第8回:【最終回】フリージアけっこうむずかしい平凡(牧内麻衣)

東日本大震災と原発事故から11年が過ぎた福島。今も課題は山積していますが、世の中の関心が薄れ、記憶の風化が進んでいることは否めません。悲惨な原発事故を経験した俳人で高校教員の中村晋さんは、事故後から現在に至るまで、福島の高校生たちと俳句を通じて語り合い、「命そのものの尊さ」を実感できる社会を取り戻そうとしています。そんな中村さんの句を取り上げ、お話を伺うことで、もう一度震災と原発事故をみつめ直し、今の社会について一緒に考えていく短期連載です。今回で連載最終回となりますが、「番外編」を次回お届け予定です!

日常の何気ない瞬間

ウネラ 句集のタイトルにも入っている「平凡」や日常をテーマにお話を伺いたいと思います。中村さんは日常や暮らしを慈しむ素敵な句をたくさん詠まれていますね。まずはお子さんのことを詠まれた句を。

木苺受く子の手のひらは宝石箱

中村 この句を選ばれましたか。

ウネラ やわらかくきらきらしたイメージで、「苺」でなく「木苺」であるところがとても気に入っています。初期句もしくは3・11以前の作品かと思いきや、比較的最近の句なのですよね。

中村 かなり鋭いところをついてきましたね。あまり指摘されたくない質問というか。
 この句ができたのは2019年夏じゃなかったかな。地元の新聞社からの依頼で、記者とともに福島県内のウォーキングコース「新・奥の細道」を歩き、俳句を詠んで、そのコースを紹介するという企画に、約2年にわたり参加していました。そのときのあるコースの途中に木苺がたくさん実っている場所があって、歩きながら実を摘んで食べたのがこの句の素材になっています。新聞に出した元の句は、この句とは違う句でした。その後句集をまとめるに当たって、この句を採用したいと思ったのですが、どうもそのままだとインパクトに欠けるなあと感じて、こんな形になりました。

ウネラ そんな経緯があったのですね。

中村 「子の手のひら」と、小さい子どもの手を連想させるように改変したのです。2019年作の句ですが、自分の中のイメージとしては、震災前、自分の子どもが小さかった頃のことを思って作りました。近くの山道に、木苺や桑の実がなっているところがあって、震災前はそのあたりを子どもと散歩しながら実を摘んで一緒に食べたものでした。木苺を子どもの手のひらが受けるという絵は、なんだか可愛らしいし、いとしいものです。
 つまりこの句は、最近の出来事と過去の記憶とを混ぜ合わせて作ったものです。震災後は子どもと近くを散歩することもなくなりましたし、今となっては除染作業で山道にあった木苺の木も刈られてしまいました。すでに子どもも高校生になり、木苺ごときに喜ぶような年齢じゃないので、なんとなく失われたものを追想したくなったのでしょうね。
 親からしてみると、子どもとの濃密な時間は、あっという間に過ぎて行ってしまうものです。また震災でそういう時間をもぎ取られてしまったという思いもあります。一抹の寂しさを抱きながら、かつてのかけがえのない時間を思い出して作った句です。「宝石箱」なんていうのはいささか甘いんじゃないかな、という気はしますけどね。
 子どものことを詠んだ句で、自分としてわりあい気に入っているのはこの句なのですが、どう読まれますか。

吾子に誰が与えし笑窪(えくぼ)かたばみ咲く

ウネラ かたばみのさりげなさが良いですね。深い愛情の実感、その確かさが伝わってきます。うまく言えないのですが、ここではお子さんの存在を通じて、お子さんのみならず、あらゆる命が祝福されている印象を受けました。「誰が与えし」にそんなニュアンスを感じるのかもしれません。こうした日常の何気ない瞬間を、いかに大事にしていけるかが、問われているような気がします。

