家族と憲法――LGBTQと法と社会 講師:駒村圭吾氏

ここ数年、同性婚を認めないのは違憲であるという判決が下級審で続くなど、「家族」をめぐる憲法論が熱く動いています。「ジェンダーや同性婚をめぐる一連の訴訟の帰趨が、日本社会の近未来を決する分岐点になる」とおっしゃる憲法学者の駒村圭吾先生に、「家族と憲法」をテーマにお話しいただきました。[2024年5月24日@渋谷本校]

家族に関わる事件で多い最高裁違憲判決

 私は大学院生のころから、ずっと権力分立論、表現の自由、人権基礎論、戦後憲政史などに関心をもって研究をしてきた伝統的な憲法学者です。ただ、昔から性的マイノリティの問題に関心があって、2015年に米国の連邦最高裁判所が同性婚を認めない州法を連邦憲法違反とした「オバーゲフェル判決(Obergefell v. Hodges事件判決)」について論評を書いたことから、この同性婚の分野の仕事が舞い込むようになりました。
 その後、慶應のロースクールで「LGBTと法と社会」という科目を立ち上げたほか、同性カップルの結婚を認めない民法規定は憲法違反だと訴える、いわゆる「同性婚訴訟」では原告の方たちに助言をしたり、意見書を書いたりもしてきました。しかし、今日お話しすることは、実際の訴訟の弁護団や当事者の意見を代弁するものではなく、伝統的な憲法学者としての一考察であることを、最初に申し上げておきます。
 「家族と憲法」というテーマでまず指摘しておきたいのは、最高裁の法令違憲判決には家族に関わる事案が多いという事実です。1973年の尊属殺重罰規定違憲判決、2008年の国籍法違憲判決、2013年の非嫡出子法定相続分差別違憲判決、2015年の再婚禁止期間違憲判決などがそれで、また、ある意味、2023年の性同一性障害特例法違憲決定や2024年の旧優生保護法違憲判決もそうかもしれません。
 これらの違憲判決を見渡すと、立法裁量が広い分野の問題が多いことがわかります。家族や身分に関する法制度については、裁量の余地は広いにもかかわらず、「やるべきことをしっかりやっていない」と何度も最高裁にお灸を据えられている。国会が広い裁量をもっているにもかかわらず、その責務を果たしていないという点がまさに、「家族と憲法」を語る時の一つの大きなポイントになると思います。

相次ぐ同性婚訴訟の現状

 同性婚訴訟については、2021年3月に提訴された札幌地裁を皮切りに、大阪地裁(2022年6月)、東京地裁1次訴訟(2022年11月)、名古屋地裁(2023年5月)、福岡地裁(2023年6月)、東京地裁2次訴訟(2024年3月)、札幌高裁(2024年3月)と同時多発的に違憲訴訟が展開されています。その中で、合憲判決が出たのは大阪地裁のみ。あとは広い意味での「違憲」判断がなされていて、その限りでは6勝1敗と、かなりの勝率です。
 1敗と言いましたが、合憲とした大阪地裁を含めて、「同性カップルが深刻な社会的不利益を被っている」ことは、7つの判決すべてが認めています。また「国会はなんらのアクションをしなくていい」と言っている判決は一つもありません。
 さらに、同性カップルは非常に深刻な状態に置かれているので、国会は行動を起こすべきだと全ての判決が言っており、その意味では全戦全勝ともいえるのですが、そこで安心してしまっていいのでしょうか。
 一連の訴訟は、一般に「同性婚訴訟」と言われますが、当事者たちはこの呼び方を慎重に避けて「結婚の自由をすべての人に訴訟」と言っています。「同性婚訴訟」というと、異性婚とは別の特別な制度を求めている訴訟と誤解されかねないからです。当事者が求めているのは、現在の民法戸籍法に立脚した婚姻制度の中に同性カップルも、異性カップルと同等に含むべきだという主張なので、「結婚の自由をすべての人に」と言っているのです。
 その点から一連の判決をよく読むと、この当事者の主張を十分に受け入れている判決は一つもありません。同性愛者を異性愛者と同じ現行の婚姻制度の中で処遇すべきであると明確に言っている判決はないのです。
 例えば札幌地裁判決は次のように言っています。

