いま、改めて憲法を考える

 先月末の衆院選以降、「改憲に向けた論議の加速化」を主張する声が目立っています。
 選挙結果を受け、維新の会の松井代表は「来年の参院選挙までに改正案を固め、参院選と同時に国民投票を実施すべきだ」と発言。岸田首相も「党是である憲法改正に向け、精力的に取り組んでいく」と明言した他、11月19日には、自民党憲法改正推進本部が同「実現本部」に改称されることも伝えられました。
 もちろん、「憲法を変えようとする」こと自体は、否定されるべきではないでしょう。しかし「何のために、どの条文をどんなふうに変える必要があるのか」を語らず、「変える」ことそのものが目的であるかのような「憲法論議」は、あまりにもおかしいと感じます。同時に、「憲法に緊急事態条項がなかったから十分なコロナ対応ができなかった」など、事実に基づかない主張がまことしやかに語られていることにも、危機感を抱かずにはいられません。

 憲法は何のために存在するのか、それによってどのような権利が守られているのか──。「憲法論議を」というのであれば、まずは憲法の意味や役割について十分に知り、それに基づいて話をすることが必要ではないでしょうか。
 そこで「マガジン9」では、今後も新たなコンテンツを追加していくとともに、これまで掲載してきた、「憲法」に直接関わるコンテンツを、不定期で紹介していきます。掲載から時間が経ち、状況や関連する法律の内容は違ってきている場合もありますが、本質的には変わらない部分もたくさん。そこから学び、考えていきたいと思っています。まずは憲法の根幹ともいえる「立憲主義」についてのコラムを──。

司法試験塾・伊藤塾を主宰する「憲法の伝道師」「伊藤塾長」こと伊藤真さんによるコラム「けんぽう手習い塾」。その第3回では、立憲主義について解説いただきました。2005年(なんと、マガ9が始まった年です)の公開と、かなり前のものではあるのですが、今読んでもとても重要なことが書かれていると思います。憲法が、何のためにあるものなのか。なぜ憲法という「歯止め」が必要なのか。それを理解するだけでも、今の「改憲論議」を見る目は、大きく変わってくるのではないかと思います。

2005年12月7日UP
伊藤真のけんぽう手習い塾 第三回
「立憲主義って何だろう?」

憲法の目的は、国民の多数派に歯止めをかけて、少数派の人権を保障すること

 先日、中学の公民の教科書を見る機会がありました。そこには憲法は最高法規だと書いてありました。その通りなのですが、この言葉がやたらと強調されている点がすごく気になりました。ヘタをすると、中学生は「憲法は私たち国民が守らなければならない最高の法律だ」と勘違いしてしまわないだろうか。「民法、刑法、商法などの多くの法律の親分だ」くらいに思ってしまわないだろうかと、とても心配になりました。かつての自分がそうであったように。

 憲法は国民が守るべき法ではありません。国民が国家に守らせるべき法です。国家が国民の人権を不当に侵害してトンデモナイことをやらかさないように、予め歯止めをかけておくのです。

 つまり、憲法は国家権力に歯止めをかけて、個人の人権を保障するものです。そして、ここでいう国家権力は、民主主義の国であれば、国民の多数派によって創り出されたものです。したがって、国民の多数派に歯止めをかけて、少数派の人権を保障することが憲法の目的だということになります。

 ですが、民主国家の憲法であれば、その憲法自体は国民の多数派が作ったものです。

 そうすると、多数派がつくった憲法によって少数派を守るという奇妙なことが起こります。そもそもそんなことができるのか疑問となります。多数派は自分たちの利益のために憲法を作ったのですから、そこで自分とは関係ない少数派の権利を守ろうとはしない可能性があるからです。

 多数派の人たちが常に多数派でいられるのならその危険もあるでしょう。ですが、ここでの多数派、少数派はいつでも入れ替わる可能性があります。私も今は元気に生活できるという点では多数派ですが、いつ交通事故で車いすが必要な少数派になるかもしれません。また、ある場面では多数派であっても別の場面では少数派ということもあるのです。たとえば日本国籍保持者としてこの国では多数派であっても、ある宗教を信仰しているという点では少数派だという人はいるでしょう。このように多数派と少数派は固定したものではなく、誰もがその両面をもっているのです。

