第4回:東アジア平和のためのイニシアチブを誰が担うか(芳地隆之)

東ドイツ国立図書館にて

 1988年秋から約1年間、北朝鮮の留学生、チェンさんとはときどき東ドイツ国立図書館のアジア・アフリカ室で会っていた。

 そこには約1カ月遅れで朝日新聞が届いた。インターネットがなかった時代。国際電話も満足につながらない東ドイツにおいて、日本に関する貴重な情報源だ。人気はほとんどなく、薄暗い、古本屋さんのなかに長いテーブルが置いてあるような空間で、ぼくは定期的に朝日新聞をまとめ読みしていた。そこで居合わせた彼が日本語で話しかけてきたのである。当時、彼は29歳、ぼくは26歳。

 「ぼくね、ほんとはドイツ語どうでもいいの。もっと日本語を勉強したい。それと(大学で専攻している)数学よりも経済ね。韓国の経済すごく興味がある。日本のもね。でもこの国には韓国の情報ないでしょ。だから日本の新聞読むの」

 柔らかい響きの日本語だった。聞けば、平壌で学んだという。彼は自分の出自を多く語ろうとはしなかったが、東ドイツに留学できるということはエリートなのだろう。

 「でもぼくは髪の毛が薄いし、だから女の子にモテないね」なんて冗談をいう茶目っ気もある人だった。

 東ドイツでは、「コリア」といえば北朝鮮、韓国は「ズュート(南)コレア」と呼ばれており、北朝鮮に対しては、ほとんどが好意的な内容で、韓国は軍事独裁国家という扱いだった。チェンさんは、韓国の全斗煥独裁政権後の民主化宣言(1987年6月)、同国初の夏のソウルオリンピックの開催(1988年9月~10月)後の韓国の行方に関心をもっていた。

 アジア・アフリカ室でぼくらが何をやっていたかというと、朝日新聞に掲載されている韓国の記事を読むチェンさんの「〇〇っていう日本語はどういう意味ですか?」という質問に、ぼくがドイツ語で説明する、あるいは内容を解説するという作業だ。全斗煥が、1980年に起こった光州事件(民主化運動を行う市民に対して軍が発砲。200人近い犠牲者を出した)など過去の独裁政治に対する公開謝罪文を発表(1988年11月)、あるいは林さんという韓国の女子大生が、前年のソウル五輪に対抗する形で北朝鮮が開催した平壌世界青年平和祭(1989年7月開催)に参加といった記事はじっくりと、社会主義国のなかでハンガリーが初めて韓国と国交を樹立(1989年2月)のニュースは興奮しながら読んだ。

 チェンさんはいつもこう言っていた。

 「ぜったい朝鮮半島は統一されなければならない」

 それに対して、ぼくは、

 「韓国が金日成の主体思想を受け入れることはないだろう」

 主体(チュチェ)思想とは北朝鮮ならびに朝鮮労働党による金日成の独裁を正当化する政治思想である。北朝鮮のエリートであるチェンさんにこんなふうに言ったら、怒るかもしれないなと思ったが、彼は 「それが問題ね」と苦笑いした。

外では互いに話しかけない

 ぼくらは基本、日本語で会話をしていた。それで会話が通じないとき、ぼくがドイツ語に切り替えようとすると、チェンさんは嫌がった。周りで誰が聞いているかわからない(アジア・アフリカ室はほとんど人がいなかったが)。もし自分が日本人と朝鮮半島の問題を議論していることが在東ドイツ北朝鮮大使館に知られたら――彼は不安だった。だから大学内のキャンパスですれ違ってもぼくらは挨拶をしなかった。言葉を交わすのはややかび臭い図書館の一室でだけだった。