「本件規定が、異性愛者に対しては婚姻という制度を利用する機会を提供しているにもかかわらず、同性愛者に対しては、婚姻によって生じる法的効果の一部ですらこれを享受する法的手段を提供しないとしていることは、立法府が広範な立法裁量を有することを前提としても、その裁量権の範囲を超えたものであると言わざるをえず、本件区別取扱は、その限度で合理的根拠を欠く差別取り扱いにあたると解さざるを得ない」

 つまり異性愛者にはフルスペックで婚姻制度による法的効果が与えられているけれど、同性カップルに対しては「その一部ですら」享受する法的仕組みがない。「フルスペック対ゼロ」では格差がありすぎるから、法の下の平等を定めた14条に違反していると言っているにとどまるのです。
 だとすると、異性愛者に与えられる保護の7掛けとか8掛けでも、同性愛者に与えられる仕組みがあれば、14条違反を免れることができそうです。つまり、フルスペックの保障の必要は必ずしも無く、「一部」でもあれば合憲になるという可能性が留保されているという点で、当事者にとっては安心できる内容ではありません。
 また東京地裁1次訴訟判決ではこう言っています。

「現行法上、同性愛者についてパートナーと家族になるための法制度が存在しないことは、同性愛者の人格的生存に対する重大な脅威、障害であり、個人の尊厳に照らして合理的な理由があるとは言えず、憲法24条2項に違反する状態にあるということができる」

 ここでは同性愛者に「パートナーと家族になるための法制度が存在しない」ことが問題だと言っています。「婚姻」の自由が制度化されていないことが問題だとは言っていない。つまり、同性愛者は結婚の自由を保障した24条1項からは排除する。その代わり、同条2項でアジェンダ設定し、婚姻制度とは別のパートナーシップ制度を作るなどの形で現状を「合憲」に持っていく。そういう余地を残した判決であるともいえるのです。

「違憲状態」という名の合憲判決

 安心できない理由のもう一つは、一連の判決の中に「違憲」と「違憲状態」という2通りの判断があることです。思うに、「違憲」とは、憲法に違反しているからと法律をばさっと切って無効にする、いわば実刑判決。一方「違憲状態」とは、「このままでは違憲ですよ」という判断は示すけれど、違憲と断定はしない、あるいは、法律の有効性は保ったままにしましょうという、いわば執行猶予的なものとして使い分けているものと思われます。
 とすれば、違憲状態というのは、実際には「違憲状態という名の合憲判決」とも取れるので、安心できません。
 違憲状態判決の根拠として、「立法措置の多様性」が挙げられることがしばしばあります。「違憲状態を解消するためには、さまざまな立法オプションがあり、そのどれをとって法制化するかは国会が決めることだから、違憲とまでは断じません」ということでしょうが、それはおかしい。多様な立法措置のうち、「これを取りなさい」と最高裁が指定したら問題ですが、違憲と判断したあとは、国会が自由に立法措置を行使すればいいだけのことです。司法が違憲判断に踏み切ることを躊躇する事情はどこにもないはずです。むしろ違憲状態という「執行猶予」状態に甘んじて、国会が何もしないで現状が放置されるほうが問題です。
 さらに言えば、「違憲」にしても「違憲状態」にしても、同性愛者の苦境に照らして、それは憲法違反だと司法が判断した事実を国会は直視し、唯一の立法機関かつ最高機関として早急に民法及び戸籍法の改正に関する検討に入るべきです。
 同じ市民なのに、性的指向が違うというだけで生きにくい人たちがいる。それを放置して安穏としている。それどころか性的少数者を侮蔑、差別する国会議員や高級官僚までいる。なのに政府は1ミリも動こうとしない。挙句の果てには、「同性婚を認めないことは合憲だ」という理屈を一所懸命探そうとさえしています。
 例えば「現行民法には〈同性愛者は現行の婚姻制度を使えない〉とはどこにも書いてないではないか。だから、同性愛者が婚姻制度を使いたければ、異性パートナーと一緒になればいい。排除していない。差別的なものではなく平等だ」という屁理屈が政府側から提出された文書に書かれています。私はこれを聞いて、彼らの一歩も引かない頑迷さに唖然としました。こうした暴言は、尊厳毀損の上塗りとしか言いようがありません。

