第15回:被災地ツアー報告③「原発の構内には、特攻隊の記念碑があるんですよ」(渡辺一枝)

7月に行った「被災地ツアー」の報告、の続きです。

南相馬・小高地区を歩く

 ツアー2日目(7月23日)。
 朝食後に双葉屋旅館前で記念撮影後、出発。
 駅前通りを行き、戦時中は戦闘機の風防ガラスの材料として使われもした珪砂を生産した「小高銀砂工場」の跡地を左に見て、その先右手にある作家・柳美里さんのブックカフェ「フルハウス」前を通過した。小高銀砂工場は福島県会議員で、相双地区(相馬市、南相馬市、浪江町、双葉町などを含む太平洋沿岸地域)の発展に貢献した故・半谷清寿(1858〜1932)が設立した会社だ。珪砂は花崗岩が風化して生じた石英粒で、銀砂というのは珪砂の別名だ。

鈴木安蔵生家

 「フルハウス」の先、道の左側に、日本国憲法の間接的起草者といわれる鈴木安蔵の生家がある。安蔵は1904年3月3日にここで生まれ、旧制相馬中学・相馬第二高等学校を卒業するまでの18年間を生家で過ごした。卒業後京都帝国大学に入学したが、マルクス主義の研究サークルが弾圧、粛清された1926年の学連事件で、治安維持法の初の逮捕者となり、自主退学して在野の憲法学者として憲法学を確立した。そして民間の7人で「憲法研究会」を起こし、その中心として「憲法草案要綱」を作った。敗戦後、GHQは、主権の主体を天皇から国民に置き換えて基本的人権を保障した安蔵らの「憲法草案要綱」に着目し、これを現憲法の骨子とした。「日本国憲法の間接的起草者」と呼ばれる所以だ。
 ここは2011年の被災前までは安蔵の縁者が住んでいたのだが、その後無人となった。土蔵は地震で崩壊し、併設されていた薬局店舗も取り壊されて残っているのは主屋のみだが、主屋は国登録有形文化財となっている。現在、地元有志で「鈴木安蔵を讃える会」が結成され、生家を記念館として建物と関係資料を保存する計画がスタートしているようだ。保存に尽力し旗振り役をするのは津波で自宅も船も流され、原発事故で避難を余儀なくされた元漁師だという。

若松丈太郎さんが見た小高

 今春4月24日に亡くなった詩人の若松丈太郎さんが福島第一原発事故の17年前に発表した「神隠しされた街」は、チェルノブイリに行って現地を見た若松さんが書いた詩だった。
 福島原発事故の後で、この詩は福島の今を予言していたような詩だという人もいたが、若松さんは、1971年に福島第一原発の1号機が稼働してからずっと、詩作の上でも評論でも、原発の技術面について、また運営管理面について、警鐘を鳴らし続けてきた人だ。
 福島原発事故の翌年3月に出版された『新現代詩』第15号に若松さんは、「町がメルトダウンしてしまった」という作品を載せている。5章からなる詩で、1章では生まれ育った街(岩手県奥州市)にあった米屋、八百屋、呉服屋、産婆、博労などの商いや仕事を列挙している。2章の終わりの方から、こう綴る。

2
(前略)
江戸時代末期頃から昭和の初めごろまでに
日本でも地方の小都市に市民文化が醸成されつつあった

そんな町の仕組みを壊したのが一億総動員体制だ
国民皆兵やら〈隣組〉やら愛国婦人会やらが
わたしが育った町を壊していった

3
福島県相馬郡小高町は小ぶりながら
わたしが育った町によく似た町だった
旧街道の一本道の中央に水路があって
暮らしを支えあっている町の人びとの関係を象徴していた
駒村(くそん)・大曲(おおまがり)省三の近所に五歳年長の余生・鈴木良雄と一歳年少の布鼓(ふこ)・原隆明がいた
彼らは俳句グループ渋茶会をつくって研鑽しあった 
早世した良雄の『余生遺稿』を省三は自費で出版した
省三が『川柳辞彙』編纂に没頭して生活に困窮すると
隆明が省三の生活をさまざまなかたちで援助した
省三が亡くなると良雄の子安蔵は「駒村さんのことども」を書いて追悼した
隆明は自家の墓所に省三の墓を立ててその死を慰めた
平田良衛と二歳年少の鈴木安蔵はともに相馬中学校と第二高等学校で学び
互いに敬意をいだいて励ましあった
良衛はレーニン『何をすべきか』を訳し『日本資本主義発達史講座』を編集した
安蔵は『憲法の歴史的研究』を著し『憲法草案要綱』を公表した

市民文化を醸成していた地方の小都市の仕組みを壊したのが一億総動員体制だ
国民皆兵やら〈隣組〉やら愛国婦人会やらが
大曲駒村や鈴木安蔵をはぐくんだ町を壊していった

4(略)