夜学

ウネラ 中村さんは教員として、定時制で長く教えてこられました。定時制で学ぶ生徒たち(夜学生)との時間も、中村さんにとってかけがえのないものでしょうね。

中村 はい。夜学の生徒を詠んだ句も、句集にまとめて収めています。
 実は、「夜学」って季語なんですよ。秋の季語です。勤労学生のイメージから、秋に区別されるんでしょうか。私などは、年中そこで働いていますから、なんでこれが季語なんだろう、なぜ「秋」なのかと首をかしげてしまいます。いかに季語が恣意的なものか、ということですね。ですから、私は「夜学」が季語だと知ってはいますが、それを季語だと思って使ってはいません。
 また、今の夜学(夜間定時制高校)は、勤労学生ばかりが入学しているわけではありません。中学時代に不登校だった生徒がゆっくりと学び直すための場にもなっています。いや、学び直すのは勉強だけではありません。人間関係であったり、あるいは社会への信頼であったり、多様なものを時間をかけて取り戻す貴重な場になっています。ですから当然多様な生徒が入学し、私たちにさまざまな問題を投げかけてきます。季語としての「夜学」ではとらえきれない現実があるんです。

ウネラ なるほど。私が印象的だった句はこちらです。

夜学子のことばの礫(つぶて)飢えているな

中村 「ことばの礫」の部分を具体的にイメージしてもらえればありがたいです。「原発なんか全部爆発すればいいんだ」――あの言葉は強烈な「礫」ですが、それ以外にもなかなかの「礫」が飛んできますよ。まともに受けるとかなり傷つくようなものもあります。しかし、生徒たちがそういう言葉を発する時というのは、実際に空腹であったり、あるいは何か満たされない気持ちを抱いていたりすることが多いです。「ああ、この子も飢えているんだなあ」と思うことが多いのです。そしていったいこの子たちを飢えさせている原因は何なんだろうと思ってしまいます。
 経済的な問題だけでなく、精神的な面でも、日本の子どもたちは自己肯定感が弱いなどとも聞きます。「ことばの礫」とは、大人に対する子どもからの強烈な問いかけなんじゃないかなとも思いますね。正直、こういう「礫」がぶつけられると私なんかもけっこうへこみますよ。
 初期に「夜学生鋭角で飢え月に耐え」なんて句も作っています。夜学シリーズでは、「夜学の参観あいつの父が仕事着で」とか「夜学子離郷す日本語拙き母喚き」などが個人的には気に入っています。社会性があるし、疾走するような韻律が、若い時期にしか作れないものだな感じます。当時の自分を労わりたい気もしてきます。こういう句など、どう読みますか?

ウネラ 「鋭角で飢え」といった表現は、実感がないと出ないんじゃないでしょうか。ヒリヒリしたものがリズムにのって伝わってきます。夜学の参観、夜学子離郷す、目の前にバッとその光景が浮かび、その背景にある文脈についても、しみじみ思わされます。切迫感のある作品です。けれど「作品」として遠くから眺める態度ではいたくないなとも感じました。俳句を通じ現実を受け止め、社会のひとりとしてどうコミットしていけるのかを考えていかなければと思っています。

日常-むずかしい平凡
初ひばりさりさりさりと田の目覚め

ウネラ さりさりさりという音が新鮮です。「日常」を美しく切り取った一句だと感じました。

中村 今年初めてのひばりの声が聞こえたなあ。そして、さりさりさりと田が目覚めているぞ。という句ですね。ただし、「さりさりさり」と田が目覚めるとの表現は、果たして読者にわかってもらえるだろうか。そのあたり作者としては不安を抱くのですが、ウネラさんはこの「さりさりさり」を、具体的にどんな景とつなげてとらえましたか。

ウネラ 風かなあ、川の水の音かなあ、などと想像をめぐらせていたのですが……。

中村 この句は種明かしをしたくはなかったのですが、せっかく採りあげてもらったので明かしちゃいます。
 この句ができたのは、まだ寒さが残る早春の朝のことでした。子どもがまだ生まれて間もないころでした。この子がなかなか寝つかない子でして(笑)。ずっと抱っこしてあげないと全然寝てくれない。ですから妻と交代で寝かしつけをしたものです。
 その日は朝から天気が良かったので、抱っこしながら近くを散歩しようと思って出かけました。その年初めて聞くひばりの声に、春が来たなあと思いましたね。すると近くの田んぼからかすかな音で「さりさりさり」と聞こえてくるんです。よくみると、その前の晩に田に張った薄氷が、朝の太陽の光で溶けだしていたんですね。その溶ける音が「さりさりさり」と聞こえていたんです。春まだ浅く、眠っているように見える田んぼでしたが、こうしてかすかに目覚めているんだな、田んぼも生きているんだと感じたことがこの句につながったのだと思います。
 また、子どもを抱っこしながらこの句が生まれたことも思い出深いです。抱いていた赤ん坊の体温もまだ生々しく残っていますから。「目覚め」という言葉が出てきたのは、寝ても覚めても子どもと日常をともにしていたことがあったからかもしれません。

