語ってもらう連載です。

『Fukushima 50』

オールスターキャストの「超大作」

ウネリ 今回は、福島原発事故を描いたエンターテインメント作品について、阿部さんに語ってもらいます。今年3月に公開されました、『Fukushima 50』(フクシマフィフティ)です。

【作品紹介】(公式サイト上の「STORY」から引用)
 
『Fukushima 50』
(2020年/日本/若松節朗監督/配給:松竹・KADOKAWA)

マグニチュード9.0、最大震度7という巨大地震が起こした想定外の大津波が、福島第一原子力発電所(イチエフ)を襲う。浸水により全電源を喪失したイチエフは、原子炉を冷やせない状況に陥った。このままではメルトダウンにより想像を絶する被害をもたらす。1・2号機当直長の伊崎ら現場作業員は、原発内に残り原子炉の制御に奔走する。全体指揮を執る吉田所長は部下たちを鼓舞しながらも、状況を把握しきれていない本店や官邸からの指示に怒りをあらわにする。しかし、現場の奮闘もむなしく事態は悪化の一途をたどり、近隣の人々は避難を余儀なくされてしまう。官邸は、最悪の場合、被害範囲は東京を含む半径250㎞、その対象人口は約5,000万人にのぼると試算。それは東日本の壊滅を意味していた。残された方法は“ベント”。いまだ世界で実施されたことのないこの手段は、作業員たちが体一つで原子炉内に突入し行う手作業。外部と遮断され何の情報もない中、ついに作戦は始まった。皆、避難所に残した家族を心配しながらーー。

ウネリ ということで、原子炉の暴走を食い止めようと奔走する東電の人々を中心に描いた映画です。当時の第一原発の吉田昌郎所長を渡辺謙、1・2号機の伊崎利夫(仮名)当直長を佐藤浩市が演じています。そのほか、首相役に佐野史郎、伊崎の娘役に吉岡里帆など、人気俳優を取りそろえたオールスターキャスト、ということになると思います。
 ちなみに映画の冒頭で「事実にもとづく物語」という字幕が出ますが、実際には「東京電力」は「東都電力」になっていて、登場人物の設定なども変更されています。事故原因や事故に至った背景への考察もありません。観る側は、この映画で描かれていることを「事実」と思いこまず、あくまで「原発事故を題材としたエンターテインメント」として受け取っておく必要があると考えています。
 そのうえで聞きますが、福島での動員状況はいかがでしたか?

阿部 3・11から来年で10年になろうとする節目、五輪イヤーでもある今春に、もう一度あの原発事故を日本人に問う。製作委員会はそういう意図だったと思いますが、不運に見舞われましたよね。まずはコロナショック。オリンピックも延期になった。フォーラム福島では3月6日から4月17日まで上映し、コロナの影響で臨時休業後、7月3日から再上映しました。福島県はやはり「当事者」なので、他県に比べれば動員は強かったです。被災地からの距離が遠ざかるほど関心が薄くなるのは、事前のマーケティングでも分かっていたことのようです。

ウネリ 観客の反応は?

阿部 客層は中高年の男性が中心です。市民運動に関わってきた人や、独立系映画も観る「シネフィル(映画通)」と呼ばれる人たちが、「批判するために観る」という感じでした。一方、ふだんロードショーの映画しか観ない人にはおおむね好評でした。「いい映画だった」「感動した」「泣けた」とか。映画を突っ込んで観る人と、娯楽の一つと位置づける人とで、明らかに反応が分かれた気がします。

ウネリ 阿部さん自身はどんな感想でしたか?

