「検事は弁護士に、弁護士は検事にどう見えるか〜冤罪防止に向けて」講師:市川寛氏

「検事と弁護士は制度上の対立関係にあるため、検事は弁護士に、弁護士は検事に対して固定された見方を持ちやすく、それが冤罪を招く一つの理由にもなっている」と元検事であり弁護士の市川寛先生は指摘します。冤罪を防ぐために検事と弁護士はそれぞれどうあるべきなのか、検事時代の経験と視点も交えてお話しいただきました。[2020年10月24日@渋谷本校]

伝統的な「検察マインド」とは

 検事の仕事は、大きく捜査と公判の2つに分けられます。犯罪が起きたときに被疑者を確定して、さらに犯罪の証拠を集めるのが捜査の主な活動です。捜査の最後は終局処分といって、起訴するかしないかの判断です。公判は起訴した後の法廷での活動のことです。裁判において有罪を立証して、正当な刑罰を求めるといった活動です。
 このように、検事の仕事は大きく起訴の前と後とに分けられます。そして検察という組織は、捜査と公判のうち捜査を重視する傾向が強い。私は、これが検察の抱える問題の出発点ではないかと考えています。とくに私がいた1990年代、裁判員制度が始まる前の検察では、捜査重視・公判軽視が明らかでした。
 伝統的な「検察マインド」について、身柄事件の手続きを例に挙げてお話しします。身柄事件とは、被疑者が逮捕・勾留されている事件のことです。身柄事件では勾留期間という時間的制約のなかで捜査をするので、時間に追われてのひずみが出やすいのです。
 ここでは、オーソドックスに警察が被疑者を逮捕した事件の場合についてお話しします。検察が逮捕する場合もありますが、事件のほとんどは、警察が逮捕して検事がそれをチェックするという形になります。逮捕された被疑者が検察に送られた後、検事が最初に行うのが弁解録取(逮捕事実についての弁解を被疑者から聴く手続き)、いわゆる「弁録(べんろく)」です。この段階で、すでに検事には職業病が現れています。
 弁録の段階では、自白する被疑者もいれば、黙秘や否認をする被疑者も出てきますが、被疑者が罪を否認したときに、検事は「嘘をついているだろう」と捉えがちなんですね。検事は日々罪を犯した人と接していて、そのなかには虚偽の弁解をする人もいるので、どうしても否認を嘘だと決めつける傾向が身についているのです。これが弁護士との大きな違いです。
 弁護士は多くの場合、被疑者に会って否認する弁解を聞いたら、鵜呑みとまではいかなくても、「ああ、そうなのか」と受け止めることができます。それは、弁護士の職務が、あくまで目の前の依頼者である被疑者を助けることだからです。ところが検事は、なかなかそうできない。弁録の段階で否認された時に検事が考えるのは、「この弁解を崩すために、どんな証拠を集めるか」であって、「この人は無実かもしれないから、ちゃんと調べよう」ではないんですね。もちろん、捜査をして実際に弁解が裏付けられる証拠が出てきたら、不起訴に傾くこともありますが、否認を直ちに嘘と捉えがちな検事の考え方は、無罪推定より有罪推定に近いと思います。

