「6月23日、コロナでずっと集まれなかったから、久しぶりにランチしない?」と高校時代の同級生から誘われた。
「その日から沖縄に行くので、残念ながら欠席します」と返信すると「へえ、ダイビング?」。
「違う違う。23日は沖縄の慰霊の日でしょ。ここ数年沖縄の先島には自衛隊の駐屯地が次々とできて、なんだかまた戦場になるのではないかと気になって」
「へえ、知らなかった。でも中国がやばいらしいから、日本を守るためにはミサイルくらい置いておいたほうが安心なんじゃないの」
そんな声に送り出されて、旅行会社たびせん・つなぐ主催のツアー「戦争と住民犠牲を考える与那国・石垣4日間」に参加した。
経由地の那覇はまだ曇り空だったが、先島諸島に向かうプロペラ機からは、珊瑚礁に囲まれた島々がきれいに見えた。降り立った与那国島はちょうど梅雨明け当日。猛々しいほどの太陽とサウナ並みの湿気に、くらくらした。
さっそく日本最西端の岬へ。111キロ先にあるという台湾は見えなかったが、紺碧の海の広がりに息をのむ。亜熱帯の植物の濃い緑、その中に点在する赤いハイビスカス。サワサワと揺れるサトウキビ畑、なだらかな牧草地で草をはむ馬や牛、神秘的な湿原、足がすくむような断崖絶壁……。本土とまったく異なる風景や空気感に、非日常を体感した。
与那国の絶景ポイント 立神岩
今回の旅の主目的である自衛隊駐屯地も車窓から眺めた。PAC3が配備されている自衛隊施設、緑の丘から唐突にそびえるレーダー、沖縄風の赤い屋根を抱いた瀟洒な自衛隊宿舎も、しかと目に焼き付けた。
だがしかし、戦車はもちろん迷彩服の自衛隊員の姿もみえない。聞こえるのは蝉時雨と潮騒だけ。軍靴は聞こえない。きな臭さもにおわない。のんびりした平和な島の時間が、まったりと流れていた。
あれ? なんだか予想していたのと違う。あまりの静けさに、拍子抜けする。
と、そこで思い浮かんだのが、昨年話題になったひろゆき(西村博之)氏のツイートである。沖縄の辺野古へ行ってみたけれど、基地建設反対の座り込みをしている人は一人もいなかった。そこで「抗議日数3011日」と書かれた掲示板と笑顔の写真付きで「座り込み抗議が誰も居なかったので、0日にした方がよくない?」とツイートをしたという、例の一件だ。反対運動を揶揄、冷笑するというひろゆき氏の真意は論外だが、彼が現場に行ってみて感じた違和感は、これだったのか。
私が想像していたのは、テレビニュースで見たような「軍事要塞化する国境の島」だったのだ。迷彩服の自衛隊員に警備されて上陸するミサイル、民家の合間を走行する戦車、そして「島を戦場にさせない」と幟を立てて抗議する島民たち。本土にいて本で読んだり、テレビや動画サイトで見るだけではわからない「現場の熱気、緊張感」を体感したい。共有したい。そのためにはるばる東京からやってきたのに、という勝手な期待、思い込み。
当たり前のことだが、どこにでも人々の日常があり生活がある。「ニュースの絵」が日々展開されているわけではない。その予想が外れたからと言って、な〜んだたいしたこと、ないじゃん、と思ってしまったら、「ひろゆき」になってしまう。なんのことはない。私は「台湾有事に最も近い島」という政権とメディアが一緒になって作り出すものものしい雰囲気に、まんまとのまれてしまっていたのだ。
車窓からのぞむミサイル(PAC3)
濃い緑の丘に林立する自衛隊のレーダー
与那国島は東京から1900キロ、那覇から509キロ、そして台湾から111キロに位置する日本最西端の島である。人口は約1700人。1時間もあれば車で一周できる。島には高校はなく、コンビニもない。カラスもハブもいない。おまわりさんは2人、信号は2カ所。「だからひと昔前は、飲酒運転は当たり前でした」とバスの運転手さんは笑う。
