第2回:アンゲラ・メルケルに見る民主主義の希望(芳地隆之)

 10月31日に衆議院選挙を行うことが決まった際、ぼくが思い出したのは東ドイツで行われた選挙のこと。そして、先のドイツ連邦議会選挙後の引退を表明したアンゲラ・メルケルのことだった。

選挙には行かない

 1989年5月7日、東ドイツで全国地方選挙があった。当時、東ベルリンにあるフンボルト大学の学生だったぼくは、学生寮の1階に設けられた投票所に出かけた。同国では外国人でも6カ月以上在住している者であれば投票資格を有するとされていたのである。

 投票所の入り口近くには長い机が2つあり、選挙管理委員が2人座っていた。机の上には投票用紙と投票箱が並べられ、ぼくは投票資格を証明する紙を提出し、投票用紙を受け取った。はて、記載台はどこかと見渡すと、反対側の壁にある。そちらに移動し、両サイドが黒い板で仕切られた一画で候補者の名前と履歴に目を通した。

 東ドイツには与党SED(ドイツ社会主義統一党)の他、CDU(キリスト教民主同盟)、LDP(自由民主党)、NDP(ドイツ国家民主党)、DBD(ドイツ農民党)があった。複数政党制ではあるものの、SEDが国家の指導的役割を担うと定められており、政権交代は起こりようがなく、選挙は各政党が輩出した候補者への信任投票だった。ぼくは候補者がどんな人だかわからなかったので、しばらくしてから白紙のまま投票箱に入れた。

 そのことを同じ学生寮に住む外国人留学生に話すと、揃って「お前はあほか」と言われた。独裁政治の下で選挙をしたって何も変わらないだろ、という意味だと思ったのだが、そうではないらしい。ぼくが「あほ」である理由は、投票用紙を手に記載台に行ったことだというのである。

 この国での選挙は、投票用紙をもらったら、そのまま投票箱に入れることなんだよ――彼らはそう言う。それじゃあ秘密投票にならないではないの、とぼく。白紙委任をしようとは思ったが、あえて時間をつぶしたのだ。だからあほだっていうんだよ、と友人たち。彼らによれば、あの場は選挙管理委員による監視機能を果たしているのだという。記載台に行くということは誰かに×をつけるためである。だから投票用紙を渡すところに投票箱が置いているわけだ。

 なるほど、だからか、とその仕組みに納得したぼくに、友人たちは「お気の毒に」と言った。選挙管理委員は「8階8号室の日本人留学生は誰かを不信任にしたな」とぼくをブラックリストに載せているというのである。彼らは選挙に行かない。それはそれで抵抗の意思表示だ。むしろ、選挙に行かない人へのチェックの方がより厳しくなるんじゃないかとぼくは思ったのだが、その後、ぼくも友人の身辺にも変化は起こらなかった。

 選挙の翌日、SEDの機関紙『Neues Deutschland』は候補者の得票率(信任)は98%以上と報じていた。東ベルリン市内のプロテスタント教会で知り合った女性は、「あれは嘘。教会の調べでは多く見積もっても75%という数字が出てきた。不信任票が1%そこらのわけがない」と言った。

 東ドイツで民主化運動を担っていたのは主に教会に集まる人々だった。彼ら、彼女らの多くは学生ではない。大学生が表立って政府に異議申し立てをすると学籍をはく奪される恐れがあった(労働者が政治的な理由で解雇されることはなかった。国民完全雇用が国是だからだ)。だから大人しい。当時は中国天安門広場で学生が中心となった民主化デモが沸き上がっていたが(6月4日に人民解放軍に弾圧されることになる)、東ドイツで同じようなことが起こる気配はなかった。

 東ドイツでは政治への無関心(無気力)層が広がり、政権は安泰だった。

フンボルト大学の入り口。正面階段の踊り場の壁には「哲学者たちは世界をさまざまに解釈しただけだ。大事なのは世界を変えることである」というマルクスの言葉が刻印されている(1990年冬)

