アメリカ・イリノイ州シカゴに暮らし、教員として大学で社会学系のクラスを担当している小嶋亜維子さん。以前に、ドキュメンタリー映画『アイアム・ア・コメディアン』をアメリカの学生たちと鑑賞した際のことをマガジン9に寄稿してくださいました。その小嶋さんに、シカゴで暮らし、教育現場に携わるなかで感じたこと、考えたことを短期連載していただきます。
「日本に興味がある」「日本が大好き」という学生たち
9月から新学期が始まった。アメリカ・イリノイ州のシカゴ芸術大学で社会学系の授業をいくつか担当しているのだが、このうちGlobalizing Japanese Pop Culture(グローバル化する日本のポップカルチャー)という授業だけは、シカゴ芸大に加えて日本研究学部があるデポール大学でも教えている。
どちらの大学でも、学期初めには履修生に、この授業を取りたい理由、好きな日本のポップカルチャーなど簡単なアンケートに答えてもらっている。シカゴ芸大の方では村上隆や奈良美智などの現代アーティストが好きだという学生や、コム・デ・ギャルソンやA BATHING APEを挙げるファッション科の学生など芸大ならではの回答があり、一方デポール大の方は、日本語を何年も学習している中・上級者がいたり、日本のテレビゲームについて熱弁するゲームデザイン科の学生がいたりと総合大学の特色があらわれる。
しかし総じて、どちらの大学でもほとんどの学生はアニメ、漫画や「kawaii」ものが好き、ラーメンや日本のお菓子が好き――そうしたことを入り口にしての「日本に興味がある」「日本が大好き」という回答で、私にとっては出身国の社会・文化に興味をもってもらえていることへのシンプルな嬉しさを抱くと同時に、彼らの無邪気さに多少面食らうような気持ちになる。
また中国、韓国、台湾系の学生を中心に、日本に行ったことがあるという者も毎年かなりたくさんいる。その旅行が楽しかったこと、また行きたい、違う街にも行ってみたいという感想を読んでいると、必ずしも日本での外国人観光客に対する言論が優しく歓迎的なものだけではないことを知っているだけに、ますます色々と考えてしまう。
いずれにしても、Globalizing Japanese Pop Cultureの授業では、学期初めの学生たちのワクワク度を特に強く感じるのだが、最初の2週間はあえて彼らの高揚感を抑えるように厳しく硬質な雰囲気を出すようにしている。「ポップカルチャー事象を入口にした現代日本社会学の授業」であるということを学生たちにはしっかり理解して臨んでもらわないといけないし、またそもそも彼らの「日本が好き」という言説自体から問い直す批評性を身につけてほしいというのがその理由だ。
好きだからこそ対象を批判的に見つめる
手始めに第一回の授業で「この授業は何か (What this course is…)」と、「この授業は何ではないか (What this course is NOT…)」 を以下のように説明する。
この授業は
- 日本のポップカルチャー事象を探求するための基盤となる基本的な社会学的概念や視点の紹介
- 日本のポップカルチャーを理解するための、戦後から現代までの歴史、政治、経済及び社会の概観
- アニメ、漫画、その他のポップカルチャー事象について学問的目的なしにおしゃべりする場
- 日本やその文化を批判的に検討することなく称賛する場
であり、逆に、
ではない。
「好き」という気持ちは直感的で非論理的であるからこそ、しばしばその対象の本質を見えなくさせてしまう。むしろ好きだからこそ、その対象を批判的に見つめることで、自身の関わりをより強めることができるだろう。
というわけで、学期が始まって1カ月間は社会学の基礎概念を概観することに徹する。構造と主体、階級、文化資本、国民国家論、伝統の創造、フェミニズム、ポストフェミニズムなどのテーマで様々なテキストを浅く広く読ませ、それに基づいたディスカッションを学生主導で行う。学生には持ち回りで司会を務めてもらい、文献に対する感想や混乱した点、疑問点などを自由に議論させる。
文献の精密な読解よりも、社会学的な思考を自身のツールとして活用できるようにすることが目的であり、そのためにも学生が主体的に学べる環境作りを意識している。私がディスカッションを主導すると、どうしても「正解」を持つ教師として見られてしまうため、オブザーバーとして見守るようにしている。
せっかくアニメの話ができると思って履修したのに、面食らいがっかりする者もいるが、こうして1カ月が過ぎるころには学生たちは単なる「アニメ好き」「日本好き」だった頃よりも、より深く日本のポップカルチャーを考察する準備が整ってくる。