5
アメリカ渡来の〈核発電(げんぱつ)〉が爆発して
〈核発電〉から15キロの小高町は〈警戒区域〉になった
〈警戒区域〉とは警戒していればいいのかというと
そうではなくて区域外に避難せよという指示だ
そこから出ていけという指示だ
地方のどこにでもあるような町がメルトダウンしてしまった
いくつもの町がだれも住めない町になってしまった
町は町でなくなってしまった

 若松さんのこの詩は、小高に生きた人びとをあたたかに描きだし、町を喪った悼みを謳う。
 誰にだったか「小高は共産党の町だ」と言われたことがある。まさかそれはないだろうと思っているが、風土が育てる人の気質というものがあるのではないかと思う。

小高神社

 小高神社の鳥居を見て過ぎる。コロナ禍で今年の野馬追は無観客で行い、最終日の神事「野馬懸(のまがけ)」は中止だという。常ならば小高神社の境内で、この神事が行われるのだ。7月の最終土・日・月の3日間で行われ、私は被災翌年に3日間とも観覧したことがある。
 初日の出陣式とお行列は、かつて武士階級が威を誇っていた頃さながらに、例えば沿道の民家の2階から行列を見下ろすのはご法度だというし、私が見ていた時も行列の前を横切ろうとした人に騎馬武者が馬を走らせながら大声で叫んだ。「無礼者! なおれ、なおれ!」。甲冑を身に付けると、自然と態度も居丈高になるのかと思った。
 2日目の甲冑競馬と神旗争奪戦は、甲冑を纏った騎馬武者が400騎ほどで市内を行列し雲雀ヶ原祭場で競い合い、それは見るだに心が昂った。尻を鞭打ったり鎧で腹を蹴ったりしなくても、ハッとばかりに手を横にかざすと、それだけで馬は驚いて走り出したりするものだ。何かが不意に動くのを見ると驚くのだろう。だから旗指物を背にした騎馬武者の行列が粛々と進むのを見て、感嘆したのを思い出す。武者たちが背にした旗指物がバタバタと風におあられる中で走るのだから、馬たちもさぞ興奮しきっているのではないかと思う。
 最終日の「野馬懸」は御小人と呼ばれる白装束の者たちが、素手で裸馬を捕えて奉納するものだが、「神事」の厳かさを感じた。前の2日間と違って神社の境内で、華やかな色も無い行事だが、この「野馬懸」こそが大事な祭事であることが理解できた。
 今年はコロナ禍で常のような野馬追ではなかったというが、小高の街の通りには騎馬武者たちのそれぞれの紋を染め抜いた旗が掲げられていた。

浪江町から双葉町へ

「水素の町」

 小高から浪江町に入り、かつて「浪江・小高原発」建設予定地だった跡地に造られた水素プラントを見て過ぎる。浪江は「水素の町」としての再興を目指しているらしい。これは日本一の水素製造プラントだという。水を電気分解して液化水素を作るが、そのための電力は隣接の太陽光発電から賄っているという。敷地内には液化水素を運ぶタンクローリーも見えた。
 「浪江・小高原発」は東北電力が計画していたが、一部の地権者が最後まで土地を手放さず、土地取得に難航。先に女川原発を建設した。ようやく土地が入手できて計画を実行に移そうという時期に、東日本大震災・福島原発事故が起きた。東北電力はここへの原発建設計画を放棄して、土地を浪江町に無償提供した。そして浪江町は、ここに水素プラントを建設したのだった。さらに隣接の土地に1500頭の乳牛を飼育し生乳を生産する牧場を建設する予定だという。
 福島ロボットテストフィールド浪江町滑走路もできていた。これはどんなことに使われるのだろう? ついつい良からぬことばかり想像してしまうが、もし仮に武器などを積載させていたら…、またそのような研究のためなのだとしたら、ということを考えてしまう。
 さらに木材を組み合わせて集成材にする工場もできていた。細い柱を圧縮して集成材にすることで強度が増し、反り曲がりが出なくなるという。
 前の日に浪江小学校の解体現場を見たが、この日も幾世橋小解体現場を通った。ここは解体に取り掛かろうとしたときに遺跡が発見されたために解体工事が遅れて、いま工事が進められているところだった。