旧西ベルリンの中心地(遠くに第2次世界大戦時に爆撃されたままの姿で立つカイザー・ヴィルヘルム記念教会が見える(1990年冬)

慎重な姿勢のルーツ

 そのころアンゲラ・メルケル(カスナー)は東ドイツ科学アカデミーに属する理学博士だった。彼女は1954年、西ドイツ・ハンブルクに生まれたが、同年にプロテスタントの牧師である父、ホルスト・カスナーが東ドイツ・ブランデンブルク地方(現ブランデンブルク州)テンプリンにある教会に牧師のポストを得たことで移住する。ベルリンの壁ができる7年前のことだ。この年、東ドイツから自由を求めて西ドイツへ向かった人の数は16万に及んでいる。彼女の一家は逆の方向をたどった。

 父親は共産主義を信奉していたからか、「赤い牧師」とも呼ばれることもあったという。少女、アンゲラはそのため学校でも何かと注目される存在だった。そのせいか、目立つことをせず、言動は慎重で、相手と折り合いをつける性格が身についた。

 彼女は科学、英語、ロシア語を得意としていた。なかでも数学と物理は抜群の成績を収めており、東ドイツ南部のザクセン地方(現ザクセン州)にあるカール・マルクス大学(現ライプツィヒ大学)で物理学を専攻する。その隠れた理由のひとつは「(物理学が)政治とは無関係で、研究が干渉を受けないから」だったという。アンゲラは東ドイツの独裁政権に対して表立った反対をしたことはなかった。躍起になって対抗しても無駄であり、今の生活に満足とまではいわないが、我慢はできる生活を送れている――そう思っていた。上述の無関心(無気力)層とあまり変わらなかった。

 アンゲラ・カスナーは学生時代に同じ学部のウルリヒ・メルケルと結婚するも、後に離婚。メルケル姓をそのまま名乗っていた彼女の控え目な性格に変化が生じたのがベルリンの壁崩壊だった。

 メルケルは新たにできた政党、DA(民主主義の出発)の事務所のドアを叩き、出入りするようになる。後にDAは東ドイツの既存政党であるCDU、そして西ドイツのCSU(キリスト教社会同盟)の姉妹政党として生まれたDSU(ドイツ社会同盟)とともにDU(ドイツ連合)を結成。西ドイツとの早期の統一を公約に掲げた。メルケルも政治家に転身する決意をした。

 1990年3月、東ドイツの最初で最後の自由選挙が行われた。第一党となったのはCDUだった。西ドイツの政権与党である同名のCDUの同党党首であり、西ドイツ首相を務めるヘルムート・コールの全面的なバックアップが東ドイツのCDUを勝利に導いたのである。CDUの選挙パーティ会場は生ロック演奏が行われており、西側のアルコール類や東ドイツではお目にかかったことのない、高価そうな料理が供されていた。駐車場にはメルセデス・ベンツやBMWなど西ドイツの高級車が並んでおり、西ドイツの姉妹政党から多大な資金援助を受けていることをうかがわせた。

大人しくも、したたかな決断力

 DAは選挙後、CDUと合流、さらにドイツ統一を経て東西ドイツのCDUは合併した。その流れに従ったメルケルは、統一ドイツ初代首相のヘルムート・コール(西ドイツCDU党首)に重用され、女性・青年相、環境・自然保護・原子力安全相を歴任した。東ドイツ最後の首相となるロタール・デ・メジエールをはじめとする旧東ドイツのCDUの政治家たちが、「統一後は用無し」といわんばかりの扱いを受けたのとは対照的である。