阿部 僕はやはり、観ている最中から苛立たせられることしきりでした。いわゆる「ウェルメイドな超A級大作」なんですね。

ウネリ いきなりズバッと来ましたね。

問題の核心部分に迫らない「ほどよい作り」

阿部 東電と直接利害関係のない大多数の人にとっては、これでいいのだと思います。でも我々福島県民、東電に物申したいと思っている者からすれば、東電関係者を無条件にヒロイックに描いたり、吉田所長をあそこまで理想化したり美化したりっていうのは、ちょっと受け入れられない。吉田所長の人物描写はデフォルメされていると思いました。

【シーン解説①】
 

福島原発と東電本店(東京)をつなぐテレビ会議。安定ヨウ素剤(※)を作業員たちに飲ませるかどうか。方針が定まらない本店側に、吉田所長がイライラをつのらせる。
吉田「線量はどんどん上がってんだよ! これ以上線量が上がったら、建屋に近づけなくなる。現場の人間は体張ってんだよ。はっきりしてくれよ!」
本店「吉田所長、少し時間をください。安全委員会に問い合わせてみます」
吉田「そんなことも決められねえのか、本店は!(机をたたく)」 

※安定ヨウ素剤:事前に飲めば被ばくによる甲状腺がんのリスクを低減させる効果がある薬

阿部 僕は『東電テレビ会議 49時間の記録』(※)という映像を何回も観ていますが、少なくとも吉田所長は東電本店に対してあそこまで怒鳴り散らしたり、上司に逆らうような言い方はできていなかったと思います。

※『東電テレビ会議 49時間の記録』:原発事故当時、東電は本店と福島第一原発、柏崎刈羽原発(新潟)などをつないだテレビ会議を行っていた。そのテレビ会議の様子を録画した映像記録のこと

ウネリ 「ウェルメイドな超A級大作」という表現をされていましたが、どのあたりが「ウェルメイド(※)」なんですか。

※ウェルメイド(well-made): かっこうのいい、つりあいのとれた、巧妙に作られた、の意。『ジーニアス英和辞典』より

阿部 要するに、原発事故が突きつけた問題の核心部分にそれほど深く突っ込んでいかない、「安全で、ほどよい」作りになっているということです。たとえば一番最後、富岡の桜が出てきますよね。

ウネリ 原発近くの観光名所、富岡町の「夜の森さくら」ですね。

【シーン解説②】
 

事故から3年後の春、1・2号機の当直長だった伊崎が帰還困難区域に指定された地域を訪れる。満開の桜の下にたたずんだ伊崎が、当時のことや、事故後に急逝した吉田所長のことを回想する。そして、こうつぶやく。
伊崎「吉やん、今年も桜が咲いたよ」

ウネリ 佐藤浩市(伊崎役)の泣かせるセリフのあと、カメラは空撮でまっすぐのびる桜並木をとらえていきます。ふわーっと綺麗な映像で終わったような感じがしました。そして、なにやら不思議な字幕が出た。

 「2020年7月より開催される東京オリンピック・パラリンピックは復興五輪と位置づけられ 聖火は福島からスタートする」

 復興五輪……。

阿部 大半の人には受け入れやすいメッセージかもしれません。でも、福島県民の中にはそう言い切られることに抵抗を覚える人もたくさんいます。原発の汚染水も、最終処分場の問題も、甲状腺がんなど健康被害のリスク評価の問題も、廃炉事業の展望も、すべて「現在進行形」の問題です。それなのに、これらはもうすべて道筋が見えており、ともすれば解決したかのような印象を与えてしまう。
 この少し前には、こんなシーンもあります。

【シーン解説③】
 

吉田所長の告別式で、伊崎当直長が遺影に話しかける。
「あんなことは、二度と起こしてはならない。約束するよ、吉やん。あのときイチエフで起きたことは、必ず後世に語り継いでいく。それが、あの現場にいた俺たちの使命だ」

阿部 これは、県内のアーカイブ施設や東電がホームページで掲げている「反省」と全く同じ趣旨だと感じます。映画が東電の公式コメントを補完してしまっているわけで、そこに地域住民や福島県民の気持ちは描かれません。一方通行だと思いました。

