旧優生保護法は「不良な子孫の出生を防止する」という目的のもと、疾患や障害のある方々に対して強制不妊手術を行うことを認めた法律です。近年は、被害者の方々が全国で声をあげて、国に賠償を求める裁判を起こしており、請求を認容する判決も相次いでいます。吉原秀さんが弁護団の一員として訴訟追行した大阪での訴訟では、高裁で原告側の逆転勝訴となり、地裁・高裁を含めて初めて国家賠償を認める判断が示されました。今回は吉原さんに、この「旧優生保護法」訴訟の内容に触れながら、憲法との向き合い方、そして憲法訴訟における実務と代理人の役割についてお話しいただきました。[2023年2月18日@渋谷本校]
司法試験の論文式試験における重要な視点
私は2017年12月に大阪弁護士会登録をして、18年1月から実務に就きました。弁護士としてはまだ6年目でようやくヒヨコになったくらいですが、本日は「憲法訴訟の実務と代理人の役割とは何か?」という大きなテーマを掲げています。もちろん正解があるわけではありませんし、弁護士の先輩方でもいろいろな意見をもっている方がいらっしゃいます。ですので、私が「こうだ」とお伝えするというよりは、弁護士をめざしているみなさんと一緒に憲法訴訟の実務について考える時間を共有したいと思います。
実務のお話をする前に、まず司法試験・予備試験の憲法の論文式試験を考えてみましょう。今、テレビで放送されている「女神(テミス)の教室~リーガル青春白書~」というドラマをご存じでしょうか。法科大学院を舞台にしたドラマです。この中で、藍井先生という教員がロースクール生たちに、憲法の論文式試験で「表現の自由(憲法21条)を制限する問題が出題されたときは、厳格な違憲審査基準を定立しなさい」と述べる場面があります。
私は、この藍井先生のコメントは的を射ていないと考えていますが、どうでしょうか。藍井先生の発想は「二重の基準論」を前提にしています。「二重の基準論」とは、精神的な活動の自由、とりわけ表現の自由の制約は、経済的な活動の自由の制約に比べて厳しく審査しなければならない、という理論です。この理論によれば、経済的な活動の自由の制約は、立法府つまり国会の裁量が広く、司法府すなわち裁判所はあまり口出しできない、ということになり、「二重の基準論」は、表現の自由のほうが経済的な活動の自由よりも大事だというところに力点が置かれることになりますが、本当にそうなのでしょうか。
例えば、法哲学者の井上達夫先生は、「表現の自由のほうが経済的な活動の自由よりも優越しているという価値判断こそ野蛮ではないか」といった指摘をしています。要は、とある人権と別の人権を比べて、一方が他方に優越している、という価値序列を本当に憲法は規定しているのかということです。こうした疑問を持たずに、論文式試験で表現の自由の制約が問われたときに、厳格審査基準や「二重の基準論」を説明すれば足りるのだろうと考えて、いわばテクニックだけで試験を突破しようとしても、説得力のある答案は書けないだろうと思います。
憲法の勉強では杓子定規な発想から脱却することが第一歩
みなさんは、憲法の「表現の自由」について勉強するときに「内容規制」と「内容中立規制」という概念を習うはずです。「内容規制」とは、表現の内容に着目して、たとえば「こういうメッセージのビラは配ってはいけない」と規制をすることです。一方、「内容中立規制」はメッセージの内容は問わず、「こういう場所で、あるいはこういう場面でビラを配ってはいけない」といった規制をすることです。そして、「内容規制」は「内容中立規制」よりも厳格な審査を行うべきだとされていますが、本当にそうでしょうか。
この「内容規制」と「内容中立規制」という二項対立の背後には、「思想の自由市場」という概念があります。これはアメリカのオリバー・ウェンデル・ホームズ裁判官が、1919年に「エイブラムス対アメリカ合衆国事件」の反対意見の中で唱えた概念です。ホームズ裁判官は、いろいろな人々のいろいろな思想、言論が社会に出ていく、このような環境を保護することが表現の自由なのだと述べ、ここから「思想の自由市場」論が広がっていきましたが、ここで重要なことは、内容規制だったら厳格審査と杓子定規に考えるのではなく、目の前で検討している事案における規制が、本当に思想の自由市場にダメージを与えるようなものなのかを自分で考えるという姿勢です。
