霞ケ関で何ができるか―政策改革の方法― 講師:奥原 正明氏

東京大学法学部を卒業後、農林水産省に入省し、農林水産大臣秘書官、経営局長、農林水産事務次官などを務めた奥原正明さん。「霞ケ関が、日本最大のシンクタンクとして世の中の動向を正確に見極め、時代に合った法制度を作っていかなければ、この国の発展は望めません」とおっしゃいます。ご自身の経験とあわせて「霞ケ関で何ができるか」についてお話しいただきました。[7月13日@渋谷本校]

霞ヶ関の仕事には、どんなものがあるか

 皆さんは霞ケ関にどんなイメージを持たれているでしょうか? 霞ケ関にはさまざまな仕事がありますが、一番重要な仕事はきちんとした法制度をつくって運用することです。私は、他国と比べて日本には過剰な規制が非常に多いと感じています。時代が変わるとともに各分野の政策も変えていく必要があります。そのためには霞ケ関がしっかりと必要な政策改革を行うことが大事です。
 まずは、霞ケ関がどんな仕事をするところかを知っていただくことも兼ねて、簡単な自己紹介をします。
 私は1979年に東大を出て農水省に入り、約40年勤めました。入省して3つ目のポストが大臣官房文書課法令審査官です。日本では重要な法律は内閣提出法案によってできることが多いですが、国会に出す前に各省で作った法案の条文チェックをするのが法令審査の役割です。ここには他省の法案協議も回ってきますから、法令審査官としての経験は、その後に自分が法律を作るときに非常に役立ちました。
 1989年からは外務省に出向して、在ドイツ大使館の一等書記官を務めました。赴任した年の11月にベルリンの壁が崩壊して翌1990年に東西ドイツが統一したため、そこから私は西ドイツだけでなく旧東ドイツも担当することになりました。西ドイツと東ドイツの農業政策の違いを見て感じたのは、日本の農業政策は東ドイツのものに圧倒的に近いということでした。要するにがんじがらめにルールが決まっていて自由に経営できず、そのために発展できないということです。3年間ドイツにいて日本に戻ってからは、日本の農業政策を西側の自由経済の政策に変えなくてはいけないと思って仕事をしてきました。
 その後、農林水産大臣秘書官などを経て、1995年に経済局農協課室長になります。このとき住専問題という国会を騒がす大事件がありました。金融機関が母体となった住宅金融専門会社(住専)が不動産業者に融資を行い、バブル崩壊後に多額の不良債権を抱えた問題です。このとき設立母体の金融機関が責任を持つのか、巨額の融資をしていた農協も責任を持つのかという大議論が起きました。最終的に、国が約6800億円も出して救済することになりましたが、このような事態を二度と起こさないようにすべきということで、後始末として農協改革のための法改正をやることになります。それを私が担当しました。
 2000年、経済局農協課長のときには、2002年に始まる銀行のペイオフ解禁に備えて、農林中央金庫(農林中金)の指導の下で全国の農協組織の金融業務を一体的かつ健全に運営する仕組みもつくりました。ペイオフ解禁によって消費者がより健全な金融機関を選ぶ時代になったときに、これまでの農協の金融のやり方のままでは対処できないという問題があったからです。
 2011年の消費安全局長のときには、宮崎県で口蹄疫が広がり30万頭の牛豚の殺処分を行ったことを受けて、家畜伝染病の防疫対策の抜本改正を担当。2011年から5年間の経営局長時代には、農地の集積による大規模化を進めるための農地バンク制度の創設、農協が時代に合わせた事業の見直しを行い農業の発展に貢献できるようにするための農協制度の改革を担当しました。そして2016年からの2年間の事務次官時代には、農業だけでなく林野・水産も含めた法改正を手掛けました。
 以上が、霞ケ関での仕事のイメージになります。

