はじめに
ぼくは35年前の1988年秋にドイツ民主共和国(東ドイツ)へ留学し、1年後にベルリンの壁の崩壊、2年後にはドイツ統一に遭遇した。ひとつの国が消滅していく過程であった。それをあらためて振り返ると、いまの日本の空気と似たようなものを感じる。時代背景は違うし、政治・経済体制が異なるにもかかわらず、どうしてだろう? その理由を考えてみた。肌感覚を頼りにした考察ではあるが、多少なりとも未来を想像するヒントになればと思う。
実質的な一党独裁とあきらめの空気
当時の東ドイツでは、政権与党であるドイツ社会主義統一党(SED)が指導的な役割を果たすと憲法で規定されていた。ドイツ・キリスト教民主同盟(CDU)、ドイツ国家民主党(NPD)、ドイツ自由民主党(LDP)、ドイツ農民党(DBP)などが存在する複数政党制をとってはいるものの、選挙によって政権が変わることはない制度になっていた。したがって、国民の間に社会に対する不満があっても、選挙が世の中を変える手段とはみなされず、「仕方がない」という「あきらめ」の雰囲気がいたるところに漂っていた。「国民のテンションが低い」というのが、この国で生活を始めての第一印象だった。
多くの国では学生が変革への意思表示をすることもある。しかし、東ドイツの大学生には、デモなどを通して当局に申し立てを行うと、拘束されて学籍を剥奪されるかもしれないという恐れがあった。1989年6月9日、中国の学生によるデモを人民解放軍が蹴散らした「天安門事件」は、「反対すればこうなる」という教訓として受け止められた。
ただし、政治に対する関心が低かったわけでは決してない。表向きは静かであっても、プライベートな空間では直截な議論が交わされるという本音と建前が使い分けられていた。
衝突するのではなく逃げる
東ドイツ政府に対する異議申し立ては「闘争」ではなく、「逃走」によって行われた。1989年夏にハンガリーとオーストリア国境の鉄条網が撤去されると聞いた東ドイツ国民が大挙してオーストリア経由で西ドイツに亡命したのである。その日、ぼくは夏休みでハンガリーの首都、ブダペストを訪れていた。ハンガリーは東欧諸国のなかでも自由化が進んでいるとはいえ、現地のドイツ語新聞がそれを報じていることに驚いた。
その後、亡命の流れは在東欧諸国の西ドイツ大使館へ向かった。チェコスロバキア(当時)の首都プラハにある旧西ドイツ大使館の敷地はテント生活を送る東ドイツ国民で溢れかえり、現地に赴いた西ドイツ外相のハンス=ディートリヒ・ゲンシャーが「連邦共和国(西ドイツ)はあなた方を受け入れる」と宣言すると、大歓声が上がった。
対ソ関係の矛盾
東ドイツ政府の外交では、常に兄弟国・ソ連との同盟関係は不変とうたっていた。しかし、ミハイル・ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長の下で進められていたソ連の改革(ペレストロイカ)に倣おうとはしなかった。それは自分たちが権力を失うことを意味していたからである。面従腹背ということだろうか。しかし、19989年10月7日に開催された東ドイツ建国40周年の記念式典にて、同国を訪問したゴルバチョフは、エーリヒ・ホーネッカーSED書記長をはじめとする東ドイツ政府首脳の改革に対する後ろ向きな態度を「遅れてくる者は、人生で罰せられる」と批判。国内の民主化への機運が盛り上がった。
いわばソ連からお墨付きをもらったのである。戦後の東欧諸国の歴史で繰り返されたソ連軍の戦車による民主化運動の弾圧がないことがはっきりした。デモは一気に勢いづき、11月9日のベルリンの壁崩壊へつながる。
この間、ソ連と西ドイツの経済関係は順調に伸びていった(1970年代以降、西ドイツはソ連にとって西側最大の貿易相手国であった)。イデオロギー的に対立していたとはいえ、外貨収入の少なからぬ部分を西ドイツに頼っていたソ連は、国内改革を拒む東ドイツ当局を見切り、西ドイツを選んだのである。
新しいリーダーの登場
東ドイツ国内で民主化運動を主導したのは教会に集まる人々だった。社会主義国のなかで、ある程度の「治外法権」を認められた空間だった。ベルリンの壁崩壊の遠因となったのは東ドイツ第2の都市、ライプツィヒの聖ニコライ協会で毎週月曜日に行われていたミサの後のデモ(月曜デモ)である。月曜デモへの参加者は増えていき、それを私服のシュタージ(国家保安省)の人間が妨害するという小競り合いが続いていた。月曜デモに対してホーネッカーは東ドイツ人民軍の介入を指示したといわれる。しかし、側近はそれを拒んだ。ホーネッカーはすでに影響力を失っており、東ドイツにおける「天安門事件」は回避された。
国内の民主化運動を担ったリーダーたちは1990年3月に行われた東ドイツ初の自由選挙で新政権の中枢のポジションを得た。ところがドイツ統一が具体的なタイムテーブルに上がると、西ドイツの老練な政治家たちによって表舞台から排除されていった。これまで在野で活動し、政権を握った経験もないのだから仕方なかった。
旧東ドイツ出身で政界の足場を固めていった唯一の例外といっていいのがアンゲラ・メルケルだった。東ドイツでの民主化運動に加わることなく、静かな学究生活を送っていた彼女は、ベルリンの壁の崩壊を見て、政界にチャンスを見出した。東ドイツ社会での「本音と建て前」を身につけた彼女は慎重な姿勢を崩すことはなく、周囲の動きをじっくりと観察した上で決断、行動を起こしていった。
旧東ドイツ民主運動家でドイツ政府の要職を得た政治家には、1998~2015年にドイツ連邦議会議長を務めたヴォルフガング・ティールゼ(ドイツ社会民主党所属)、2012~2017年にドイツ連邦大統領を務めたヨアヒム・ガウク(かつての東ドイツの政党「同盟90」〈後の同盟90・緑の党〉所属。後に離党)がいるが、旧東ドイツ出身かつ女性というハンディキャップがありながら、政治家になってわずか15年で首相に上り詰めるというメルケルのキャリアは稀である。
安全な国
ぼくは東ドイツの人々の素朴で真面目なところが好きだった。旧チェコスロバキアを出国する際に国境検査官から理由もなくカメラのフィルムを引き出されたり、ルーマニアへの入国の際に外貨の支払いをぼくが拒否したとして(ぼくがビザをもっているにもかかわらず)、対ブルガリア国境駅で強制的に下車させられたり、東ヨーロッパを列車で旅行するとたいていトラブルに見舞われたが、東ドイツではそういう経験は一切なかった。だから東ドイツ内に入るとほっとした。日本と同様、ルールを守る国という信頼感があった。
歴史認識
東ドイツは自らを「ナチスドイツと戦い勝利した国」と位置づけていた。したがって、ホロコーストの歴史を学ぶことはあっても、それは「ナチスがしたこと」であって、自分たちは違うという姿勢が垣間見えることがあった。東ドイツ建国時の首脳部の多くはソ連に亡命しており、戦後に東ドイツに送られた。彼らは過去を反省するというよりも、ファシズムに打ち勝ったという意識があり、なおかつスターリンの統治下にいたことから国内の反対勢力に対して容赦はしなかった。ベルリンの壁崩壊後の東ドイツでネオナチが活発化した理由には、ナチスの過去を自分事として学ぶ部分が弱かったことが挙げられるのではないだろうか。
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ドイツ統一を機に解散したのを機に日本DDR経済委員会が発行した書籍。実に多彩な交流がなされていたことがわかる。