そこからは毎週、個別のポップカルチャー事象を取り上げる。「ハローキティ」の週では戦後日本における「少女」という主体の変容と「かわいい」という概念をフェミニズムと資本主義の視点から考えたり、「特撮」の週では核の歴史の表象と戦後日本における「正義」の意味を日米安保体制のコンテクストにおいて読み解いたりというように、最初の1カ月で読んだ理論や概念を応用しながら個々の事象を考察する。
そうした批判的検討作業を続けていくうちに、彼らはそれまで無自覚に使っていた「日本は」という主語が、実はそれほど自明ではないということ、「日本」を一つの主語として扱った瞬間、その中の多様性、格差、差別が一瞬にして見えなくなってしまうことに気づき始めるのである。
「礼儀正しく、親切」な日本での差別
特に学生たちを混乱させるのは、日本社会の中にある近隣諸国への差別的なまなざしだ。人種として「アジア人」とひとまとめに扱うことが一般的なアメリカにおいて、日本人、韓国人、中国人、台湾人、タイ人、ベトナム人、など、国籍での出自の区別がされる機会は限られる。場合によってはChinese(中国人)がAsian(アジア人)の同義語として使われることもある。これは世界史、国際情勢に対する一般的アメリカ人の関心のなさによるところも大きく、私自身、シカゴ市のある要職につく人物から日本人なのになぜチャイナタウンに住んでいないのかと真面目に聞かれたときには(※1) 、この地位にいる人間ですらこの程度の認識なのかと失望したことがある。
そうした中で、一般の人たちより多少は日本、中国、韓国の区別ができる学生であっても(よほど東アジアの近代史や政治情勢を学んだ者でない限り)、その間の深い摩擦を理解しているものは少ない。たとえば、彼らはJ-PopとK-Popの音楽性や歌手のスタイルの違いなどは説明できるが、日本において韓国エンターテインメントを執拗に拒否・攻撃する人々がいることは知らない。「嫌韓流」という臆面もないヘイト・スピーチが、あろうことか自分たちの愛する漫画という表現手法をとったことを知ると、学生たちはショックを受けてしまう。
「礼儀正しく、謙虚で、親切」であるはずの日本人がそのような暴力的な憎悪を他者に向ける――それも同じアジア人である韓国人や中国人に対して――ことへの驚きととまどいは、一つには先に述べたように、近現代アジア史に対する無知からきている。2〜3世代上のアメリカ人にとっては、日本といえば枢軸国・大日本帝国であり、その国民は残忍で無謀な敵“Jap”であったわけだが、日米安保体制下、日本のイメージは見事なまでに変化している。日本政府が国際社会に向けて発した「おもてなし」ができる国、国民というメッセージは(私は寡聞にして日本以外で話題になったのを知らないが)、若い世代にとってはJapよりはよほど違和感のない「日本人」観(※2)だろう 。
※1:これは典型的なマイクロアグレッション(無自覚、あるいは無理解からくるステレオタイプの押し付けや偏見)の一事例とみることもできる
※2:一方で、アメリカの若い世代にとっては、この日本人観の変化により、自国による原爆投下を批判するハードルが下がっていることも指摘しておきたい
「ガングロ」は「ブラックフェイス」なのか
もう一つ、日本人による韓国人・中国人差別への学生たちの混乱は、アメリカにおける人種差別と日本における人種差別のあり方の違いにも起因している。黒人やラティーノであることは外からどうにも隠しようがないアイデンティティである。それに対し、生存戦略として名前や本来のアイデンティティを公にしないまま生きる選択をする在日コリアンの人々がいるという事実は、学生たちの知る人種差別=白人至上主義からは想像がつかない。アメリカのような白人中心社会でなくても、人種差別が起こるということ、それぞれの社会の歴史的背景、地域的特性などを見ていかなければ本質的な問題を理解できないということを議論していく。
例えば90年代のサブカルチャーであった「黒ギャル」や「ガングロ」についての文章を読んで、「これはブラックフェイスだ!」と即座に反射する学生が毎回いる。ブラックフェイスとはアメリカなどで20世紀初頭に流行した、白人が顔を黒塗りにし黒人を演じるエンターテインメントである。人種的ステレオタイプを強化するものだとして、1960年代公民権運動の高まりにより問題視されるようになり現在では差別的であると認識されている (※3)。
