第690回:「弱者」「かわいそう」と言われると腹が立つ問題。の巻(雨宮処凛)

 「(前略)だまされたかわいそうな人間として扱われると腹が立つものです。私自身、取材がてら出演作品の販売停止の手続きを進めようとしましたが、支援団体から『かわいそうな人』との扱いをされ、しんどくなって途中でやめてしまった」

 この言葉は、9月4日の朝日新聞夕刊「オトナの保健室」に掲載された峰なゆかさんへのインタビューのものである。「元女優が見たAV業界」のタイトル通り、峰さんは元AV女優で漫画家。作品には『AV女優ちゃん』などがあり、自伝的要素を含むという本書では2000年代のAV業界を描いているという。AV出演強要問題についても取り上げられているらしい。

 「強要を訴えた女性を、複数の女優が攻撃する心理について、『かわいそうな人間だと思われたくないから』と評しました」とインタビュアーに答えて彼女は言う。

 「実際、複数の女優が『強要なんてない』と発言していました」

 それに続くのが、冒頭の言葉である。

 これを読んで、思わず膝を打った。「かわいそうな人間」と思われたくない、という部分に思いあたることが多々あったのだ。

 9月3日に出演したアークタイムズでも、それに近いことを話した。AV出演強要問題とは関係なく、格差社会におけるいわゆる「弱者」的立ち位置にいる人が、なぜ為政者マインド、経営者マインドなのかをテーマに話したのだが、そこで「弱者」という言葉は非常に取り扱い注意であることを話したのだ。

 なぜか。

 それは峰さんの言う通り、誰もが「かわいそうな人間」などと扱われると腹が立つからである。というか、「憐れむ」ことは一種の暴力だと私は思う。

 よく重度の障害や病気のある人に対して、「こんなになってまで生きたくない」「自分だったら安楽死を選ぶ」などと口にする人がいる。それは「憐れみ」から発されている場合もあるが、もしその言葉が自分に向けられたらどうだろう。

 例えば超大富豪に「週5日働いて年収が数百万円なんて、そんなに悲惨な人生だったら安楽死したい」と言われて傷つかない人はいるだろうか。

 誰もが自分を「弱者」などと思っていないし思いたくない。

 それを痛感したのは、困窮者支援の現場で活動するようになってからだ。

 ある冬、衣服がボロボロで手もアカギレだらけの野宿のおじいさんに生活保護の利用を勧めたことがある。そうすると、おじいさんは「自分なんか恵まれているから大丈夫、もっと大変な人がいるのだからそっちの方を助けてあげて」と言ったのだ。

 自転車に全家財道具を積んで移動するおじいさんは「恵まれている」とはほど遠く見えた。が、生活保護の利用には決して首を縦に振らなかった。そうして何度も「自分より大変な人はいる」と繰り返すのだった。結局、説得は失敗に終わり、おじいさんが欲しいと言った薬に加えて食料を買って渡すことしかできなかったが、以降、同様のことを口にする人とは多く出会った。

 よく自民党議員なんかが「本当に困っている人」という言葉を使い、「大して困っていない人」が福祉を利用しているかのような印象操作をする。

 が、「本当に困っている人」という認識は、当事者にこそ刷り込まれているのだ。自分はそこには決して含まれない。だからこそ、制度を利用しようとも思わないし、助けを求めようともしない。助けられるとも思っていない。なぜなら自分はまだ「マシ」だから。そしてまだ「マシ」という自己認識が、その人自身を支えている重要な柱でもあるから。

 自分に置き換えてみるとよくわかる。

 私は19歳から24歳までフリーターだったが、その時の自分を「弱者」だなんて思ったことは一度もなかった。うっすらと「底辺」なんだろうなという思いが浮かぶたびに、慌ててその思いを打ち消した。もし当時、私に「弱者」とか「社会の犠牲者的」なことを言う人がいたら、その人のことを大嫌いになっていただろう。

 なぜなら自分は同情される対象などではなく、自ら「好き」で「選んで」やっているのだから。今思えば、当時はものすごく少ない選択肢しかなかったのだが、とにかく自分の意思で選んでやっていると思っていた。だから、独裁政権などの自由のない社会の犠牲者などとは同じにしないで、と。