政策改革をめぐる枠組みについて

 さて、霞ケ関の職員から見て、政策改革の局面は2種類あります。ひとつはテーマが最初から与えられているケース。もうひとつは自分でテーマを設定するケースです。住専問題の後始末、ペイオフ解禁に備えた対処などは「与えられた課題」です。与えられた課題といっても、その具体的な中身を詰めて制度設計までもっていくのは簡単ではありません。しかし、自分でテーマを設定して仕事をするほうが正直言ってはるかに面白い。ただし、官僚もサラリーマンですから、自分がどのポストに就くのかは想定できません。「そのポストに就いたら何をやりたいか」という材料を、事前にたくさん準備しておく必要があります。
 政策決定の手続きですが、省内では「課長→局長→次官→大臣」と説明していくのが一般的なルートです。課長でなく、局長や次官が企画することもあります。このなかで一番面白いポストは、私の実感では局長です。映画製作における脚本家、監督、俳優の役割に例えると、次官になると国会答弁や党での説明はしないというルールがあるので、脚本や監督はできても俳優はできません。しかし、俳優がダメでうまくいかないこともあるのです。その点、局長は、この3つの役割が一人でできるから面白いのです。
 さらに、法案づくりには省内だけでなく政府も関係してきます。特に重要な法案になるほど、総理や官房長官、その意向を踏まえた規制改革推進会議などが大きな影響力を持ちます。また、閣議決定は全会一致が原則ですから、すべての省の了解をとらなくてはいけません。
 与党内での手続きもあります。与党内の政務調査会や総務会など党内のさまざまな機関の合意を取り付けなくてはいけない。これだけの手続きを経ないと法律は国会に出ていかないのです。さらに、国会に出したあとは、野党にもある程度賛成してもらう必要があります。また、マスコミをうまく使えるかどうかで法律の成立が左右されることもあります。
 政策改革を進める際の問題として、与党が基本的に全会一致主義をとっていることがあります。各議員の後ろには選挙の時に応援してくれる関係団体がありますから、そうした関係団体が反対する政策については、なかなか合意が取れません。官邸と党の力関係も大事で、たとえば安倍内閣の時には「政高党低」と言われました。つまり官邸の力が党の力より強いということです。官邸に改革意欲があれば「政高党低」、そのほうが改革は進めやすくなります。
 もう一つの問題として、国益よりも「次の選挙で自分がどうなるか」を重視する国会議員が多いことがあります。それでは結局、自分を支援する既得権団体の意向に従うことになってしまい、新しいことは何もできません。こうした問題をどう切り抜けるかが行政官の腕の見せどころなのです。

日本の農業政策の歴史

 日本の農業政策は、終戦直後の枠組みがいまだに尾を引いています。
 戦後の農地改革によって非常に小さい規模の農家がたくさんでき、生産性の低い農業構造を作ってしまいました。そして、食糧管理法という米の需給・価格を国が統制する法律が平成になるまで続きました。この法律では農協が農家から集めた米を国に売り渡すという仕組みで、農協は集出荷はしても販売努力はしないようになってしまいました。
 1961年に農業基本法ができたとき、日本は高度経済成長期のさなかでした。都市の工場労働者などの賃金が上がっていくのに農家の所得は上がらない。そこで農家の所得を他産業と均衡するようにしましょう、というのが基本法の目的で、価格政策や補助金についての規定が中心でした。しかし、そこから10年くらいたって時代は大きく変わってきます。
 ひとつは、1970年頃に食料需給が不足基調から過剰基調に変わったことです。また、農業の構造も変わり、小規模農家が多数いる状態から、「担い手」といわれる「本気で農業をやろう」とする人(専業農家や法人形態の農業経営体など)のシェアも増えてきます。 しかし、基本法を見直そうという話が出るのは、そこから20年以上たった1993年でした。
 この年にWTOウルグアイ・ラウンド交渉が決着し、ミニマム・アクセス米(※)を輸入しなくてはいけないことになったのです。農業も開放経済への移行を迫られた上、たまたまこの年は米が大凶作になりました。食料の安定供給が国民的な課題になり、初めて基本法を見直そうという話になったわけです。
 しかし、各方面からの抵抗が強く、そこから見直しの実現まで6年かかりました。その間に古い基本法の問題点を徹底して整理し、消費者を含めたさまざまな層の代表を集めた調査会を作り議論しました。6年もかけて議論したので、さすがにその結論には与党も反対できません。ようやく大きな政策転換ができたのが、1999年にできた食料・農業・農村基本法です。
 この法律のポイントは、大規模な農業経営体が農業生産の相当分を占める構造を作ること、そうした担い手に農地を集めて自由に経営展開できるようにすること、価格政策はやめてその代わりに価格が大きく下がった時に備えてセーフティネットをはる政策に切り替えることでした。

