協議、熟慮、そして決断
10月22日、アンゲラ・メルケル首相はブリュッセルで開かれた欧州理事会に出席した。2015年にドイツの首相に就任して以来、107回目になると(非公式に)言われている。今回がおそらく最後の出席となるであろう彼女は、各国の首脳らから総立ちの拍手を受けた。同理事会議長を務めるベルギーのシャルル・ミシェルはメルケルのいない理事会を「バチカンのないローマ、エッフェル塔のないパリのようなもの」と表現。最大級の称賛である。
多くの首脳に惜しまれて政治家を引退するメルケルの統治手法は「妥協の芸術」と呼ばれた。妥協は馬鹿にされるところもある。それは脆いものだ。しかし、妥協する姿勢をもたなければ、私たちは交渉能力も失う――がメルケルの考えである。「“もうたくさん”という投げやりな態度は、私の手法ではありません。協議し、熟考し、そして決断する、が私の原則です」という(”ARD Tagesschau”23.10.2021)。
各国の利害がぶつかる欧州議会では夜を徹した議論も厭わなかったメルケルは、欧州各国間の合意形成に貢献してきた。最近では国内における強権姿勢を強めるポーランドに対して、EU加盟国の一部が、ポーランドは「EU法が加盟国の法律に優先される」とするEUの原則に反するとして、同国に対する制裁手続きを求めたが、メルケルは「政治的対話」を続けることを主張。EUもその方針を認めている。
ドイツ統一を可能にしたもの
「機が熟するのを待つ」、「機を見るに敏」は、メルケルの政治手法の特徴だろう。旧東ドイツで民主化運動に携わることはなかったものの、ベルリンの壁が崩壊した後の変化を見極め政治の世界へ入ってからの動きは早かった、そのキャリアに通じるものがある。
そのドイツ統一の礎は誰が築いたかといえば、かつての西ドイツの首相、ヴィリー・ブラントである。
1913年、北ドイツ・リューベック生まれ。1933年4月、ヒトラー政権を嫌い、ノルウェーに亡命し、その時以来、本名のヘルベルト・フラームからジャーナリスト「ヴィリー・ブラント」を名乗った。
ブラントの政治姿勢を決定的にしたのは1937年に目撃したスペイン内戦だった。ノルウェー労働党から現地からの報告を任務として受け、オスロからバルセロナに向かった24歳の若きブラントが見たのは、スペイン共和制に反旗を翻したフランコ将軍率いる反共和国軍に対して武器を取った義勇兵たちを粛清するコミュニストたちの姿だった。それはどういうことか。義勇兵らがフランコ軍を倒すことになれば、新しい体制の主役は彼らになってしまう。ソ連の息のかかったコミュニストたちがそれを阻止しようとしたのである(ジョージ・オーウェル著、都築忠七訳『カタロニア讃歌』岩波文庫より)。
一方、ナチス・ドイツはフランコを支持し、ドイツ空軍、コンドル部隊を派遣してゲルニカを無差別爆撃した(ピカソの大作『ゲルニカ』はこの悲劇によって生まれている)。ソ連の共産主義とドイツの国家社会主義という2つの全体主義に対する嫌悪がブラントのなかで確固たるものになった。
しかし、戦後、ドイツに戻り、東西冷戦時代に政治家となったブラントは、東側共産圏に対して敵対的な態度をとるだけでは現状は何も変わらないと考えるようになった。それを決定づけたのは、彼が西ベルリン市長であった1961年に東ドイツによって建てられたベルリンの壁である。
ブラントは東西冷戦の緩和のために「東方政策」を展開した。それは「東ドイツと国交をもつ国とは外交関係を結ばない」という従来の西ドイツ政府の方針を変え、東ドイツを国家として認めるものである。彼の東方政策は同盟国である米国に警戒心を抱かせるものだった。西ベルリン市長である自分の目の前で壁が建てられたのにどうしてだ、と。彼の東側接近は、西側同盟国から裏切りとも受け取られかねなかったが、ベルリンの壁構築の翌年10月、ブラントは米国ハーヴァード大学で、「自分は共産主義に何の不安ももっていない」と述べている。「自分が強くて安全だと思っている人間であれば、壁の背後に立てこもろうとはしない」からだ。ベルリンの壁は、それを建てた側の弱さの象徴であることをブラントは見抜いていた(グレゴーア・ショレゲン著、岡田浩平訳『ヴィリー・ブラントの生涯』三元社より)。
