第4回:自主避難する・しない、選択を迫られた人々『たゆたいながら』〈前編〉(ウネリ・牧内昇平)

東日本大震災からまもなく10年が経とうとしています。原発事故が起きた福島県には、いまだに人の住めない場所もたくさんあり、さまざまな形で被害は続いています。しかし、時間が経つ中で記憶が薄れてきた人、もともとよく知らないという人もいるのではないでしょうか。震災や原発事故について学びたいけれど、ぶ厚い本を読む気にはなれない……そんな人におすすめなのが「映画」です。
福島県福島市の映画館「フォーラム福島」で支配人を務める阿部泰宏さんは、3・11後、原発や震災をテーマにした上映企画を粘り強く続けています。阿部さんを案内人として「いま観るべき映画」を毎回ピックアップしてもらい、そのポイントを語ってもらう連載です。

『たゆたいながら』
〈前編〉

「福島に残るか、自主避難するか」

ウネリ 本日は、福島県の「中通り」の人びとを描いた作品を取り上げます。
 福島県はもともと、地形的に三つの地域に分かれています。いちばん太平洋側は原発がある「浜通り」、その内陸部が福島市や郡山市などの「中通り」、さらに内陸で新潟と接している地域が「会津」です。震災直後、「浜通り」の多くの地域には避難指示が出ました。一方で、原発から数十キロ離れた「中通り」は、放射線量が高いにもかかわらず、ごく一部の地域をのぞいて行政から避難を求められることはありませんでした。中通りに住む人びとは、「残って暮らすか、自主避難するか」という選択を迫られることになりました。その人たちの葛藤を描いたのが、この映画です。

【作品紹介】
 
『たゆたいながら』
(2017年/日本/阿部周一監督/自主制作)

阿部周一監督は震災当時、福島市内の高校生だった。放射能の健康への影響を心配した両親は、周一監督を東京に住む祖母のもとへ単身で避難させた。3年後の2014年、周一監督はビデオカメラを持って故郷に戻った。一家でこの地に残る道を選んだ人、妻子を他県に「母子避難」させた人、子どもと一緒に他県で避難生活を続ける人……。選択を迫られ、揺らぐ気持ちを抱えて暮らしている人びとの姿を、自主避難者の一人である周一監督のカメラが丁寧にとらえていく。

阿部 この作品は、一般には広く公開されていません。阿部周一監督は福島市から自主避難した後、大阪芸術大学で学びました。大学の卒業制作として撮ったのがこの作品です。

ウネリ 名字が同じなので監督のほうを「周一監督」と呼ぶことにしたいと思います。阿部さんは「阿部さん」のままで。この映画でまず驚いたのは、冒頭になんと、ほかならぬ阿部さん自身が登場することです!

【シーン解説①】
 
福島市内の高校で開かれた試作版の上映会。阿部さんがマイクを握り、感想を語るシーンから作品ははじまる。

阿部「3・11以降、福島をめぐる言説で『分断』とか『亀裂』という言葉が頻繁に飛び交っているけれども、それは何をめぐっての分断であり亀裂なのかと考えたとき、『脱原発』と『被ばく』に区分けができると思います。福島市、中通りにおいては明確に、自主避難の問題を生み出している『被ばく』というものをめぐる分断や亀裂が根深いということを、この作品を観て改めて思いました」

阿部 この作品はいったん出来たものを福島市内の高校で上映しました。その上映会での様子などを加えて編集し直し、完成版を作っています。私もその上映会に参加し、映画の感想を述べたんです。再編集をしたとき、周一監督が私の発言を冒頭に持ってきてくれたのは、「こうしたことを念頭においてこの映画を観てほしい」ということなのかなと思います。

2014年に福島に戻った周一監督は自宅周辺の線量計をカメラで撮影した(阿部周一監督提供)

ウネリ いきなり見慣れた人が出てきてびっくりしてしまいました。

阿部 自分が出ている映画は恥ずかしいんですけど……。

ウネリ 福島市を含む「中通り」では、原発がある「浜通り」の一部地域よりも高い放射線量が観測されました(※)。風向きの影響で福島第一原発から吐き出された放射性物質が内陸側に流れてきたんですよね。

※福島県の「県内7方部環境放射能測定結果」によれば、2011年3月15日23時現在、福島市内(第一原発から北西約63キロ)の放射線量は毎時20マイクロシーベルトを超えた。一方、浜通りに位置する南相馬市(第一原発から北へ約24キロ)では、同じ15日23時の測定値は毎時4.46マイクロシーベルトだった

阿部 はい。

ウネリ 線量が高いにもかかわらず、政府から避難指示は出ませんでした。避難指示が出ないということは、「普段どおりに暮らしてくれ」ということだと思います。学校も早々に再開しました。中通りの人びとの「被ばく」への不安はとても大きかったと思います。ところが同時期に世間で熱心に議論されていたのは、「被ばく」ではなく「原発は是か非か」という問題でした。

阿部 それは自分の中ですごく問題意識としてあります。私が住む福島市も含めて、この中通り地区は「低線量被ばく」というストレス下に置かれました。そのことを共感してもらえていないという疎外感を、原発事故直後から感じていました。
 「原発の是非」が社会的に議論される中で、多くの人たちがこの「低線量被ばく」の問題を見落としていたと思うんです。脱原発を目指す人たちがたくさん福島に来てくれました。しかし、「被ばくの問題は深刻だ。こういう問題を巻き起こした原発はやはり罪深い。だから脱原発だ」というふうな方向にいくわけです。どうしても「原発の是非論争」に向かってしまう。それも正しいんですが、現に福島市に住んでいる私は皮膚感覚として、「もっとそれ以前の問題、いまここに住んでいる人は大丈夫なのか、という問題を共有してほしい」と感じていました。

