数々の大規模経済事件を担当する一方、中国残留孤児の戸籍取得など人道支援にも取り組んできた弁護士の河合弘之氏。原発問題には20年ほど前から関わっていましたが、相次ぐ敗訴に諦めかけたことがあったといいます。そんなときに起きたのが、2011年3月の東京電力福島第一原発事故でした。あらためて強い使命を感じ、脱原発弁護団全国連絡会を結成。脱原発を促す映画も製作してきました。多彩な分野で活躍してこられた河合氏から、エネルギーあふれるお話を伺いました。[2021年2月13日@渋谷本校]
最大の特色は「二股弁護士」
私の弁護士としての最大の特色は「二股弁護士」だということです。ビジネスの世界で企業法務や企業間訴訟を扱う一方で、中国残留孤児の国籍取得やフィリピン残留日本人の救済、原発差し止め訴訟、そしてスルガ銀行事件のような消費者救済事件も取り扱っています。
一般的に環境や人権問題に取り組むの弁護士は、主にそれらの問題に注力してお金を稼ぐのは1割か2割のエネルギーでやるとか、ビジネス派の弁護士であれば環境とか人権の活動はほとんどしないということが多いと思います。しかし、私の場合は、どちらも半々くらいの比重でやってきた。今でも四谷タワーの8階に事務所を構えて、がっちり稼いでいます。こういう弁護士は日本でも非常に少ないと思います。しかし、福島第一原発事故以降の10年間は「日本から絶対に原発を全部無くしてやる」という信念に燃えて、エネルギーの6割から7割を原発差し止め訴訟に注いでいます。
こういう特徴の弁護士だということをご理解いただいて、まずは私が最近勝ったスルガ銀行事件のことからお話ししようと思います。
原発闘争の手法で勝利したスルガ銀行事件
4年前、長女から「夫が怪しげな不動産投資をしそうだ」という相談を受けました。長女の夫を呼んで話を聞くと、保証金や敷金なしで住める女性専用のシェアハウス物件を購入して、管理運営は不動産会社に委託するサブリースする仕組みだと言います。「怪しいなあ」と思って止めたのですが、それから約半年後にテレビで「シェアハウス事件、サブリース料不払い」というニュースが出ました。もしかしたらと思って再び聞いてみたら、やはり引っかかっていました。
このシェアハウスは、不動産会社が間に入って入居者に貸すので毎月の家賃が必ず入り、それを購入費の元利から引いた金額が手元に残るというおいしい話だったのですが、実際には入居者が入らなくて不動産会社が家賃を保証できなくなったのです。しかも物件は実勢価格より高く売られていました。
購入者にはスルガ銀行が不動産会社と組んで融資をしていましたが、融資条件を満たさない人でも預金通帳の残高を偽造させるように銀行が不動産会社に指示して、不正な融資をしていたんです。そうやって借金を返せなくなった被害者がたくさんいました。最終的に私のもとに300人ほどの被害者が集まり、債務額は約450億円という規模です。長女の夫だけを一本釣りで助けようかとも迷ったのですが、やはり大きな戦いを挑んで勝つしかないと決めました。その方が勝つ確率が高いと思ったのです。
戦いの時に大事なのは、まず「誰と戦うか」です。一番悪いのはシェアハウスの仕組みを考えた不動産会社ですが、そういうところはお金をもって逃げてしまっている。それに、仮に裁判でひとり一千万ずつ返ってきても、1億5千万円規模の借金を抱えた被害者にとっては救済になりません。そこで、不当な貸付をした銀行と戦う方針を出しました。
次は「どうやって戦うか」。普通に考えれば集団訴訟ですが、集団訴訟なんてやったら絶対負ける。向こうは10〜20人も弁護士を連れてきて徹底的に争うわけです。しかし、こちらはお金がないから、時間がかかれば原告団が精神的・金銭的にもちません。私は、直接交渉する、マスコミや世論に訴える、金融庁にガンガン陳情に行く、そういう作戦をとりました。
もう一つ大事なのは「何を要求するか」です。こういう金融紛争は、金利を安くするなどのリスケジューリングの形で解決されることが多い。でも、この事件では実勢価格約7000万円の不動産が1億5千万円くらいで売られていましたので、利息を安くしてもらうくらいではダメ。元本を半分にしてもらうのもダメ。「不動産を返すから借金をチャラにしろ」。つまり代物返済が、私の当初からの方針でした。
しかし、相手の銀行も強固です。「スルガ銀行こそ被害者だ。あなたがたが自分で預金通帳を偽造したんじゃないか」といって、自分たちの不正を全然認めません。そこで私は、実質上の本店である東京日本橋のスルガ銀行前でデモをやろうと被害者団体の人たちに言いました。「スルガ銀行不正融資!」などと書いて「ご通行中のみなさん、私たちはスルガ銀行シェアハウス事件の被害者です」と銀行の悪事を世論に訴えるわけです。最初の数回は私もいっしょでしたが、そのあとは被害者団体の人たちだけで続けて全部で57回もデモをやりました。これがめちゃくちゃ効きました。マスコミも報道するし、スポンサーもつかなくなる。銀行というのは体裁を気にするところです。大きな戦いでは、敵の一番嫌なところ、弱いところを突かなきゃダメなんです。