 同時によくフリーターの友人と話していたのは、自分たちは他の貧しい国の人と比べたら全然マシということだった。だから日本に生まれた自分たちは恵まれてる、それで文句を言うなんて贅沢すぎるということを確認しあうように話していた。フリーター時代、右翼に入った背景にはそんなところもあると思うのだが、今思えば、自分について幸運だと思うことが「日本に生まれた」くらいしかなかったとも言える。

 しかし、そういったロジックを突き詰めると、「先進国に生まれた」人間はひとつの不満も言えなくなってしまう。こういうあり方を「犠牲の累進性」ということは以前も書いた通りだ。

 例えば、日本の非正規雇用者が「低賃金でつらい」と言ったら「ホームレスよりマシ」と言われ、ホームレスが「大変だ」といったら「難民キャンプの人よりずっとマシだ」と言われて口を塞がれるようなやり方。その方法でいくと、どんどん「さらに厳しい方」と比較され、「大変だ」という資格がある人はいなくなってしまう。

 さて、このように当事者であっても「自分はまだマシ」と思ってしまう心性が刷り込まれたジャパンで、自民党総裁選と立憲民主党代表選がメディアで報じられている。

 今回、党員でない私たちに投票権はないわけだが、長らく「強きを助け弱きをくじく」ような自民党が政権を握り、生活保護基準引き下げなど、あからさまな弱者切り捨ての政治を続けてきた。

 そんな中、少なくない野党は「弱者」に優しい政策を訴えてきたものの、そんな野党への支持が高まっているかと言えば決してそんなことはない。逆に、苦しい立場にいる人ほど自分たちをさらに苦しめる自民党を支持するような逆説を多く目にしてきた。

 もちろん、同様の立場の人が野党を支持する姿もあるが、この国のもっともボリュームゾーンである支持政党なしの人々の多くが、生活が苦しかろうとなんだろうと、弱者支援を掲げる政党に冷淡という印象だ。

 冷淡どころか、「弱者を助ける」的な態度が毛嫌いされている気さえするのだ。

 「弱者を救う」イコール、働かずに楽して怠ける「福祉のフリーライダー」を助け、「頑張って働く自分たち」が放置される、自分たちから搾り取った血税が「怠ける弱者」にばらまかれるといったようなイメージ。本当はフリーライダーなどほぼ存在しないのだが(この国の生活保護の不正受給率は2%程度)、そんな印象を多くの人が持っている気がする。

 だからこそ、弱者を顧みない政党が、「自分の頑張りをわかってくれる」ように思えてきたりもするのだろう。

 自分がフリーターの頃を振り返れば、前述したように「弱者」なんて言われたら腹が立つけど、とにかく誰かに自分の「頑張り」は認めてほしかった。「頑張っている自分」への承認が、喉から手が出るほど欲しかった。当時、そんな「頑張り」を認めてくれるような、そんなメッセージを発する政治家がいたら熱狂していたかもしれない。

 どんなに頑張っても一定数の人は絶対に報われない社会が続くと、そして誰がいつその貧乏くじを引くかわからない世界線で暮らしていると、このように、いろんなことがねじれていくようである。

 ということで、自民党総裁と立憲民主党の代表が誰になるのか、候補者たちの言葉に今、じっくりと耳を傾けている。が、メディアは小泉進次郎氏一色で、彼が「解雇規制の見直し」なんかを口にしてるのにそれでも人気が高いところを見ると、小泉純一郎氏の時と同じことが起きるんだろうな……とすでに諦めモードにもなりつつある。

 しかし、20年近く前の小泉ブームの時と違って、この国にはもう基礎体力がない。そのことを、自民党、立憲民主党の候補者はどう考えているのだろう? ここに本気で踏み込むことからしか、すべては始まらないと思うのだ。

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雨宮処凛
あまみや・かりん:作家・活動家。2000年に自伝的エッセイ『生き地獄天国』(太田出版)でデビュー。06年より格差・貧困問題に取り組む。07年に出版した『生きさせろ! 難民化する若者たち』(太田出版/ちくま文庫)でJCJ賞(日本ジャーナリスト会議賞)を受賞。近著に『死なないノウハウ 独り身の「金欠」から「散骨」まで』(光文社新書)、『学校では教えてくれない生活保護』(河出書房新社)、『祝祭の陰で 2020-2021 コロナ禍と五輪の列島を歩く』(岩波書店)。反貧困ネットワーク世話人。「週刊金曜日」編集委員。