ウネリ たとえ低線量だとしても被ばくしたのは事実です。将来にわたって安全だと言える確証はありません。福島県内では甲状腺がんの調査などが継続的に実施される必要がある状況です(※)。そんな中で暮らすのは、本当に神経がすり減ると思います。

※震災時におおむね18歳以下だった人を対象とした福島県の甲状腺検査では、甲状腺がんと確定、またはがんの疑いがあるという結果が出た人が、200人を超えている

阿部 私は生まれて初めて「ここで深呼吸していいのか」と悩みました。水道の蛇口をひねり、この水を飲んでいいのか、この水で風呂をわかしていいのかと、考え込んでしまいました。生活のディテールの様々な部分でストレスを感じ、とにかく神経が参ってしまう経験をしました。

選択を迫られた人々

ウネリ そうした状況の中で、「自主避難」という形で避難指示の出ていない地域からも福島を離れる人たちがいました。映画『たゆたいながら』で登場するのは、たとえば京都に妻子を避難させた中年の男性です。撮影された時点では、男性は自らも避難し、京都市内の洋服店で働いていました。しかし、震災後1年間は仕事の関係ですぐに避難できず、家族と離ればなれで暮らしていたと言います。

【シーン解説②】
 
男性がカメラに向かって、家族と離れて暮らしていた当時の心境を語る。

「月にいっぺんくらい行ったり来たりしてましたけども、(自分が福島に)帰る日は重苦しい感じになりますね。子どもらが泣くときもありましたし、私自身もつらくて泣くときもありました。たぶんその1年で、その前の30年ぶんくらい泣いたと思いますよ。そういう1年でしたね。思い出すと」

ウネリ 家族思いのこの人が、なぜこんな思いをしなければならないのか。憤りとやるせなさを感じます。実は阿部さんのご一家も「母子避難」を選択したんですよね。

阿部 はい。うちには9歳の女の子がいました。原発が爆発した時、なんとしても子どもだけは守るぞという気持ちになりました。でも、とことん考えましたよ。福島では「逃げた」と言われて友人を失うかもしれないし、子どもから恨まれるかもしれないとも思いました。
 最終的には、この子が将来大人になり、50歳、60歳になって何か病気をしたとして、「ああ、私はあの時福島にいたから病気になったのか」と思わせたくない。その気持ちが強かったですね。そのとき自分はもうこの世にいないですからね。それはいくらなんでもかわいそうだと思いました。

ウネリ 京都に避難したんですよね。京都は当時、自主避難者への支援が割と進んでいたんですよね。ご自身も行こうとは考えなかったですか。

阿部 僕はサラリーマンで、ここで給料をもらって家族を養っているわけです。そういうものをリセットしたらどうなるか、40代後半でもう再就職も難しいだろうし、ましてや住んだこともない西日本へ行って、家族全員を路頭に迷わせるわけにはいきませんでした。違和感を覚えながらも、なんとかここに住み続ける糸口を見出すしかないと思いました。

ウネリ 家族と離れて暮らすのは、つらかったでしょうね…。

阿部 はい。経済的にも苦しいですよ。福島と京都の「二重生活」ですから、あれ以来、貯金はほとんどできなくなりました。

ウネリ 周一監督は福島に残った人たちの声も聞いています。私が印象深かったのは、障がい児がいるご家族です。

【シーン解説③】
 
環境が変わって子どもが混乱することを心配し、一家は福島に残る道を選んだ。お母さんが語る。

「この子たちがいて、また新しいところに行ってやり直す、というのは考えられなかったですね。ある意味、残るというのは腹をくくるということ。リスクも抱えて生きるということですよね。(現状との)折り合いをつけながら。『腹をくくる』。『折り合いをつける』。私のキーワードはこの2つかな」

ウネリ 各家庭がそれぞれの事情を抱え、悩みながら決断していった様子がうかがえます。こんなシーンもありました。

【シーン解説④】
 
周一監督は自分が通っていた福島市内の幼児園を訪れる。この園は除染を徹底し、原発事故から1年半後、園庭遊びを解禁した。放射性物質による健康被害はないと言い切れるのか。しかし、室内にい続ければ子どもたちがストレスをためないか。悩んだ末の結論だった。カメラに向かって園長が語る。

「これ、絶対、正しいとも言えない。だからと言って間違いでもない。正直、本当にそれでいいのかと言われたとき……。難しいね。答えとして出すのは」

阿部 この人も揺れ動いていますよね。ひとりのおじいさんとして、幼児園経営者として、福島市民として、プリズムみたいに千変万化しながら話していると思います。

ウネリ 「これが正解」と言えるものはない、ということですよね……。

園庭遊びを再開した福島市内の幼児園の様子(阿部周一監督提供)

→後編に続きます

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阿部泰宏(あべ・やすひろ):1963年福島市生まれ。市内の映画館「フォーラム福島」で30年以上働き、現在は支配人を務める。社会派・独立系の映画をこよなく愛する。原発事故で福島市内の放射線量が上昇したため、妻子を他県に避難させた被災者でもある。2011年6月以降はフォーラム福島で〈映画から原発を考える〉という上映企画を続け、3・11を風化させない取り組みを続けている。

       

ウネリウネラ
元朝日新聞記者の牧内昇平(まきうち・しょうへい=ウネリ)と、その妻で元同新聞記者(=ウネラ)による、物書きユニット。ウネリは1981年東京都生まれ。2006年から朝日新聞記者として主に労働・経済・社会保障の取材を行う。2020年6月に同社を退職し、現在は福島市を拠点に取材活動中。著書に『過労死』、『「れいわ現象」の正体』(共にポプラ社)。個人サイト「ウネリウネラ」。(イラスト/ウネラ)