ウネリ 伊崎当直長が、亡くなった吉田所長からもらった手紙を読むシーンがあります。その手紙にはこうありました。

「俺たちは自然の力を舐めていたんだ」

 本当にそういう反省でいいのか。舐めずにがんばれば、つぎの事故は防げるのか。

阿部 そこが「ウェルメイド」なんです。「福島にはまだ問題が山積しているのに、それを解決せずしてオリンピックだとか、復興は新しい段階に差し掛かっただとか、ましてや原発再稼働だとか、言っていいのか」というアンチテーゼのようなメッセージを出していない。それを出せないところにメジャー映画の限界を感じます。

福島県内には今も放射線量が高くて住民が帰還できない地域がたくさんある(撮影:ウネリウネラ)

原発事故直後だったら作れなかった映画

ウネリ 制作者の意図は分かりませんが、この映画は原発事故を過去のものにしたいのだろうという印象を受けました。それは安倍氏から菅氏へと続く現政権の方向性と同じです。だからこの映画はどこか政府のプロパガンダのように感じてしまいます。

阿部 僕は、制作者はプロパガンダ映画を作ろうとは毛頭考えてないと思うんです。若松節朗監督は『沈まぬ太陽』(2009年)(※)という優れた映画を手がけてますし、「総論」としては従うけれど、「各論」で巧妙に作家的な主張を盛り込む術を心得た映画作家だと思います。
 印象に残ったのは、やはり吉田所長の告別式の場面です。伊崎当直長は先ほど紹介した「二度と起こしてはならない」というセリフの直前に、実はこんなことも言っているんです。

 「なあ、なぜあのとき格納容器が爆発しなかったのか、いまだにわかってないんだ」

 あれは危険な一言ですよ。“結局、彼ら自身は何もできなかった”ということを証明しているわけですから。一時は格納容器そのものが吹っ飛ぶようなことを覚悟した。でも天の配剤によって運よく、原子炉内の圧力が低くなった。彼らがそうしたわけではなく、たまたまそうなった。

※『沈まぬ太陽』:ジャンボ機墜落事故など数奇な運命に翻弄される航空会社社員の生きざまを描いた社会派ドラマ。原作は山崎豊子のベストセラー小説

ウネリ 東電社員たちの活躍ぶりを強調したいなら、このセリフをあえてこの場面に入れる必要はなかったかもしれませんね。このセリフはないほうが、なんとなく伊崎当直長たちが活躍した印象を与えることはできたかも。

阿部 だから、あのシーンを僕は評価します。あそこが監督の「各論反対」だと思うんです。全体の流れの中で、少なくともあそこは引っかかるんですよ。

ウネリ 3・11から9年が経過しましたが、この映画は震災直後だったら成立したでしょうか?

阿部 作れなかったでしょうね。もうすぐ10年という時間がある意味「免罪符」になるというか、冷静に振り返る節目として受け止められるだろう、と考えたのではないでしょうか。

ウネリ 東電と原発事故への怒りがもっと高い状態だったら、「こんな映画やるな!」という反対運動が福島で起こった可能性もあると?

阿部 起きたでしょうね。さすがに東電の人間をヒロイックに描くような企画は、発災から4、5年程度では出せなかったでしょう。

イライラ……でも、やっぱり必要な映画

ウネリ 『Fukushima 50』はエンターテインメントとして興行収入が見込めるから制作されたのでしょう。それだけ、大多数の人たちにとっては原発事故が他人事になっているということでもあると思います。怖い感じがしますね。

阿部 僕はやっぱり『Fukushima 50』は必要な映画だとも思います。個人的にはフラストレーションがたまりましたが……。でも、こういう映画がないと無関心だった人が考えるきっかけを作れませんよね。
 この映画を観て純粋に「いい映画だった」、「東電の人は本当にがんばった」と思っている時に、脇からふいっと異論が差し挟まれるとギクリとするはずです。最初は『Fukushima 50』のようなエンターテイメントから入っていただき、そこをきっかけとして問題への理解を深めていくことも、やはり必要。