検察が自白を必要とする理由

 検事は自白が大好きです。検事がなぜ自白を必要としているのか、大きく分けて2つ理由があります。
 1つ目は、「自白によって初めて真相が解明される」からです。日本の刑事事件の事実認定は、最終的には被疑者・被告人の主観面に固執します。故意(犯意)、目的、共謀、そして動機などです。こうした被疑者・被告人の内心をとことん突き詰めようとします。
 では、被疑者の内心をどうやって立証するかといえば、それは自白しかないのです。被疑者の主観面を解明しろと求めるのは、警察や検察だけではなく、裁判所も同じです。そして一般市民もそれを強く求めています。新聞やテレビのニュースでも、被疑者が逮捕されたときなどに「動機の解明が待たれる」と言いますよね。これは、「なぜ自分がこんな被害に遭わなければならなかったのか」を何よりも知りたいはずの被害者の立場になれば、当然です。しかし、動機を直接に解明する手段は自白だという危うさは、とくにマスコミの人たちには、心に留めておいてほしいと思います。動機を解明しろと求めることは、取りも直さず、憲法が認める黙秘権を放棄して自白しろと求めることになるからです。自分たちと同じ人間である被疑者に、同じ人間なら誰もが持っているはずの人権を捨てるように要求することにもなるのです。
 さらに、警察、検事や裁判所、あるいは市民が、被疑者が自白したとおりの動機で納得できるかというと、そうではなくて、とくに裁判所は第三者から見て合理的な動機を欲しがります。例えば殺人罪の被疑者が、動機を「カッとなったから」と語るだけではダメなんです。しかし、罪を犯した時の内心を理路整然と説明出来る人は多くありません。だから、検事は取調べで「カッとなったというのは、こういうこと?」と誘導するように質問して、動機を「作文」していくことになります。
 次に、検事が自白を必要とする2つ目の理由ですが、検事は「犯罪者は、自白することで更生への第一歩を踏み出す」と考えています。私は検事時代に、これを先輩や上司から口すっぱく言われました。否認のままでも証拠があれば有罪になります。でも、否認のままで刑務所に行っても反省しない、と。罪を認めて、自白して反省して刑務所に行かないと、再び罪を犯すと教えられました。
 反省すればおそらく再犯の可能性は減るでしょう。でも、勾留期間の10日や20日で反省できるのであれば、そもそも犯罪をやらないだろうと、私は検事時代から思っていました。取調べは、反省やカウンセリングの場ではありません。あくまで質問をして答えを得るだけの場です。それにもかかわらず、検察は被疑者を反省させようとするのです。自白=反省なのです。これも、そもそもは一般市民が反省を強く求めていることが背景にあると思います。ニュースで「容疑者から謝罪の言葉はない」などと言われることがありますが、取調べは被疑者が誰かに謝るために行う手続きではありません。ここにもマスコミによるミスリードがあります。
 みなさんは、「精密司法」という言葉を聞いたことがあるかもしれません。検事は、ささいな矛盾もないように神経を遣いながら、供述調書を作成します。その際に、先ほどお話ししたように、人の内心に立ち入り過ぎる傾向があります。動機についても「何月何日にこんなことがあって、被害者にこんなことを言われたから、私はこう思った」と、まるで小説のような細かな描写を調書にとっていく。検事は公判の冒頭陳述で、この自白調書のとおりに演説します。これすなわち「調書裁判」と言ってもいいでしょう。そういう「精密司法」が行き過ぎた方向で発達してしまったのが、日本の刑事裁判の大きな問題点ではなかろうかと思います。
 もっとも、裁判員裁判が始まって以降は、裁判所が供述調書をあまり採用しなくなり、法廷での証人尋問や被告人質問によって事実認定をするようになってきました。それでも裁判員裁判の対象にならない事件などでは、今でも事細かな調書で事実認定をしようとする傾向にあります。