 それまであまり目立たない、調整型の政治家としてキャリアを重ねたメルケルの転機は、統一から14年後の1999年12月に訪れる。前年に行われた連邦議会選挙で、西ドイツ首相から初代統一ドイツ首相まで5期にわたって16年間続いたヘルムート・コールが率いるCDUは敗北。ドイツ社会民主党(SPD)に政権を譲り、野に下った。その後、コールへの闇献金が発覚したのである。メルケルはドイツの有力な保守系の新聞である『フランクフルター・アルゲマイネ』紙(1999年12月22日付)へ寄稿し、「コールの手法は党に害を与えた」と批判、政界からの引退を求めた。野党にあるいまこそ、悪しき過去を自ら葬らなければ、党に未来はない――そう確信したのだろう。

 翌2000年4月にメルケルはCDU党首になるが、党内ではメルケルに損な役割を任せるという空気もあったようだ。46歳の女性党首はCDUのワンポイントリリーフ的な存在と見なされ、危機に陥っている党の困難な時を乗り越えたところで、経験のある男性政治家がメインとして表に立つという思惑があったのかもしれない。

 2005年に歴代最年少かつ女性初の首相になったときも目立たなさは変わらなかった。2大政党の一極であるSPDとの大連立政権は両者の主張が違い過ぎて長くは続かないと思われたのである。ところがメルケルはそこで抜群の調整力を発揮する。

 メルケルがCDUの党首になった2000年4月から3年間、在独日本大使館の専門調査員としてベルリンに滞在していたぼくは、メルケルは意外と長くもつのではないかと見ていた。というのも、東ドイツの一介の物理学者からいきなり政治家へと転じ、西ドイツの海千山千の男性政治家たちが集まるCDUのなかで地歩を固め、寵愛してくれた政治家に引導を渡す。そしてわずか15年で国のトップへ。とてつもないしたたかさがなければ実現できないことだと思ったからである。

大国の政治家にも臆せず

 メルケルは首相になっても、東ドイツ幼少時代から身につけてきた慎重さを保ち、大言壮語は決してしなかった。語り口は淡々と、美辞麗句とは無縁。バラク・オバマ元米国大統領はメルケルを、感情を表に出さないその外見はきまじめさや分析的な感性を物語っており、扇動的なものに嫌悪を抱く人物である――派手なジェスチャーで常に自分が物事の中心にいることに関心を向けるニコラ・サルコジ元フランス大大統領と比較して――と表していた。メルケルの方は、オバマの弁が立つゆえに不信感を抱いていたというが。

 メルケルは同盟国の首脳に対しても、相手がウラジーミル・プーチン・ロシア大統領、習近平・中国国家主席であっても、態度を変えることはなかった。自分とは真逆のドナルド・トランプ前米国大統領にも同様だった。

 東ドイツ市民として米国の自由と民主主義に憧れを抱いていた一方、同時にかつての社会主義国の人々の心情に理解を示すことも忘れない。だが、彼女が15年にわたり、欧州の大国を率いてこられたのは、ドイツの世論に敏感だったからだと思う。

 2011年3月11日に起こった東日本大震災の直後に脱原発を決断した背景には、チェルノブイリ原発の事故以降、ドイツ国民のなかで高まっていった原子力発電に対する不信感があった。福島原発のメルトダウンの報を聞いたメルケルは、従来の原発推進の立場を翻すことを厭わなかった。2015年8月にシリア難民100万人の受け入れを決断したのも、難民への同情が他の欧州諸国よりも大きい国民感情があってこそ、だ。メルケルが党首になってから保守のCDUが左派的になったといわれるのは、メルケルが国民の望んでいるものは何かを察知する能力に長けていたということだろう。

 それは、メルケルが国民を信頼している証でもある。彼女はできないことをできるとは決していわない。だから国民の多くも彼女を信じる。そうした土台の上に新型コロナウイルス感染拡大防止のため、国民にロックダウンを求めたメルケルの真摯な呼びかけがあった。

  自分の限界を知り、いまできることに尽力するメルケルの政治姿勢に、世界の多くの人々は民主主義の希望を見たのではないだろうか。

 (芳地隆之)