ウネリ 問題に気づく「入り口」としては肯定できる、ということですね。私はちょっと、「危険さ」のほうが強い映画かなと感じましたが。

阿部 そもそも映画とは、作り手の主観による作品です。どういう立場からものを見るかで描き方が全く変わってしまう。物事を多面的に捉えるには、少なくとも4~5本は同じテーマの、さまざまな意見を持った映画を観ていただき、自分の考えを練ってほしいと思います。福島原発事故をテーマにした劇映画としては、ほかに佐藤太監督の『太陽の蓋』(2016年)があります。この映画は比べて観ていただきたいと思います。

ウネリ 今日はありがとうございました。ご自分の館で上映したものを悪く言えないんじゃないかと心配だったんですけど、安心しました。

阿部 それはまあ、個人としての見方ですから。
 でも、お客さんに聞かれたら、「評判良いですよ」という言い方をします。実際に評判はまあ良いです。「あなたはどう思うんですか」っていうことについては、僕は評論家ではなく「興行者」なので、興行期間中は控えます。とにかく作品を提供し、「決めるのはお客さん」というモットーでやっています。

***

 阿部さんが最後に紹介してくれた『太陽の蓋』は、イチエフ内部ではなく、事故当時の首相官邸が主な舞台になっています。『Fukushima 50』と見比べると、当時の民主党政権の描き方が対照的です。『Fukushima 50』では佐野史郎扮する首相が奇声を発するのに対し、『太陽の蓋』では三田村邦彦が首相を演じ、渋い表情で難局に臨みます。「映画は作り手の主観による作品」という阿部さんの言葉が実感できます。

 最後に、私自身の『Fukushima 50』の感想ですが、あの福島原発事故を、作業員たちの「美談」に仕立て上げたところに強い違和感をおぼえました。現場の作業員たちは必死だったと思いますが、暴走する原子炉の前で彼らは無力だった、というのが事実に近いのではないでしょうか。阿部さんが指摘するように、告別式で「なぜあのとき格納容器が爆発しなかったのかわかってない」と話すシーンはありますが、映画全体は「作業員が命を賭して最悪の事態を食い止めた」という印象を強く刷り込もうとしていると感じます。作業員たちの「美談」にスポットライトを当てることによって、原発事故の「悲惨さ」や、本当の事故原因を追究する「問題意識」が陰に隠れてしまっています。

※この映画が掲げる〈事実にもとづく物語〉への個人的な違和感については、ブログにも書いています。よろしければこちらもあわせてご覧ください。→「映画『Fukushima 50』①あの映画の“物語”部分について」「映画『Fukushima 50』②あの映画の”事実”部分について」

(ウネリ)

阿部泰宏(あべ・やすひろ):1963年福島市生まれ。市内の映画館「フォーラム福島」で30年以上働き、現在は支配人を務める。社会派・独立系の映画をこよなく愛する。原発事故で福島市内の放射線量が上昇したため、妻子を他県に避難させた被災者でもある。2011年6月以降はフォーラム福島で〈映画から原発を考える〉という上映企画を続け、3・11を風化させない取り組みを続けている。

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ウネリウネラ
元朝日新聞記者の牧内昇平(まきうち・しょうへい=ウネリ)と、パートナーで元同新聞記者の竹田/牧内麻衣(たけだ/まきうち・まい=ウネラ)による、物書きユニット。ウネリは1981年東京都生まれ。2006年から朝日新聞記者として主に労働・経済・社会保障の取材を行う。2020年6月に同社を退職し、現在は福島市を拠点に取材活動中。著書に『過労死』、『「れいわ現象」の正体』(共にポプラ社)。ウネラは1983年山形県生まれ。現在は福島市で主に編集者として活動。著書にエッセイ集『らくがき』(ウネリと共著、2021年)、ZINE『通信UNERIUNERA』(2021年~)、担当書籍に櫻井淳司著『非暴力非まじめ 包んで問わぬあたたかさ vol.1』(2022年)など(いずれもウネリウネラBOOKS)。個人サイト「ウネリウネラ」。【イラスト/ウネラ】