「起訴した事件は絶対に有罪」の思い込み

 起訴についてさらに説明しますと、少なくとも私がいた時代の検察では、「絶対に有罪でなければ起訴しない」というのが建前でした。捜査で十二分に調べ上げて、被疑者に有利な証拠も不利な証拠も全て見て、「有罪に間違いない」という事件だけを厳選して起訴している。ですから、公判で無罪になると猛然と抵抗する。「起訴した事件は絶対に有罪だ」というのが、検察の信条なんですね。
 すると、「じゃあ、公判って何をするの? 何のためにあるの?」ということになってきます。起訴したときに有罪という絶対の正解が出ていて、公判ではそれを答え合わせするだけという、公判中心主義に真っ向から反する思想を持っているのが、検察というわけです。しかし、捜査も起訴も人間のやることですから、間違った起訴がないということはあり得ない。ここにも日本の刑事司法、刑事手続きの大きな問題点が潜んでいると思います。人間がやっているのに、絶対に間違わないことを前提としているように見えるのです。
 もちろん、明らかに無罪だと分かっていながら起訴するのはいけません。でも、それなりに証拠があって、有罪ではないかと思う事件を検察が公開の法廷に持ち込み、弁護人に十分に批判してもらいながら審理し、そして中立な裁判所に判断してもらう。起訴はそういう一種の問題提起であるべきではないかというのが、私の今の意見です。
 起訴を問題提起とした場合に難点となるのは、被告人の身柄拘束です。現状では、検事は起訴した時点で100%有罪だと思っているから保釈させない。起訴した時点で被告人は犯罪者に間違いないので、外に出すなというわけです。弁護人の「保釈すべきだ」という意見にも耳を傾けません。検察は若手の検事に対して、「弁護人は、被疑者や被告人に否認をそそのかす上、さらに証拠隠滅までやりかねない」と教育していて、私もそう叩き込まれました。弁護人性悪説なんです。ですが、起訴は有罪か無罪かを公判で調べてもらおうという問題提起だと改めれば、起訴された人の中には、無罪になる人もそれなりに含まれていることになりますから、どんどん保釈しないといけなくなるでしょう。
 検察が起訴時に絶対の正解を出しているわけではないと姿勢を改めることになりますから、弁護人の意見も十分に聞く必要が出てくるはずです。つまり、真相は捜査ではなく、公判で解明すべきだとなれば、刑事司法の問題の多くが解決されるのではないでしょうか。
 しかし、私のいた時代だけでなく、検察は今もなお、公判より捜査を大事にしています。検事の本質を司法官ではなく、犯罪捜査官として位置づける傾向が強いんですね。検事は、ものの考え方が裁判官、弁護士より警察官に近いのです。
 検事は、なぜ原則として司法試験に受かっていなければならないのか。なぜ裁判官、弁護士と同じ資格がないといけないのか。それは、検事は法律家でないとダメだからでしょう。つまり、裁判官のような公平なものの見方、弁護士のような人権感覚を持って、警察の捜査が刑事訴訟法どおりの手続きに沿っているかをチェックする。そういう意図で検察官という制度を置いているのが、法律の建前のはずなんです。これが、検事が司法官であることの意味だと思います。しかし実際の検事は、捜査官である警察とほぼ同じ目線になってしまっています。
 また、検事には弁護士はおろか、ややもすると裁判官まで見下すような傾向が強いのは、起訴したときに有罪だと決まっている、つまり「捜査が万能である」という考えから始まっています。もし検事が法律家であることにアイデンティティを持っていれば、捜査より公判を重視するはずなのです。公開の法廷で刑訴法と刑訴規則を守って証人尋問などの立証をする、そして弁護人の反論を正当に克服して有罪を立証するというのが、検事の本分のはずなんですね。それなのに、検察が公判を軽視しているというところから、歪みが出ていると私は思います。

検事と弁護士は、なぜ互いに批判し合うのか

 繰り返しになりますが、検事には証拠を全部見ているという自信があります。そして、その証拠を公正に評価しているという自信もあります。
 問題は、この「公正に評価している」という自信に疑問を持たないことです。弁護人は「その証拠評価の仕方は違うんじゃないですか?」と検事に疑問を投げかけるのが職務です。ですが、検事はその弁護人の職務を否定してしまう。「俺たちの証拠評価にどうして疑問を呈するんだ。俺たちの評価に間違いはないんだ」と。これは非常にまずい。検事が間違っている可能性があるから、弁護人や裁判官が存在するはずなんですね。弁護人と裁判官は、検事が間違えることを前提として、法が設置したチェック機能のはずです。
 一方で、弁護士の見方はどうかといえば、ときに検事という存在そのものを否定的に評価することもあります。人権感覚の強い弁護士ほど、「検事には人権感覚がない」と否定することが多い。これは、すでにお話ししたとおり、検事のやり方に大いに問題がありますから、仕方のないことです。しかし、見方を変えると、人権感覚がある人こそが検事になるべきなのです。人権感覚がある人はみんな弁護士になり、人権感覚のない人ばかりが検事になるとしたら、永遠に不当な起訴が続きます。
 弁護士は、どうしても立場上、検事に「不起訴にしてください、釈放してください」とお願いするしかない。弁護士には不起訴や釈放の権限がないからです。でも、検事になれば自分で不起訴にできるし、釈放もできます。これが、私が検事になろうとしたときに考えたことでした。しかし我が身を振り返ると、司法修習生からすぐに検事になったのは良くなかったと思います。検察は、被疑者や被告人に対する人権感覚がどうしてもマヒしてしまう組織だからです。