多数決で決めてはいけないこともある

 そこで人類は理性によって、多数派の考えを押しつけてはいけない事柄を見つけだします。多数決によってもやってはいけないことがあることを見つけだしたのです。

 たとえ少数の人にとって意味があるだけで、多数派の人には不愉快なことであっても、それを多数派の人が奪ってはいけない事柄があると考えたのです。

 物事にはあくまでも個人の自由に任せるべきで、人からとやかく言われるべきではない事柄があります。特にその人が心から大切だと思っている事柄については、人からとやかくいわれたくないものです。

 たとえ、そのことが間違っていると人から指摘されたとしても、自分は正しいと信じているのですから、こっちが絶対に正しいと言われてもどうも腑に落ちない。言い換えれば、本当に正しいのはどちらか判断ができない問題については、他人から押しつけられても納得できないのです。結局は自分が信じているかどうか、自分の世界観、人生観にかかわってくるからです。

 そうした問題は、他人がいくら多数決の結論だからといってきても、それが正しいことだと受け入れることはできません。実際、多数決による結果が正しいということは論証不可能です。そもそも個人が自分自身で判断するべき領域の問題については、多数決によってその善し悪しを決めることができないのです。

 一人ひとりが自分の価値観で決めるしかない事柄に関して、多数決を基本にした民主主義のルールで決めようとすると、どうしてもひずみがでます。本来、決めてはいけないことを多数決で決めようとしているのですから、無理がでます。その多数決の結果に承伏できない人にとってみれば、自分の価値を否定されたわけですから、自分自身を否定されたように感じることもあるでしょう。その結果、大きな憤りを持ち、民主主義の決定過程自体に対して敵意をもつことになります。ときに暴力に訴えて、自分の価値を守ろうとするかもしれません。

 そうした争いをさけるためには、多数決で決めてはいけないこと、多数決でやってはいけないことを予め確定しておくことが必要です。それが憲法なのです。そして、このように多数決に歯止めをかけることによって、ひとり一人が自分で決めるべきことがらの領域を確保することが憲法に基づく政治の根幹になります。そのような政治を立憲主義といいます。

憲法は、個人の価値観、人の心の領域を守るためにある

 多数決によっても奪ってはならない価値、多数決によっても入り込んではいけない領域が個人の良心や宗教であり、個人の価値観であり、一人ひとりの生き方です。憲法はこうした私的領域を守るためにあるといってもよいでしょう。

 国家権力が多数意思を背景に、特定の宗教を押しつけようとしてきたり、愛国心という言葉で特定の価値観を押しつけようとしてきたときに、本当に自分の心に忠実な人は、その多数決に従うことができません。そして、その「民主的」な決定に異議を唱えるために、その決定を強制する共同体から離脱するか、その共同体を破壊するしかなくなります。それでは社会が成り立ちません。

 ですから、こうした分野の問題にはそもそも国は口をださないと決めておく必要があるのです。政府が靖国神社を特別扱いしたり、教育基本法などで愛国心を強制したりすることは、単に憲法を無視した態度として許せないだけでなく、多様な価値観の併存を認める社会そのものの破壊につながってしまうのです。ましてや憲法で国民に愛国心を強いたりすることは、社会の自滅行為です。

 私たちは、平和で安全な社会を望みます。人々と共存できる社会を望みます。人間は誰もが一人では生きていけません。多くの人と共存していくには、誰もが心安く生きていける社会を築くように努力しなければなりません。誰もが心の中の問題についてとやかく言われず、自分の価値観、世界観、人生観を大切にして生きていくことができる社会を目指さなければなりません。多数決によってやってもいいことと悪いことを、憲法によってしっかりと区別できる社会を作っていかなければならないのです。

いとう・まこと
1958年生まれ。81年東京大学在学中に司法試験合格。95年「伊藤真の司法試験塾」を開設。現在は塾長として、受験指導を幅広く展開するほか、各地の自治体・企業・市民団体などの研修・講演に奔走している。近著に『高校生からわかる日本国憲法の論点』(トランスビュー)。法学館憲法研究所所長。法学館のホームページはこちら

※プロフィールは初出当時