夫婦同氏制合憲判決に見る循環論法

 以下に挙げたのは、2015年に最高裁が出した、「夫婦同氏」を定めた民法の規定は合憲であるとする判決の一部ですが、憲法24条2項の解釈に関する最高裁判断の先例として非常に重要です。一連の同性婚訴訟でもこの解釈を使っており、この枠組みそのものが問題だと、私は考えています。この判決は、同条2項の「個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して」という文言について以下の解釈を示しました。

 憲法24条2項は,具体的な制度の構築を第一次的には国会の合理的な立法裁量に委ねるとともに,その立法に当たっては、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚すべきであるとする要請、指針を示すことによって、その裁量の限界を画したものといえる。
 そして、憲法24条が、本質的に様々な要素を検討して行われるべき立法作用に対してあえて立法上の要請、指針を明示していることからすると、その要請、指針は、単に、憲法上の権利として保障される人格権を不当に侵害するものでなく、かつ、両性の形式的な平等が保たれた内容の法律が制定されればそれで足りるというものではないのであって、憲法上直接保障された権利とまではいえない人格的利益をも尊重すべきこと、両性の実質的な平等が保たれるように図ること、婚姻制度の内容により婚姻をすることが事実上不当に制約されることのないように図ること等についても十分に配慮した法律の制定を求めるものであり、この点でも立法裁量に限定的な指針を与えるものといえる。

 判決文はここで、24条2項に基づく立法は「人格権を不当に侵害していなければいい、両性の形式的な平等が保たれていればいいというにとどまらず、人格的利益も尊重すべき」「両性の実質的な平等が保たれるように、婚姻制度の内容により婚姻をすることが事実上不当に制約されることのないように図る必要がある」と、大変人権フレンドリーなことを言っています。これに続いて「違憲」という評価がもたらされてもおかしくない流れなのですが、結論は「同氏制は合憲」なのです。 
 先の文章に続いて、判決は、人格的利益や事実上の制約には様々なものが考えられるから、「憲法24条2項の要請や指針に答えてどのような立法措置を講ずるかの選択決定は、国会の多方面にわたる検討と判断に委ねられている」と改めて立法裁量論に戻っていきます。24条2項は判決文の中でも触れられているように、具体的な制度の構築を国会に委ねるとともに、その立法にあたっては「個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚」しなくてはならないと定めている。ここまで立法に対する明確な要請、指針を書いている憲法条文は、他にありません。
 それなのに、「2項は、いろいろなことをカウントしなければならない立法裁量に対して敢えて憲法的な要請、指針を出したけれど、その検討にはいろいろなことをカウントしないといけないので、そこは立法裁量に委ねる」と論旨がぐるぐる回って、いつの間にか「人権フレンドリー」な部分が空中分解してしまっているのです。これは循環論法と言わざるを得ません。
 立法裁量に委ねると言ってしまえば、夫婦同氏制であっても、「旧姓の通称使用が認められているのだから女性が被る不利益はそれほど多くない」、あるいは同性婚についても、「パートナーシップ制度を認めている自治体がたくさんあるのだから、それほどの不利益はない」という判断ができてしまいます。この最高裁の循環論法がそびえ立っているかぎり、同性婚訴訟もなかなか前に進みません。

子を産むことが婚姻の本質なのか?

 次に、同性婚訴訟唯一の合憲判決である大阪地裁の判決を見ていきたいと思います。判決はまず、以下のように言っています。

 もっとも、憲法24条1項が両性の合意のみに基づいて婚姻が成立する旨規定している趣旨は、婚姻の要件として戸主等の同意を求める明治民法における旧来の封建的な家制度を否定し、個人の尊厳の観点から、婚姻が、当事者間の自由かつ平等な意思決定である合意のみに委ねられることを明らかにする点にあったものと解される。
 そうすると、「両性」という文言がある以上、憲法24条1項が異性間の婚姻を対象にしているということは否定できないとしても、このことをもって直ちに、同項が同性間の婚姻を積極的に禁止する意味を含むものであると解すべきとまではいえない。
 かえって、婚姻の本質は、永続的な精神的及び肉体的結合を目的として公的承認を得て共同生活を営むことにあり、誰と婚姻をするかの選択は正に個人の自己実現そのものであることからすると、同性愛と異性愛が単なる性的指向の違いに過ぎないことが医学的にも明らかになっている現在、同性愛者にも異性愛者と同様の婚姻又はこれに準ずる制度を認めることは、憲法の普遍的価値である個人の尊厳や多様な人々の共生の理念に沿うものでこそあれ、これに抵触するものでないということができる