ウネラ 薄氷とは! 思い及びませんでした。生活に根差した句だったのですね。こんな瑞々しい日常が一瞬にして奪われた3・11の恐ろしさが際立ちます。

中村 ご指摘のように、3・11以降、その田んぼも埋め立てられ、駐車場になったり宅地になったりしました。この田は、もうこの句の中にしか存在していないのですね。ウネラさんが読まれるように、かつて普通に存在していた震災以前の「日常」を読んでもらうことで、それが今は失われつつあるということを感じてもらえたのは、作者としてはとてもうれしいです。句集の構成を、逆年代順にしたのもそこが狙いでした。

幸せの質量聖夜の珈琲豆

ウネラ 私自身は丁寧な暮らしができないので(苦笑)、豆を挽く時間も慈しみながら珈琲をゆっくり淹れられる人を素敵だと思います。そういう暮らし方、生き方は自他への思いやりにもつながるような気がしているのですが、どうでしょうか。

中村 この句、珈琲がただ単に好きだって言ってるだけの句です(笑)。私は、お酒が全然飲めなくて、飲み会に参加するのがどうも苦手なんです。人としゃべるのは嫌いではないんですが、お酒そのものは飲めないので、じゅうぶんに楽しみ切れないんですね。ですから、コロナ禍になって飲み会がまったくなくなっても、私の場合全然困らなかったです。だからだと思いますが、お酒の句ってほとんどないです。でも、珈琲は大好きなのでこうして句になるんですね。
 この句、クリスマスの夜の珈琲豆をじっと見ながら、作者は「幸せの質量」について考えているわけですが、幸せの質量ってなんなのでしょうね。私もよくわからず思い付きで「幸せの質量」なんていう言葉を使っています。ただ、珈琲豆というものが、ものすごく手間暇をかけて私たちのところにやってくることは知っています。
 以前『ア・フィルム・アバウト・コーヒー』というドキュメンタリー映画を見たことがありますが、そこで知った珈琲の奥深さに、ものすごく感銘を受けた記憶があります。たった一粒の珈琲豆にも生きものの命と人間の暮らしがかかっているんですね。もちろん珈琲豆だけでなく、米一粒林檎一個にも同じだけの質量があるはずです。そういうものをきちんと受け取ることができる感覚は大事にしたいなと思います。
 今、句集を繙いたら、この句、震災に関する句を集めた「春の牛」の章に編集していたんですね。すっかり忘れていました。きっと震災の経験を経て、すべての生きものを大事にすることを自分自身の日常に組み込み、幸せの質量を充実させたいという気持ちが強くなったんでしょうね。むずかしいことはさておき、読む人の中で、この句に触れて、珈琲を自分で淹れてみようと思える人がいたら、最高です。

(撮影:中村晋)

フリージアけっこうむずかしい平凡

ウネラ 句集のタイトルにもなっている句です。「けっこうむずかしい」に、そこはかとない共感をおぼえました。なぜ平凡であることがこんなにむずかしいのでしょうか。

中村 そうですね、なぜでしょう。
 この句は、震災後にできた句でした。震災前には当たり前だったことが震災後はそうではなくなった、というニュアンスが作者としてはあります。とはいえ、まったくそれにとらわれないで読んでもらってけっこうです。ほんとうに自由に読んでほしいと思います。
 この句集を上梓してすぐに新型コロナウイルスの感染が広がってきました。日常生活がいろいろと制限されるようになり、それに歩調を合わせるかのように、「ほんとに『むずかしい平凡』だよねえ」と知人に言われるようになりました。コロナのことなどまったく予想もしなかった作者でしたが、読む人は勝手にコロナと結びつけて読んでいる。そこがとてもおもしろく、作者冥利でした。