 「きみ、ぼくがしゃべったこと他人にはぜったい言わないでね」

 図書館で別れる際、チェンさんは必ずぼくに念を押した。

 「わかった」とぼくも返事をしてその場で離れた。

 ベルリンの壁が崩壊して10日ほど経ったとき、チェンさんは少し興奮していた。

 「東西ドイツがこうなれば、朝鮮だって変わるでしょ」
 「うん、でも簡単ではないと思う。ベルリンの壁はまがりなりにも通行が可能だったけれど、(朝鮮半島の)38度線は軍事境界線だからね、でも……」
 「でも?」
 「金日成主席も開放政策をとらざるをえないのではないか。韓国は最近のポーランド、ユーゴスラビアに続いて、いずれソ連とも国交を結ぶだろう。中国とも時間の問題だと思うし」
 「どう開放していくと思う?」
 「どうだろう? 遅くとも息子の金正日が引き継ぐ前じゃないかな」
 「きみ、本当にそう思うね。ぼくも開放に賛成なのね」

 がんばらなくっちゃね――その日、チェンさんはそう言って図書館内で別れた。「ぼくがしゃべったこと他人にはぜったい言わないでね」とは言わなかった。

 それからぼくらは会うことなかった。北朝鮮の学生は全員強制的に帰国させられることになったからだ。

 同じ学生寮に住んでいた北朝鮮の留学生のツォーはこれまでぼくに話しかけることはなかった。ぼくもチェンさんとのことがあったので、こちらから声をかけることは控えていたのだが、共有のキッチンでばったり会ったとき、「きみら国に帰るの?」と聞いてみた。

 「ああ」
 「全員?」
 「うん」

 ツォーは力なく答えた。

 「でも来年夏には卒業できる学生もいるだろ。せめて卒業間近な学生だけは滞在を半年間延ばしてくれと要求できないの」
 「無理だね、そんなことしたらこれだよ」

 彼は指でピストルの形をつくって自分のこめかみに当てて言った。

 「残念だけどね」

日本のプレゼンスを挽回するために

 32年前の今頃のことである。それ以降、朝鮮半島の情勢がどのように推移していったかを振り返ると、東西ドイツが実現したような統一がかの地で実現するとはとても思えない。いわゆる金王朝が絶大なる権力を漸進的に手放すことは想像しがたく、仮にベルリンの壁崩壊時の東ドイツ政府のように、北朝鮮政府が統制力を失うとしたら、北朝鮮は国家として瓦解し、国民は経済難民となった韓国へ殺到するかもしれない。韓国に受け入れるだけのキャパシティがなく、むしろ従来の軍事境界線で人の流れを止めようとするのではないか。

 朝鮮半島の統一によって東アジアの勢力図が変化することへの周辺国の警戒心も強いだろう。このエリアにはソ連のゴルバチョフも、米国のレーガンもいない。何よりドイツ統一の原動力であった自由と民主主義の理念がこの30年間で輝きを失いつつある。中国の権威主義の台頭がそれをもっともよく表している。衣食住が事足りて、ある程度の消費生活が保証されれば、国民は自由がある程度制限されても仕方がないと考えるモデルが世界に浸透しつつある。

 そうした状況で、それでも自由と民主主義の価値をもって、前回、記した冷戦時代における西ドイツの東方政策のような緊張緩和の外交を担えるのは日本だと考える。

 2021年9月の国連総会において、韓国の文在寅大統領は一般討論演説で、北朝鮮との信頼醸成措置として休戦状態の朝鮮戦争の終戦宣言を提案した。それに対して北朝鮮は「時期尚早」との談話を発表したが、同国は2018年の米朝協議において、北朝鮮の非核化の条件として、米国に終戦宣言を求めたことがある。戦争状態でなくなれば、米国は軍事力を使いにくくなり、北朝鮮の体制が守られると考えたからだ。

 しかし、10月にワシントンで開かれた日米韓3カ国の高官協議で、日本は終戦宣言を「時期尚早」として難色を示した(米国は態度を留保)。「北朝鮮がミサイル実験を繰り返し、核兵器開発と日本人拉致問題で解決への道筋が見えないなか、岸田政権は融和ムードだけが拡大することを警戒した」と報道されているが、むしろ拉致問題を解決するためにこそ終戦は必要なのではないか。朝鮮半島が分断された原因を考えれば、日本は東アジア版「東方政策」を展開する責務もある。

 世界におけるプレゼンスが低下し続けている日本にとって挽回のチャンスと考えるのだが。

(芳地隆之)