歴史的に見れば与那国島は、琉球王国の大交易時代には海路の要衝として、アジアに向けた玄関口の役割を果たしていた。その伝統は戦後も引き継がれ、台湾との交流で栄えた時期もあった。2005年に町は、東アジア地域との交流や観光客誘致による自立を目指す「与那国・自立へのビジョン」を発表、「平和な国境と近隣諸国との友好関係に寄与する国境の島守として生きる」ことを高らかに宣言した。
その方針が暗転したのは08年9月。町議会で、人口減少対策と経済活性化を目的に自衛隊を誘致しようという決議がなされたのである。自衛隊誘致か否かを巡って島内は激しく対立し、15年4月の住民投票の結果は賛成632票、反対445票、無効17票。島を二分した議論は「誘致賛成」で決着した。
16年、沿岸監視部隊の配備が開設され、巨大なレーダーが立った。19年には中国艦船を警戒監視する移動警戒隊の車載式レーダーも配備された。22年には日米共同訓練が行われ、自衛隊の戦闘車が集落内の公道を走り、年末にはミサイル部隊の配置計画が突如浮上した。そして今年4月には北朝鮮の衛星発射に備えるとして、PAC-3(地対空誘導弾)が運び込まれた。自衛隊誘致から7年、島はあれよあれよという間に軍事要塞化が進んだ。
さらに今の町長は「PAC3はこのまま置いておいて欲しい。シェルターも作る」と前のめり、貴重な自然を破壊してのミサイル基地増設、空港滑走路の延長や軍港の開設をもくろんでいるという。
「島を守るための自衛隊ならいいけれど、話が違う。ミサイルや米軍はいらないと、当初は誘致派だった人も、住民の頭ごなしに進む軍事増強に不信感を抱くようになりました」。
今回の旅のガイドを務めてくださった「与那国島の明るい未来を願うイソバの会」の白玉敬子さんは語る(イソバは15世紀末から16世紀に実在したとされる与那国島の伝説の女性首長)。
「はじめは自衛隊を歓迎する人も多かった。地区の運動会や行事に若い屈強な男性がはいってくれれば、それはうれしいですから。でもだんだん自衛隊員ばかりが優勝するようになって、地元の人の活躍の場がなくなってしまった」
「自衛隊が来て確かに町の平均所得は上がりました。でもそれは給料のいい自衛隊員が増えて数字が上がっただけで、住民が豊かになったわけではない。自衛隊が来てなんかいいことあった? 暮らしはよくなった? と聞くと皆考え込んでしまう」
「自衛隊がきて増えたのは数件の居酒屋くらい。むしろ島で唯一のホテルが自衛隊施設の建設作業員用の宿舎になって休業中するなど、観光業にはマイナスばかり」と白玉さん。
「イソバの会」の白玉敬子さん。「私たちは与那国島を捨てません」と言う意味の島言葉を背中に記して
自衛隊が来て、島を出て行く人も少なくない。島の人口の2割を自衛隊関係者が占める。もともとの住民が減って、町政にも自衛隊の意向が反映され、軍政化するのではないかとの懸念もある。
日本最西端の島は日の入りが遅い。それでも8時過ぎればあたりは漆黒の闇。見上げれば星が降るようだ。自衛隊の演習があるときは、この闇をサーチライトが切り裂くという。そんなの、ありもしない、あってはならない戦争をあおるパフォーマンスじゃないの? 昼間見た島の自然と自衛隊施設とのミスマッチに、そう確信した。
「沖縄、どうだった?」帰宅後、冒頭で紹介した同級生に聞かれた。
「暑かった、海がすごくきれいだった」
「それだけ? 戦争前夜の雰囲気とか、あった?」
「ないない。台湾有事なんて脅かしよ。それを口実に島の暮らしや自然がじわじわと壊されていく。そのほうが怖い」
現地に行って、五感を使って体感したからこそ理解できたこと。それは沖縄在住のジャーナリスト三上智恵さんの「戦争する国に国民を誘導する、そのアイコンのように与那国島を使うのは勘弁してほしい。島の豊かな文化や生活を描くことなく、国防に翻弄される姿だけ切り取って利用するのはやめてほしい」(三上智恵の沖縄〈辺野古・高江〉撮影日記 第114回)という切なる声だった。
(田端薫)