さらに、被害者団体の人たちにスルガ銀行の株を買うように言って、200人で株主総会にも行って会場でどんどん追及もしました。そうしたら、その直後に銀行側の弁護士さんから「もうわかった。代物返済方針で行く」ということになったのです。この勝利は、もちろんデモや株主総会だけの効果ではありません。その間に、五十数回に及ぶ相手弁護士との厳しい応酬がありました。そのための弁護団会議も70回やりました。そうして、2020年3月25日にすべて解決しました。450億の借金がゼロ。金融事件史上、空前絶後の規模です。
「河合さん、よくあんな戦い方を考えたね」と言われるけれど、実は、原発闘争で培ったものなんです。原発闘争ではデモも株主運動も当たり前。それと同じ手法を使っただけなのです。
新左翼弁護士から、ビジネス弁護士へ
さて、スルガ銀行事件から時間をさかのぼると、最初私は新左翼弁護士だったんですね。50年ほど前に、「日本共産党では生ぬるい。もっと徹底的に戦うべきだ」という新左翼運動というのが流行っていて、私もそういう人たちの弁護ばかりしていました。
しかし、だんだん嫌気がさしてきたので、一転してビジネス弁護士をやろうと思いました。私はいつもこんな調子だから、依頼者がいっぱいつくんですよ。そこにバブル経済期が始まりました。バブル経済期に私が名を上げたのは「平和相互銀行事件」と「秀和対忠実屋・いなげや事件」です。
「平和相互銀行事件」というのは、雇われ経営陣が平和相互銀行のオーナー一家を追い出そうとして、127億円の貸金を盾に会社整理の申し立てを行って、一家の持ち株を取り上げようとしたものです。私がオーナー社長から頼まれて弁護団会議に行くと、元検事長とか東京高裁の元所長とかがいて、難しい討論をずっとしていました。30代だった私は、議論を聞いて「こんなことをやっていてもダメだな」と思いました。借金を返済してしまえば申し立ても何もなくなるじゃないですか。それで社長を呼んで「明日までに127億円を用意してください」と言ったんです。そしたら、一晩で127億円を用意してきました。当時はバブルだから何でもできたんですね。
先輩弁護士たちからは、「弁護士は法律を駆使して戦うものだ」と叱られましたが、そんなことを言っていたら間に合いません。そうやって127億円の小切手を持って裁判所に行き、裁判官に「申し立て債権を全部返済します」と言ったら、相手の弁護士は逃げるように帰って行きました。結局、会社整理の申し立ては取り下げに終わりました。完璧勝利です。あとは追撃作戦をやって平和相互銀行を取り返し、住友銀行にくっつけました。
もう一つの「秀和対忠実屋・いなげや事件」は、大手不動産会社・秀和によるスーパーマーケットチェーン忠実屋といなげやの企業買収に関する事件です。秀和は、忠実屋・いなげやの株式を買い占めて流通業界再編に乗り出そうとしましたが、忠実屋・いなげやは買収されるのを嫌って、秀和が持っている持ち株割合を薄めようとしました。資本提携を目的として新株を発行する「第三者割当増資」を相互に行ったのです。払い込み金は相殺されるので、株だけが動く形です。秀和の社長から、これをなんとか止めてくれと頼まれました。
私は「よしわかった」と引き受けて、何が一番効果的な方法かと考えたときに、発表株価が大変安いことに気づいたのです。両方とも前日の終値より非常に安く割り当てている。ここが弱いだろうと思ったので、「前日の終値よりこんな安く割り当ててたら、終値で買った株主はどう思う?」「特定の人だけに安く割り当ててたら市場の透明さに欠ける。不公平だ」と徹底的に叩き、新株の発行禁止処分を申請しました。マスコミも使って、ばんばん報道もしてもらった。そうしたら形勢が一気に逆転して勝つことができたのです。
中国残留孤児の戸籍取得から脱原発問題へ
こうして私はバブル経済の寵児になりましたが、そんなことをずっとやっていても仕方ない。世のため人のために働こうと思い、最初に始めたのが中国残留孤児の国籍取得や帰国の支援です。私は1944年に満州で生まれました。敗戦後、1日遅れたら栄養失調で死ぬっていうところで、命からがら日本に帰ってきました。そういう経験から、中国残留孤児1250人分の国籍を取得する仕事をしました。
その後、人類や日本にとって、より普遍的な問題を扱いたいと考えたときに「ああそうだ、後世に美しい環境を残すことが一番大事だな」と思ったのです。そして、一番深刻な環境問題は何かと考えたときに、原発問題でした。日本で原発事故が起きたら大変なことになります。事故が起きなくても、使用済み核燃料を後世に押し付けることになる。これは大変な危険と経済的な負担です。そこで、20年前から私は原発問題に取り組み始めました。