※ミニマム・アクセス米:日本が最低限輸入しなければならない量の外国米のこと

農業が産業として自立するために

 ここからは私自身が担当した農業政策の話をします。「農業は儲からない」「補助金が必要だ」とずっと言われ続けてきましたが、私は時代が変わっているのに農業が従来の仕組みに固執してきたことに問題意識をもっていました。農業も産業なのだから経済界と連携協調して改革を進め、時代に合った制度やビジネスモデルに変えていかなくてはいけない、そして儲かる産業にしていかなければいけないと考えたのです。国内の需要は人口減少・高齢化で減っていきますから、農業が産業として自立するためには輸出を含めた成長産業にしないといけません。
 2009年に農地法が大きく変わります。それまでの農地法は所有者=耕作者という自作農主義を目的に掲げていましたが、これをやめて農地を効率的に使うことを目的として書き換えました。それによって農地の賃貸借を促進する方向に切り替わり、企業も賃貸借であれば自由に農業の世界に入れるようになったのです。
 その次にできた農地バンクが、私が局長時に担当した制度です。県に一つずつ第三セクターの農地バンクをつくり、ここが所有者から農地を借り、本気で農業をやる人のところに転貸する仕組みです。農地の出し手と借り手の間には常に農地バンクが入っているので、地域の農地の相当分が農地バンクに貸されるようになれば、「本気の農業者」にまとまった大区画の農地を貸すことができるようになります。
 農地バンクができた結果として、農業が大規模化の方向に進んでいることは間違いありません。これを政策によっていかに促進するかが大事だと思っています。

農協改革のポイントと経緯

 農協改革については最初に少し触れましたが、私は下記のようなさまざまな改革を担当してきました。

・1993年 金融機関の自己資本比率規制への対処:優先出資法
・1996年 住専問題の後始末:農協改革法
・2001年 ペイオフ解禁への対処:JAバンク法
・2001年 農協職員年金の破綻への対処:厚生年金との統合法
・2015年 農業者の協同組織としての原点回帰のための農協改革:農協改革法
・2016年 全農改革:農業競争力強化プログラム

 特に大変だったのが、2015年、局長次官だったときに行った農協改革です。これは農地バンクのようにスムーズにはいきませんでした。この改革の目的は、農家の自由な経済活動であり、農協も中央会の統制を受けずに自由に経済活動できるようにすることでした。
 1947年に農協ができたときは、一人一票で加入脱退も自由、非常に自主的な組織でしたが、1954年の法改正で農協中央会制度ができてしまいます。当時、日本経済は非常に悪くなり、全国の農協で貯金の払い戻しができないところが出てきていました。そこで法改正によって、国に代わって農協の経営指導をやる中央会を、全国にひとつ、各県にひとつつくり、各農協を強制加入させました。中央会が農協の監査も指導もするので非常に強い統制力をもちます。そうなると、個々の農協の役員は「中央会の言うことを聞いていればいい」となって経営者意識が低くなり、農家のための前向きな仕事をしなくなります。
 そこで、2015年の改革では農協の原点に立ち返ろうと、強制力のある農協中央会制度を廃止することにしました。いまも中央会という名前は使えますが、強制力はなく、加入脱退は自由となっています。さらに、農家に対する農協利用の強制も一切禁止にしました。
 そもそもこの改革は、2013年に規制改革会議で農協改革が求められたことから始まります。農協側もそれに対して非常に危機感をもち、自民党の農林部会でも農協問題を検討し始めていました。過激な改革にならないよう歯止めをかけるためです。
 こうした難しいテーマのとき、私は2段階に分けて改革を進めてきました。最初の段階で基本的な考え方を固め、次の段階で具体的な内容を詰めます。最初の段階で大きな枠がはまるので、次に細部を決めるときには枠を逸脱できなくなる。そうやってジワジワと詰めていくのです。
 このときは2014年夏に基本方向を決めました。そのまま秋に2段階目をやるはずでしたが衆議院が解散してしまったので、年明けに2段階目をやるしかありませんでした。通常国会の場合、法案は3月初頭までに出さないといけませんので、非常に厳しいスケジュールです。
 短期で結論を出すために、2015年1月から2月にかけて自民党の農林部会を2週間ほぼ毎日のように開きました。普段、農林部会には30人くらい参加すればいいほうですが、農協が猛反対しているので約300人の議員が集まりました。毎回2時間議論し続けて、受け答えするのは私ひとり。そうして議論が出尽くしたところで、「あとは党の幹部に一任する」と決めてもらいました。今度は1週間、党幹部と私との間で集中討議です。こうして難しい改革の骨子をとりまとめて条文をつくりました。国会でも法案審議には非常に時間がかかりましたが、8月にやっと通りました。
 この間に、マスコミの力も官邸の力もフルに使っています。反対があるなかで、さまざまなルートを使って突破していくのは非常にやりがいのある仕事です。