みなさんが憲法の勉強をするときに必ず出てくる重要判例のひとつに、吉祥寺駅構内ビラ配布事件(最判昭59.12.18刑集38巻12号3026頁)があります。この事案で問題とされた行為は駅構内でビラを配るという行為ですが、これはビラの内容に関係なく、その方法を規制するものですので「内容中立規制」ということになりますから、厳格審査の対象にはならなさそうです。しかし、当時の時代背景を前提にすると、彼らからビラを配るという表現方法を奪ったら、どうやって自分たちの言いたいことを世間に広く伝えればよいのでしょう。事件当時は現在のようにインターネットが普及していなかったので、ビラ配布という手段を奪われると、彼らの表現は「思想の自由市場」には届かなくなります。そうすると、「メッセージの内容を規制しているわけではない、内容中立規制だから制約してもいいんだ」といって簡単に処罰してよいのか、という発想に行き着くはずです。この事件は、伊藤正己裁判官がその補足意見の中で、いわゆる伊藤流のパブリックフォーラム論を示したことでも有名ですが、この補足意見の背後にあるのはこうした発想です。
ですから、「内容規制」だから厳格審査だ、とか、「内容中立規制」だから厳格に審査しなくてもいいんだ、という杓子定規な発想こそが、憲法論と向き合うときに最も危険な視点なのです。この杓子定規な発想をまず捨てるということが、みなさんが憲法の価値を理解する第一歩になるのだろうと私は思います。
そうすると、表現の自由に対する制約が問題となっていれば厳格審査基準だ、と杓子定規に述べた藍井先生の発言は的を射ていないことに容易に気付けるはずです。
訴訟実務では200枚もの書面は必要ない
それでは、ここから訴訟実務のお話をしていきます。みなさんは、裁判官は同時に何件くらい事件を抱えているかご存じでしょうか。大規模庁(扱う訴訟の多い裁判所)と小規模庁の違いはありますが、300件から500件ほど同時に抱えているのが通常です。私たち訴訟代理人は、民事訴訟において準備書面を裁判所に提出しますが、300件も事件を抱えている裁判官に200枚もある書面を提出したら、その裁判官はどう思うでしょうか。あなたの事件だけをやっているわけじゃありません、と言いたくなるでしょう。
私が弁護団に入っている旧優生保護法事件(大阪)で、私は、主に準備書面を書く役回りでした。旧優生保護法事件というのは、旧優生保護法(1948年~1996年)のもとで強制的に不妊手術をされたとして被害者の方々が国に対して損害賠償を求めている事件です。手術自体が昭和40年代から50年代にかけて行われているので、争点は、不法行為が20年経過すると損害賠償請求権が消滅してしまうという「除斥期間」が適用されるかどうかです。国は、疾患や障害のある方々に、「あなたたちは不良な子孫を残す者だ」とレッテルを貼って、本人の同意なく子どもを産み育てることができなくなる手術をしておきながら、「20年経ったんだから損害賠償責任はありません」と主張しているわけです。
しかし、法的な理屈の前に、「20年経ったら責任はありません」でいいのでしょうか。このような酷いことがまかり通っていいのでしょうか。この事件の本質的な問題は、ここに尽きると私は思います。
では、旧優生保護法事件において「これがまかり通っていいはずがない」という価値観を、300件も事件を抱えている忙しい裁判官にどう伝えればいいのでしょう。そのために、200枚もの書面などいらないんです。たとえば、事故が起きた因果的な機序が複雑で、科学的な証拠もどんどん積み上がっていく事件であれば、どうしても準備書面が分厚くなる、ということもあるでしょう。しかし、旧優生保護法事件はそのような事件ではありません。
私は普段、企業法務に携わっています。企業法務でも、クライアントから相談を受けたときに法律用語がずらっと並んだ長文のアドバイスをメールで送っても、メールを受け取ったクライアントの担当者は困ると思います。その担当者は受け取ったメールを踏まえて上司に報告し、さらには取締役会などへ情報をあげていくことが多いと思いますが、そういった背景を想像すれば、咀嚼困難な複雑かつ専門的な用語のみが並んだメールを送ってもそれは自己満足に過ぎません。訴訟の書面も同じです。言いたいことを言うのが弁護士ではありません、まず、読み手のことを考えるというのが基本だと思います。そして何より、重要なことは簡潔に伝えられるはずです。訴訟代理人の実務の基本として、書面を書くときには、相手はどういう立場で、どれくらい忙しくて、この書面を読むのにどれくらい時間を割けるのか、といったことを想像しなければならないと思います。
訴状や準備書面には何が求められているのか
司法試験の論文式試験では、こうした訴訟実務における訴状や準備書面をつくる能力を備えているかどうかが試されています。ある理不尽そうな出来事について、憲法適合的な範囲におさまっているのか、それとも違憲なのか、あなたはきちんと整理して説明できますか、と聞いていて、求められていることはおそらくほぼこの一点に尽きます。教科書で勉強した違憲審査基準を間違いなく書けますかとか、そんなことは求めていません。