1969年10月に戦後西ドイツ初のSPD(ドイツ社会民主党)政権を率いることになったブラントは、モスクワでレオニード・ブレジネフ・ソ連共産党書記長との間で武力不可侵条約を締結する。そして1970年の暮れ、ポーランドを訪問して、ワルシャワ条約に署名した。この条約は、第二次世界大戦後、ドイツの対ポーランドの国境がオーデル・ナイセ川まで移されたことを承認するものだ(オーデル・ナイセ川はポーランドと東ドイツの国境だった)。これは戦争でドイツが失った領土を譲渡することを意味し、西ドイツ国内での不満の声も小さくなかったが、ブラントはポーランドの「ドイツが再び攻め入ってくるのではないか」という不安を解消させることを優先する。
同条約の締結後、彼はワルシャワ市内にあるワルシャワ・ゲットー英雄記念碑を訪れた。ワルシャワ・ゲットーでは1943年4月19日から5月16日にかけて閉じ込められていたユダヤ系住民が蜂起するも、ナチス親衛隊(SS)によって鎮圧。その場で殺害もしくはポーランド国内の強制収容所に送られた。この記念碑はユダヤ人レジスタンスの勇気を称えるものである。そこでブラントは事前の予告もなく、おもむろに歩を進めてひざまずき、頭を垂れたのである。
加害の歴史を克服し、東西対立を緩和しようとする一人の政治家の象徴的な写真が世界に配信された。
よきフォロワーたる政治家
東西冷戦の緊張緩和をきっかけをつくったのがブラントだとすれば、それを具体的に進めたのは後継者である同じくSPDのヘルムート・シュミットだ。彼の在任中は、ソ連による欧州を標的とした中距離核ミサイルの配備に対抗するため西ドイツにも同様のミサイルを持ち込むNATOの決定を甘受せざるをえない(後に米ソは中距離核戦力の破棄を決定)、あるいはアフガニスタン侵攻に対する抗議から1980年のモスクワ五輪を米国とともにボイコットするといった決断をせざるをえない、といった状況に置かれながら、同時に東側とのパイプを保持する難しいかじ取りを強いられた。
シュミットの後、CDU(キリスト教民主同盟)政権として返り咲いたヘルムート・コールは当初、SPD政権の東方外交に批判的だった。ブラントによるワルシャワ条約の締結ならびに記念碑での態度に対しても国益に反すると厳しい発言もしていた。
しかし、実際にはSPDの敷いた外交路線を踏襲する。それだけでなく長年の確執のあったフランスとの和解をフランソワ・ミッテラン大統領との間で実現。ソ連におけるミハイル・ゴルバチョフの登場によって始まったペレストロイカを支援するために経済支援を行ったのである。
ベルリンの壁が崩壊したのはゴルバチョフが東ドイツ政権を見捨て、西ドイツ政権を選んだことの結果ともいえる。西ドイツのソ連東欧諸国との信頼関係を築いていく努力は、東西ドイツ統一を経て、さらには欧州連合(EU)の東方拡大へと結びついたのである。
アンゲラ・メルケルの外交姿勢は、ブラントやシュミットの東方政策に批判的だったものの、国際情勢を鑑みて路線を踏襲していったコールのそれに近いのではないか。彼女は親米の政治家ではあったが、ロシア、中国に対する外交では経済関係と人権問題のバランスを常に図ってきた。何かの理念を掲げて状況を変えていくというよりも、現状の流れを敏感に察知し、舵取りをするタイプだからである。
メルケル政権が16年の長期に渡って続いたのは、ドイツ経済、とりわけ自動車産業を中心とした製造業が好調だったこともあるが、それはコール政権後に誕生したSPD主導のゲアハルト・シュレーダー政権が取り組んだ構造改革の成果でもあり、経済政策で前任者の敷いたレールに乗ったところは、コールが東方政策を継承した姿勢とよく似ている。
よいものはどんどん取り入れていくリアリスト。リーダーシップとは自らが旗を振って国民を率いるだけではない。内外の情勢を踏まえ、人々の要望をくみ取り、後ろからついていく。優れたフォロワーも重要な要件であり、メルケルはなによりもそれを備えた政治家であった。
(芳地隆之)
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『ヴィリー・ブラントの生涯』
(グレゴーア・ショレゲン著、岡田浩平訳/三元社)
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