ウネラ なるほど。読み手に委ねてこそ、俳句が動き出す。まさに生きものですね。

中村 また、それほど贅沢して生活しているわけでもないのに、平凡に暮らすことがなぜこんなにむずかしいのかと感じている人は案外多いかもしれないとも思いました。平凡に暮らすっていうこと自体がむずかしいことなのかもしれません。人間であれば、いろんな欲があります。禅問答みたいになるかもしれないけれど、「無欲に平凡に生きたい」ということそのものに執着してしまえば、それが欲望になってしまいます。そうしたら、その欲望にとらわれてしまったということで、平凡に生きることは不可能になってしまいますよね。
 とくに今はむずかしい時代です。表向きには個性を求められ、しかし実際には他との同質性を求められ、しかもその中で競争を求められる。こんな今の日本の社会で、自分が何をどうしていいかわからなくなって、自分を見失ってしまうのは当然の帰結だと感じます。とはいえ、状況に流されて自分を見失いたくもありません。ほんとに困難な時代です。

ウネラ 深く共感します。

中村 ただ、そういうとき、自然の生きものを見てるとけっこう心和むものがあります。昆虫とか植物とか、そういうものには基本的に自意識というものが存在しないですから。
 この句、そういうむずかしい現代の生活に、フリージアの花を取り合わせています。花屋でごくふつうに見かける花なのに、独特の気高いたたずまいと香りがあり、またほかの花とも調和するこのフリージアが私は好きです。平凡を極め抜いたような印象があります。無心の美しさがあるんじゃないかな。そして楽観的かもしれないけれど、人間の中にも、そういうものがまだ残されているとも思います。無心の美しさを大切にできる人ってまだまだたくさんいるような気がします。ですから、平凡はたしかにむずかしいけれど、かなえられないこともないんじゃないかと思います。
 ただ、やはり平凡な生活を守るためには、それを破壊する行為、すなわち戦争や放射能汚染などに関して、今後もNOを言い続け、抵抗しなくてはいけない側面もあると思います。むずかしいと言って嘆いていても始まらないですから。
 結論としては、日常をいとおしみながら、同時に日常を守るために抵抗する、ということになるのかなあ。言葉で言うと簡単ですが、これはやはり、どう考えてもむずかしいです。やはり「むずかしい平凡」はむずかしいです。

ウネラ ありがとうございます。今回お話しいただいたような、日常や平凡についてしっかり考えること、そこに小さくても確かな光を見出そうとすることは、とても大事なことだと感じています。多くの方に届いてほしいメッセージです。

(撮影:中村晋)

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中村晋(なかむら・すすむ):1967年生まれ。俳人、福島県立高校教諭。1995年より独学で俳句を作り始め、2005年からは故・金子兜太に師事。2005年福島県文学賞俳句部門正賞、2009年海程新人賞、2013年海程会賞受賞。2011年の東日本大震災・原発事故以降は、勤務する高校の授業にも俳句を取り入れ、生徒たちと作句を通じ命や社会のあり方について考え続けている。著書に第一句集『むずかしい平凡』(BONEKO BOOKS/2019年)、『福島から問う教育と命』(岩波ブックレット/大森直樹氏と共著、2013年)など。

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ウネリウネラ
元朝日新聞記者の牧内昇平(まきうち・しょうへい=ウネリ)と、パートナーで元同新聞記者の竹田/牧内麻衣(たけだ/まきうち・まい=ウネラ)による、物書きユニット。ウネリは1981年東京都生まれ。2006年から朝日新聞記者として主に労働・経済・社会保障の取材を行う。2020年6月に同社を退職し、現在は福島市を拠点に取材活動中。著書に『過労死』、『「れいわ現象」の正体』(共にポプラ社)。ウネラは1983年山形県生まれ。現在は福島市で主に編集者として活動。著書にエッセイ集『らくがき』(ウネリと共著、2021年)、ZINE『通信UNERIUNERA』(2021年~)、担当書籍に櫻井淳司著『非暴力非まじめ 包んで問わぬあたたかさ vol.1』(2022年)など(いずれもウネリウネラBOOKS)。個人サイト「ウネリウネラ」。【イラスト/ウネラ】