冤罪防止に向けて

 こうした状況を変えていくために、理想的なのは法曹一元化です。まず刑事弁護を何年かやってから検事になる制度にすれば、だいぶ検察は変わるんじゃないかなと私は思います。
 私が検事を辞めて良かったと思うことの1つは、弁護人として被疑者・被告人に会う接見の面白さです。「面白い」という表現にはやや問題があるとは思いますが、それでも敢えて続けますと、検事時代には聞けなかった話、いろいろな意味での本音が被疑者・被告人から聞けるんです。検事には話せないことも弁護人には話してくれる。なぜなら、被疑者・被告人にとって弁護士は味方であり、検事は敵だからです。検事になる前に刑事弁護をやっておくと、検事の仕事にも大いに役立つのではないでしょうか。
 もし、私が検事志望の受験生にアドバイスするとしたら、「今あなたが持っている検事像を、検事になった後も最後まで貫いてください」ということだけです。受験生時代や修習生時代に持った理想は、実のところ、もろく崩れやすいものです。だからこそ、どんな理想でもいいですから、検事になった後もそれを持ち続けてください。あるいは、検事になる前に抱いていた夢が破れた検事が、検察の人間には内密に、弁護士会などの外部に相談出来るシステムなどがあるといいなと思います。夢が破れたら辞めるしかないというのは、もったいないでしょう。
 さらに一般市民も、無罪判決というものに対して少しは寛大になっていいのではと思います。実は、無罪判決に一番感情的に抵抗するのは一般市民なんですね。日頃からプロフェッショナルや「お上」を無条件かつ過剰に信頼して、「プロである検事が起訴したのだから、有罪のはずだ」と思っているから、無罪判決によってその信頼が裏切られた時の反動が大きい。「検察は間違えないはずなのに、なぜ無罪になったんだ」と怒るわけです。しかし、検事も人間である以上、判断を間違えることはあり、どんなに頑張っても間違った起訴というのはあり得る。それなのに、少なからぬ市民が、一度間違えただけで検察を激しく非難する、検察の仕事の全てを否定するから、検察は間違いを認められなくなってしまう。これは検察だけでなく、今の日本の社会のあらゆる場面でそういう傾向があると思います。一度も間違えないことよりも、間違いを認めて改良することの方が尊いはずだと、私は思うのです。
 検事と弁護士は法律上の対立当事者ですが、過度に相手を憎む、全てを否定的に見るというのは、あまり良いことではありません。検事には検事の苦労があって、どんなに注意しても間違えることはあるし、弁護士だって、犯罪者を逃がそうとする悪の手先ではない。互いに一定のおおらかさと相手方への尊敬の念を持って、信頼関係を結び直した上でやっていくしかない。検事は弁護士を敵視・蔑視し過ぎですし、弁護士も、検事への批判が激し過ぎるんじゃないかと思うときがあります。
 検事と弁護士は、互いを罵り合うような感情的な対立ではなく、同じ法律家として尊重し合うことを前提に、理性的な対立をして、その上で裁判所が適正な結論を出してくれるように仕事をする。そして、その結論が有罪か無罪かはどちらの勝ち負けでもないという、共通認識が生まれればいいのではないでしょうか。
 「無罪が真実ならば、それでいいじゃないか」と、検事に言わせられるような刑事手続きになればいいなと、私は思っています。

1965年、神奈川県生れ。中央大学法学部卒業。1990年に司法試験に合格し、1993年、検事任官。横浜地検、大阪地検、佐賀地検などに勤務。2005年に検事を辞職し、2007年、弁護士登録。華鼎国際法律事務所所属。著書に『検事失格』(毎日新聞社・新潮文庫)『ナリ検〜ある次席検事の挑戦〜』(日本評論社)。