 噛み砕いて言うと、「24条1項の趣旨は、旧来の封建的家族制度とおさらばし、当事者間の自由かつ平等な合意のみに委ねられるところにある。同項は異性愛者を対象にしているけれど、その趣旨からすれば、同性婚を禁止するという意味合いはない。永続的な精神的および肉体的結合を目的として真摯な意思を持って営む共同生活は、異性愛者でも同性愛者でもできる」ということです。
 さらに、婚姻によって得られる利益とは、アパートを借りるとか、病気や怪我で入院するとか、さまざまな生活の場面でカップルであると認められることにより将来にわたって安心して安定した生活を送ることができる「公認に関わる利益」も含んでいる、その価値は、性的指向によって異なるものではないとも言っているのです。この大阪地裁の判示部分は、いくつかの最高裁先例が下した憲法解釈をベースとしています。
 ところが続いて同判決は、次のように述べます。

 そうすると、本件諸規定が異性間の婚姻のみを対象としているのは、婚姻を、単なる婚姻した二当事者の関係としてではなく、男女が生涯続く安定した関係の下で、子を産み育てながら家族として共同生活を送り次世代に承継していく関係として捉え、このような男女が共同生活を営み子を養育するという関係に、社会の自然かつ基礎的な集団単位としての識別、公示の機能を持たせ、法的保護を与えようとする趣旨によるものと考えられる。このような婚姻の趣旨は、我が国において、歴史的、伝統的に社会に定着し、社会的承認を得ているということができる。

 本件諸規定とは民法のことです。民法は婚姻というものを「子を産み育てながら家族として共同生活を送り次世代に承継していく関係」としている。これは民法の解釈で、憲法解釈ではない。先に引いた最高裁先例の中には「子を産み育て」ることについての言及はありません。問題はその次です。

 そこで検討すると、本件諸規定は、憲法24条2項が、異性間の婚姻についてのみ明文で婚姻制度を立法化するよう要請していることに応じ、個人の尊厳や両性の本質的平等に配慮した異性間の婚姻制度を構築したものと認められ、その趣旨目的は、憲法の予定する秩序に沿うもので、合理性を有していることは既に述べたとおりである。そして、本件諸規定が同性間の婚姻制度については何ら定めていないために本件区別取扱いが生じているものの、このことも、同条1項は、異性間の婚姻については明文で婚姻をするについての自由を定めている一方、同性間の婚姻については、これを禁止するものではないとはいえ、何らの定めもしていない以上、異性間の婚姻と同程度に保障しているとまではいえないことからすると、上記立法目的との関連において合理性を欠くとはいえない。したがって、本件諸規定に同性間の婚姻制度が規定されていないこと自体が立法裁量の範囲を超えるものとして憲法14条1項に違反するとはいえない。

 みなさんはどう思われますか。憲法には婚姻は「子を産み育て、次世代に継承する関係」などとは、どこにも書いてありませんし、最高裁先例もそのようには語っておりません。にもかかわらず、いつの間にかそうした民法の解釈に憲法的なお墨付きが与えられてしまっている。何の論証もなく、唐突に、地裁が下した民法解釈が「憲法の予定する秩序」に組み込まれて、憲法解釈と同じ扱いを受けている。これはなんとも奇異に感じます。
 さらに、現行民法が異性婚について制度化しているのは「憲法の予定する秩序に沿うもので合理的」なのは当たり前であって、合理性を問うべきなのは、同性カップルが異性愛者と同じように共有しているはずの「婚姻する」という人格的利益から排除されているのはなぜかということです。そちらの方の合理的理由こそが明らかにされなければなりません。
 おそらく理由として考えられるのは、自然生殖能力がないという一点です。それを理由に排除するのは合理的なのかどうか、それが問われているのです。同性愛カップルでも子どもを養育することはできますし、異性愛カップルでも子どもを産まない、産めないカップルはいくらでもいます。子どもを産むことのできない異性カップルの婚姻を認めているのに、子どもを産むことができないという理由で同性婚を認めないのは矛盾していませんか。
 もう一点、東京地裁2次訴訟判決についても、非常におかしいと感じるところを指摘しておきたいと思います。判決文の、以下の部分です。