最初に海渡雄一弁護士と組んで行ったのが、福島第一原発3号機のプルサーマル燃料使用差し止めを求める仮処分申請でした。だけど、負けてしまいました。浜岡原発の運転差し止め訴訟でも負け、他にもいろいろな原発訴訟をしましたが、20連敗くらいしました。やってもやっても負けるので、「もうやめようかな」と思って、実は会議などもサボり始めていました。そんなときに起きたのが、2011年の東京電力福島第一原発事故です。
事故の様子を見たときに「ああ、やっぱり俺たちの言ってた通りじゃないか」と思いました。「河合、逃げるな。最後までやれ」という神様の声が聞こえたような気がしたんです。そこで、脱原発弁護団全国連絡会というものを作り、もう一回、日本中の原発差し止め訴訟をやることにしました。
以前は連戦連敗でしたが、今度は大飯、高浜、伊方原発を差し止めることができました。判決がひっくり返されたものもあり、いま我々の力で止まっているのは伊方原発だけですけど、他の原発も5分5分の戦いです。原発訴訟では、裁判官はなかなか勝たせてくれません。国策で動いている原発を止めるのは反権力的行為だから、裁判官は怖いんです。いろいろな社会的圧力もかかります。そういう社会的圧力を無くさないと裁判には勝てないのです。そのためには世論を変えていかないといけません。
脱原発と自然エネルギー推進の両輪
そこで、もっと世論に訴えかけるために、2014年に日本の原発についての問題点・論争点をすべて詰め込んだ『日本と原発』という映画を作りました。この映画は日本全国で600回以上自主上映が行われて、10万人以上の人が観てくれました。
追補として翌年には、『日本と原発4年後』という映画も作り、原発差し止め訴訟の法廷でも上映しました。さらに、『日本と原発』を観た人から「では、代わりのエネルギーはどうしたらいいですか」という素朴な質問があったので、それに答えるために2017年に『日本と再生〜光と風のギガワット作戦』という自然エネルギーの映画も作っています。
この映画を作った当時、経済人は「自然エネルギーなんてお天気まかせで頼りにならない」と言っていましたが、今はどうでしょうか。社会は自然エネルギーのほうへ向かっています。菅首相も所信表明演説で「再生可能エネルギーを最大限導入する」、「積極的に温暖化対策を行うことが、産業構造や経済社会の変革をもたらし、大きな成長につながる」と言い始めました。それでも、まだ原発は必要だと言っていますが、演説のなかでも原発について触れている部分は本当に少ないです。
私が映画で言ってきたことが、ようやく政府にまで到達したと思っています。一生懸命やってきた「日本から原発をなくす」という戦いにも必ず勝ち、自然エネルギーで動く社会が必ず実現します。遅くとも20年以内には完全にそうなる。皆さん、信じていいです。だけど、そうなるまでにもう一回原発事故が起きたら全てがパーじゃないですか。だから自然エネルギーをすすめる運動をやると共に、原発を早く止めて廃炉にする運動も両輪でやっていかなければならないんです。
自由に生きる、本気で生きる
今まで話してきたように、私は好きなことをやってきました。「いかなる富もあの世には持ち込めない」が今の信条です。正直言って、弁護士として成功して稼ぎました。しかし、どんなに稼いでもあの世には一円も持って行けません。だから自分と妻が死ぬまでのお金を用意したら、あとは世のため人のため使っちゃう。それが面白い人生なんだと私は思い定めています。
社会的な問題に関心があって、自分の力を活かしたいなら、ある程度自由な場に身を置いておかないとダメです。金や名声のために自分の自由、時間を売ってはいけない。自分が何を本当にやりたいか、そのためにはどういう職についたらいいか、どういう弁護士になったらいいか、よく考えてください。
最後に「本気ですれば大抵のことができる。本気ですればなんでも面白い。本気でしていると誰かが助けてくれる」。この言葉を伝えたいと思います。
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1944年、旧満州生まれ。1963年、桐朋高校卒業後、東京大学入学。1967年9月、司法試験合格。1970年、第二東京弁護士会に登録、虎の門法律事務所勤務。1972年4月に独立、河合・竹内法律事務所(現・さくら共同法律事務所)を開設。浜岡原発差止訴訟弁護団長、大間原発差止訴訟弁護団共同代表、脱原発弁護団全国連絡会共同代表、3・11甲状腺がん子ども基金理事、中国残留孤児の国籍取得を支援する会会長、環境エネルギー政策研究所監事。反原発ドキュメンタリー映画『日本と原発』などの映画を監督。著書に『原発訴訟が社会を変える』など多数。東京新聞夕刊一面に『この道』を連載中。