それでは、訴訟実務で訴状や準備書面に求められていることは何でしょうか。旧優生保護法事件を例にあげると、「20年経ったから許されるという問題ではないですよね?」と裁判官に伝えることが求められている、ということになります。
旧優生保護法は憲法訴訟ですが、必ずしも憲法の価値を書かなければいけないわけではありません。訴状や準備書面を読んだ裁判官が「確かにおかしいかもしれない」と直感してくれること、それがこの事件の書面に求められるほぼ唯一といっていい役割だと思います。どういう文面なら、裁判官が「おかしい」と直感してくれるか。私は、このことを一審から二審逆転勝訴にいたるまでずっと考え続けていました。
私は弁護団の中でダントツで最年少でしたが、「とにかく書かせてほしい」と言って一審の書面を書かせてもらいました。ところが一審ではコテンパンに負けました。
そのときに考えたのは、裁判官も人間だということです。人間だから「20年経ったから許されるのはおかしい」という基本的な直感はわかってくれたはずだ。そうだとすれば、裁判官がおかしいのではなく、私がその直感を十分に伝えきれなかった点が問題なのではないか。控訴理由書はそのことだけを考えて書きました。
訴状や準備書面を書くときに大事なのは、プラグマティズムという肌感覚です。プラグマティズムとは、敢えてごく簡単にいうと、結論から判断する考え方です。
私は、修習生のときの経験からも、裁判官はプラグマティックな考え方をする方が多いのではないかと思っています。私が修習生だったころ、民事裁判修習で、駅のエレベーター設置請求訴訟が私の配属部に係属しました。私は「私人間効力」(憲法の規定が私人と私人の間に適用されるか否かという論点)を調べていたら、当時の部長は、私に「君は学生だね。この事件が、そのような内容の判決を書いただけで終わる事件だと思う?」と仰いました。実際、この事件は和解で決着して、駅にはエレベーターが設置されました。
部長は、初めからこの事件の現実的な落としどころを見ておられたのだろうと思います。みなさんがこれから実務に出て訴訟で準備書面を書くのであれば、説得する相手は裁判官ですから、結論から考えるプラグマティズムを肌感覚として持っておくということは、絶対に外してはいけない視点だろうと思います。
旧優生保護法事件-どう構成するか?
ここまで訴訟実務、訴状や準備書面についてお話ししてきました。ここからは憲法訴訟をどう構成するか、みなさんと一緒に考えていきたいと思います。
旧優生保護法事件の争点は、先ほど申し上げたとおり、優生手術の時から20年が経過しているので、除斥期間が適用されて国家賠償請求権が消滅しているのかどうか、この一点です。したがって、われわれ代理人は「20年経っているけれど損害賠償請求権は消えていないはずだ」と言えなくてはいけない。みなさんだったら、これをどう構成しますか?
旧優生保護法事件は全国で進行中の事件で、他地域訴訟の構成のひとつは、民法724条(※)後段が規定しているのは除斥期間ではなく、消滅時効だという主張でした。プラグマティックに考えると、私はこの構成はおかしいと思います。この事件のポイントは「こんな酷いことをして20年経っただけで無罪放免になっていいのでしょうか」ということです。それなのに、このような構成を採ると、民法724条後段について、国会での立法経緯はどうだったかとか、ひたすら民法724条後段の法的性質を議論することになりますが、本件は、民法724条の法的性質を考えましょう、という裁判なのでしょうか。このような主張をどれだけ展開しても、裁判官には響かないだろうなと思います(なお、最高裁〈最判平元.12.21民集43巻12号2209号〉で民法724条後段の法的な規定は除斥期間を定めたものだということが確定しており、上記の主張は判例変更を迫る構成である、という点からも採用の余地がないと考えています)。
それでは、どう構成すればよいのか、それを考えるのが代理人の仕事です。過去に、最高裁で除斥期間の適用制限が認められた例が2例あります。われわれ大阪の弁護団は、この最高裁判決にのっとって、戦後最大の人権侵害といっても過言ではない本件で除斥期間が適用制限が認められないはずがないということを基本筋に据えて闘いました。
※民法724条 不法行為による損害賠償の請求権は、被害者又はその法定代理人が損害及び加害者を知った時から三年間行使しないときは、時効によって消滅する。不法行為の時から二十年を経過したときも、同様とする
違憲か合憲か、だけが憲法論ではない
本日のテーマは「旧優生保護法事件を題材に、憲法訴訟の実務と代理人の役割を考える」としていますが、ここまでお話しして、旧優生保護法事件のどこに憲法が出てくるんだと思われる方がいらっしゃるかもしれません。