東日本大震災・原子力災害伝承館

 浪江町から次に向かったのは、双葉町にある「東日本大震災・原子力災害伝承館」だった。
 広い1階ロビーから2階の展示場へは緩やかなスロープ状の通路を通って行くが、その片側の壁に、原発ができる前から事故後9年間(1970年代から2020年まで)の相双地区の様子を写した写真が年代を追って絵巻のように示されている。たまたま私たちのグループが他の入館者たちよりも先になって緩い坂を登り始めたのだが、今野さんがこれらの写真は見ただけでは判らないからと説明を始めた。今野さんの声はよく通り滑舌も良く、とても聞きやすい。そして何よりも解説の内容が的確で、何を見るべきなのかどんな点に心を向けなければいけないのかをはっきり伝えてくれる。
 「福島第一原子力発電所が造られたところは、昔は塩田でした。海水から塩を作っていたところです。そこが戦争中は飛行場になって、特攻隊の訓練場所になったのです。だから原発の構内には、その記念碑があるんですよ。……」
 他のグループは私たちを追い越そうともせず、逆に今野さんの説明に耳を傾けるためにしっかり後に続いていた。
 最後の写真は2020年9月20日にこの伝承館が開館するところで終わっていた。今野さんの説明も「ここは何を伝承するところかというと、伝承館ができましたということを伝える施設なんです」と結ばれた。聞いた人たちの胸にその言葉がきっと残って欲しいと願った。
 次の部屋は、福島県出身の俳優西田敏行さんのナレーションでの映像を流していた。被災した品物や、消防士が着ていた消防服が展示してあったり、除染によって放射線量がどう変化したかを透明の円筒状の筒の中に入れた青い球で示して、さも安全になったかのような展示物があったり。現在も数万人の避難者がいることや、子どもたちに甲状腺癌が多発していることに触れた展示は皆目見当たらない。
 「伝承」を謳うからには、何が間違っていたのか、なぜ誤ってしまったのかがしっかり検証できるような展示でなければならない筈だが、この施設の建設費用は全額国が負担し、管理運営は「新たな産業基盤の構築」を謳う「公益社団法人福島イノベーション・コースト構想推進機構」が担っているから、負の情報は伝えようとしない。伝承しない伝承館なのに、入館料600円を取る。
 かつて双葉町に掲げられていた「原子力明るい未来のエネルギー」の看板は、建物の外壁に立てかけられたままだった。
 外した看板を展示しないでいた伝承館の姿勢に多くの抗議が寄せられて、展示することにしたは良いが、こんな展示の仕方なのだ。これではまるで「見えるように出しておけばいいんでしょ!」と、投げやりに展示したとしか思えないではないか。
 外は芝生の庭だが、人工芝ではなく天然芝だ。ロボット芝刈り機が動き回っていた。

 伝承館を出て隣の双葉町産業交流センター内のフードコートにある「せんだん亭」で、昼食用の浪江焼きそばをランチパックに詰めてもらい、車に戻って先へと向かった。
 双葉厚生病院、双葉高校、双葉駅を見ながら過ぎて行くが、今野さんは運転しながら窓の外の各所の説明をしてくれた。
 双葉町は避難指示が一部解除になったが、町の中は10年前のままだった。地震で屋根が潰れたままの家、崩れた塀、屋根を突き破って生えている草木、地震の被害だけだったら、とうに修理するか取り壊していただろうが、原発事故により汚染されたために避難指示が出た。そうして立ち入ることができないまま、10年の月日が過ぎていった。放射線量は事故直後よりは下がったが、生活できるレベルにはなっていない。
 伝承館を出た後は、大熊町へ。大熊町は大川原地区を復興拠点としており、地区の西端に町の新庁舎が造られた。その近くに災害公営住宅が建ち並ぶ。平屋の戸建てで2LDKと3LDKとあって、どちらも駐車場もありペットを飼うこともできる。50戸ほどあろうかと思われるが、全て入居者で埋まっているという。入居者は津波で家を流された人か帰還困難区域に自宅がある人だ。
 巨大なビニールハウスが建ち並んでいて、そこはイチゴ工場だ。太陽光と発光ダイオードを使い、土壌栽培ではなく養液での水耕栽培で、コンピューター制御によってイチゴを栽培するという。農場ではなく、まさしく工場だ。生食用や加工用、四季成りの品種など何種類かを栽培し周年出荷を目指しているようだが、まだうまく運べずにいて赤字らしい。イチゴ工場の近くには復興公営住宅が建っている。

(続く)

       

渡辺一枝
わたなべ・いちえ:1945年1月、ハルピン生まれ。1987年3月まで東京近郊の保育園で保育士として働き、退職後は旧満洲各地に残留邦人を訪ね、またチベット、モンゴルへの旅を重ね作家活動に入る。2011年8月から毎月福島に通い、被災現地と被災者を訪ねている。著書に『自転車いっぱい花かごにして』『時計のない保育園』『王様の耳はロバの耳』『桜を恋う人』『ハルビン回帰行』『チベットを馬で行く』『私と同じ黒い目のひと』『消されゆくチベット』『聞き書き南相馬』『ふくしま 人のものがたり』他多数。写真集『風の馬』『ツァンパで朝食を』『チベット 祈りの色相、暮らしの色彩』、絵本『こぶたがずんずん』(長新太との共著)など。