「同性カップルに対しては、異性カップルに認められている現行の婚姻と全く同一の制度を認めるべきことへの社会的承認が得られるには至っていない」

 同性婚に関する世論調査では60〜70パーセントの人が賛成しています。特に20代では80パーセントの人が認めている。にもかかわらず反対している人が少なからずいるから、社会的承認が得られていないとは、いったい裁判所はどういう統計の読み方をしているのでしょう。
 そもそも社会的承認がない人的結合関係は制度から省くという考えは、根本的に誤りです。結婚制度は、規範的に正当な人間関係を公認するもので、社会的承認とはむしろ対抗関係に立つはずです。社会的承認があろうかなかろうが、制度の要件を満たせば婚姻は成立するのです。

旧憲法とはっきり決別するために

 一方、非常に画期的だったのが、今年3月に札幌高裁で出た違憲判決です。この判決文では、同性婚を認めない規定は憲法14条、24条1項、2項に違反していると述べただけでなく24条1項の「婚姻をするについての自由」には、「人と人の自由な結びつき」として、同性カップルにも同程度のものが認められる」と明言しています。
 これは従来の支配的学説ではありません。条文の「両性」は、男と女と解釈するのが通説ですが、札幌高裁は同性カップルをも「婚姻する自由の権利主体」そのものに組み込みました。が、最高裁がこの解釈をとるとは、なかなか思えないし、私自身も高裁判決を支持するかどうか迷うところはあります。高裁判決に対するより立ち入った批判は別の機会に行う予定ですので、そちらに譲りたいと思います(※24年6月26日に慶大三田キャンパスで行われた、駒村圭吾ゼミ主催・岩波書店共催の千葉勝美元最高裁判事を交えた講演会で披瀝)。
 札幌高裁は違憲状態を改善するには、同性カップルと異性カップルを同じ婚姻制度に包摂するのが最適解であると考えているように思われます。もちろん「同性カップルに対する制度措置には代替的制度(例えばパートナーシップ制度)もありますよ」と一応は言っています。しかし憲法上の婚姻概念は同性カップルも異性カップルも共有していると言っているので、両者は憲法上同根の権利を共有する対等な権利主体と位置付けられます。それを実現する法制度も基本的に同じ制度の下で扱われるべきですし、保障内容も限りなく同等レベルになるべきです。
 そして、札幌高裁は、最後に「喫緊の課題として、同性婚について異性婚と同じ婚姻制度を適用することを含め、早急に真摯な議論と対応することが強く望まれる」と言っています。他の判決が、同性カップルの婚姻は、既存の婚姻制度に組み込まず、別の制度を作ってもいいから、認める方向で進めなさい、と言っているのに対して、この札幌高裁の判決では、既存の異性カップルと同じ婚姻制度に包摂する方向にグーッと寄せている。すなわち「結婚の自由を全ての人に」の本意に限りなく近づける挑戦であると理解できます。

 冒頭で、違憲判決には家族にかかわる分野が多いといいましたが、もう一つ違憲判決が多いのは、政教分離に関する領域です。そして、信教の自由を保障した憲法20条と婚姻の自由を保障した24条は、ともに条文の文言が長い。なぜ長いのかといえば、明治憲法の社会に巣食っていた悪弊、すなわち国家神道と封建的な家族制度の双方と、はっきりと別れるべきだということを憲法典にしっかりと刻むためです。もうこういうこととはお別れしましょうとはっきりいうために、しっかりと書き込んだのです。
 そういう条項に関する分野で違憲判決が多いということは、とりもなおさず新憲法の趣旨が実現されていない、封建的な家族制度や国家神道など、明治憲法的な残滓が払拭されずに残っていることの証左と言えるのではないでしょうか。
 その意味からも同性婚訴訟に勝利することは、性的マイノリティの人権救済にとどまらず、日本社会が真に旧憲法と決別するためにも重要なのです。ジェンダーや同性婚をめぐる一連の訴訟の帰趨が日本社会の近未来を決する分岐点になる、若いみなさんの双肩にかかっているということをお伝えして締めくくりたいと思います。

こまむら・けいご 慶應義塾大学法学部教授。1984年慶應義塾大学法学部法律学科卒業、1989年同大大学院法学研究科博士課程単位取得退学。主な著書に『憲法訴訟の現代的転回』(2013年、日本評論社)『テクストとしての判決』(2016年、有斐閣)『Liberty 2.0』(2023年、弘文堂)『主権者を疑う』(2023年、筑摩書房)など。

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