この事件で違憲かどうかが争われるとしたら、憲法17条が争点になります。憲法17条は「何人も、公務員の不法行為により、損害を受けたときは、法律の定めるところにより、国又は公共団体に、その賠償を求めることができる」としています。旧優生保護法事件では、われわれも憲法17条に関する主張を展開しましたが、必ずしも憲法17条に違反しているという判断を導きたいわけではありません。
憲法17条が定めるとおり、国家賠償制度の構築それ自体は立法裁量事項ですので、違憲判断は簡単には出ないことになります。しかし、数少ないわが国の違憲判決の一つが、郵便法の一部が17条が立法府に与えた裁量の範囲を超えるとした郵便法違憲判決です。すなわち、過去に一度も違憲の判断が示されていない憲法条項ではないわけで、郵便法すら違憲になったのですから、これほど劣悪な人権侵害でも除斥期間が適用されるという制度設計をする裁量も立法府にはないはずではないか、という主張が成り立つはずです。
すなわち、裁判官に伝えたかったメッセージは、「仮に除斥期間の適用によって国家賠償請求権が消滅しているのなら、本人の同意なく『不良な子孫を残す者』と決めつけて不妊手術をしても、20年経ちさえすれば許されるという結論になりますね。それは憲法17条の観点から説明がつきますか?」ということです。もし説明できないなら、翻って一審の結論を逆転してくれるんじゃないかと、われわれは考えたわけです。
これは憲法論を背後にしのばせるという訴訟戦術です。違憲か合憲か、だけが憲法論ではありません。今、憲法を学んでいるみなさんも、憲法訴訟における憲法論の役割ということをもう一度よく考えてみていただきたいと思います。
逆転勝訴が実現した勝因とは
大阪の弁護団では、優生手術が行われていた当時、被害者の方々を取り巻いていた差別や偏見を立証するために、当時の中学・高校の保健体育の教科書を用いました。他地域の弁護団が教科書を集めていたという情報を思い出し、弁護団で全部目を通しました。そうすると「劣悪な子孫を残すので云々」といったショッキングなワードがたくさん書いてある。こういうことを教科書に書いてもおかしいと感じない空気感があったんです(現代でこんなことを教科書に書いたら大問題になりますよね)。
われわれはそのようなショッキングなワードにすべてマーカーを塗り、控訴理由書にも引用して、大阪高裁に提出しました。「当時はこんなことを中学生、高校生が読む教科書に書いていた社会だったということを前提に考えていただきたい」と裁判官に伝えたかったからです。その結果、高裁の判決文には、教科書の記載がたくさん引用されていました。
二審で逆転勝訴が実現したのは、法的な理屈をこねたからではありません。裁判官に簡潔な書面で一審の判断が間違っていたと直感してもらうことが最大のポイントなので、教科書にたどり着いたことが勝因のほぼすべてだったと思っています。訴訟の過程は、『代理人たちの憲法訴訟 憲法価値の実現にむけた営為とその記録』という本に記していますので、よかったら読んでみてください。
かつてホームズ裁判官が述べたように、「法の生命は論理ではなく経験」なのだと思います。旧優生保護法事件が難しいのは、被害者の方々がさらされていた差別を体験した人が裁判官の中にはいないということです。だから、裁判官に経験していないことを追体験させるかのごとく主張できないと、この事件は負けると思っていました。
裁判官が経験していないことをプラグマティズムに徹して伝え、いかにして「これが許されるのはおかしい」と直感してもらうか。私が考える代理人の役割とは、原告の無念と怒り、彼らが差別や偏見にさらされていた境遇を裁判官にわかってもらうこと、これに尽きると思います。
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よしはら・まさる 弁護士、TMI総合法律事務所大阪オフィス所属。2014年大阪大学法学部法学科卒業、2016年東京大学法科大学院修了。2016年最高裁判所司法研修所入所。2017年大阪弁護士会登録。2018年弁護士法人大江橋法律事務所勤務。2020年TMI総合法律事務所大阪オフィス勤務。著書は『代理人たちの憲法訴訟 憲法価値の実現にむけた営為とその記録』(弘文堂/編著)、『法人破産申立て実践マニュアル〔第2版〕』(青林書院/共著)、『債権法改正を踏まえた契約書法務』(大阪弁護士協同組合/共著)。憲法に関する主な論文は「学術会議任命拒否と憲法23条に関する諸問題」、「岡口裁判官の罷免は本当に許されるの?-憲法上の法原則としての比例原則を考える-」、「 同性婚に関する憲法上の諸問題」ほか多数。