事務次官として次々に進めた政策改革

 この農協改革法の翌年、私は事務次官になり、それまでに準備していた政策を次々と進めていきました。農業競争力強化プログラムの策定、それに伴う生乳の流通改革、農業経営収入保険制度、卸売市場法改正などです。
 なかでも農業経営収入保険制度は、10年ほどかけて準備検討を進めていたものです。これは農家が、過去数年の収入を基準にして掛け金を払い、基準よりも収入が下がったときに補填するという保険制度です。2004年に大臣官房秘書課長になったときには、この収入保険を始める準備として損害保険会社との人事交流を進め、損保のノウハウを勉強しながら収入保険の設計を始めていました。2011年、保険制度を担当できる経営局長になったときには、すぐにアメリカの収入保険制度を調査しました。そして制度の仮案をつくり、農業者との意見交換を重ね、シミュレーションも行いました。そして、2016年に事務次官になったときに省内の最終調整をしていきました。それだけ相当に長い時間をかけて実現させたものです。
 事務次官になってからは、森林や水産の分野にも手をつけています。森林改革では森林バンク法を作りました。これは要するに農地バンク法の森林版で、経営規模を大きくすることで生産性の高い林業を実現しようというものです。また、水産の分野でも規制改革を進めました。改革の中身としては、資源管理を海外同様にきちんと行うこと、漁業の競争力を向上させるため漁業許可のやり方を変えること、養殖を含めて日本の水域を最大に活用する漁業権の免許システムを整えることなどです。
 この水産改革の法案を出すときには、私はもう事務次官を退官していましたが、農水省顧問という形で条文の細部まで見ていました。そして2018年の臨時国会で法案を提出し、成立まで持っていったのです。

 私が担当したのは農水省で関わった分野だけですが、どの省でも政策改革を必要とするさまざまな分野があります。皆さんも、新聞などを見ていて「これはおかしい」と思うことが山ほどあると思います。それは、きちんと直していかなければいけないし、誰かが直さないと、この先の日本は発展できません。
 民間から声を上げていただくことも大事ですが、政策改革はやはり霞ケ関でなければできない仕事です。制度をつくる霞ケ関がきちんと仕事することが非常に大事だと、私は思っています。

おくはら・まさあき 元農林水産事務次官、東京大学公共政策大学院客員教授。1979年東京大学法学部卒業後、農林水産省に入省。農林水産大臣秘書官、大臣官房秘書課長、経営局長、農林水産事務次官などを務める。2018年に退官。主な著書に『農政改革―行政官の仕事と責任―』(日本経済新聞出版)、『ビジネスパーソンのための日本農業の基礎知識』(信山社新書)、『組織はリーダー次第 失敗する9タイプ』(信山社新書)、共著『文系・理系対談 日本のタコ壺社会』(日経プレミアシリーズ)など。

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