では、日本人の女子高生が日焼けサロンに通い、濃褐色のファンデーションを塗ることはどうなのか。彼女たちは日本社会における「正統な」女性の美的基準である白い肌へのアンチテーゼとして黒い肌を選んでいた。色白を美とする感覚は白人至上主義、黒人差別に結びつきえる。しかし日本の文脈においては、色白の賛美は白人、黒人の存在以前から見られたものであり、むしろ階級性との関連が深い。色白は野外労働をしないことの象徴だからである。このように考えると、ガングロギャルたちが表明しているのは、上流階級の女性を規範とした伝統的な美的基準の否定であり、主流の価値観への抵抗だといえるだろう。
※3:ちなみに1964年公民権法成立までアメリカ南部の州でバスや水飲み場、学校など、白人と黒人の施設を分離していた一連の法律の総称をジム・クロウ法というが、このジム・クロウ(Jim Crow)とは1830年代のブラックフェイスのキャラクターの名前であり、黒人の蔑称である
「差別する意図がないのだから差別ではない」という主張
一方で、2017年の大晦日のバラエティ番組で、お笑いコンビ・ダウンタウンの浜田雅功が黒人俳優エディ・マーフィーのモノマネとして顔を黒塗りにして登場し、日本在住の黒人などから批判を受けたという事件があった。学生にはこの新聞記事も読ませる。ブラックフェイスの差別的歴史はアメリカとヨーロッパに特有で、日本ではあまり知られていない(※4)。番組側は「知らなかったゆえの黒塗りだった」と釈明した。
黒人を演じるために顔を黒塗りにしたのであれば、結果としてブラックフェイスには違いなく、これだけコンテンツのグローバル化がすすみ国内の人種多様性も拡大する中、その問題を指摘されたのであればそれ以降の再発防止に努めればいいのではないか、というのが学生たちの反応である。しかしSNS上ではしばらく炎上が続き、その多くは「差別する意図がないのだから差別ではない」と番組を擁護するものだったということを知ると、彼らはまた考え込んでしまう。
なぜならアメリカでは差別、不正義の議論において意図(intent)と結果・影響(impact)の違いがよく指摘されるからだ。ある行為により被害が起きたとしたら、問題は結果として被害がおきたという事実であり、その行為の意図ではない(Impact matters more than intent.)。意図せざるブラックフェイス事例に対して頑なに非を認めない言説そのものにこそ、日本における人種差別の根深さを感じるのであろう。
※4:1980年代にはシャネルズ(現ラッツ&スター)という黒塗りコーラスグループが流行していたが、そのときは大きな問題にもならなかった
「親日/反日」によく似た「親米/反米」
このように日本社会の特有性に注意を払いながら、同時に、日本とアメリカの問題の共通性を見出していくことも、安直な日本特殊論・アメリカ特殊論に陥らないために大切な作業である。たとえば「日本好き」な学生のなかには文字通りの意味だけで「親日」を自称してしまうことがおこりえる。
しかし近年、日本における右翼的な言説のなかで多用される「親日/反日」という二分法において、「日本」とは保守的な価値観に基づいた限定的な日本の在り方であり、その守護者たる自民党政権を批判することは、たとえ日本社会を思う故であったとしても、「反日」とみなされる。
このコンテクストは、実は最近のアメリカにおけるpro-America/anti-America(親米/反米)とよく似ている。この場合の「アメリカ」はメインストリーム、つまり中上流階級白人の価値観に基づいたアメリカであり、最も本来の意味の「アメリカ」であるネイティブ・アメリカンのアメリカや、多様性と民主主義のアメリカではない。
2016年、フットボールチーム、サンフランシスコ・フォーティナイナーズの選手であったコリン・キャパニックは、試合前の国歌斉唱の際に起立せずひざまずき、斉唱を拒否した。警察による黒人への暴行や殺人が相次ぐ中、アメリカ社会における人種差別への抗議としての行動であった。しかし当時のトランプ大統領が「気に入らないならよその国にいけ (Maybe he should find a country that works better for him.) (※5)」と発言したように、キャパニックの抗議行動はanti-Americaであると批判され、最終的に彼はNFLを追われた。学生たちがよく知るキャパニックの事件は、親日/反日の二分法における「日」の定義の問題に重なる。
※5:Cancian, D. (2020, June 8). Everything Trump has said about NFL kneeling so far. Newsweek. https://www.newsweek.com/everything-donald-trump-said-nfl-anthem-protests-1509333
日本の教科書問題は「遠くの国の余所ごと」ではない
こうした類似性の指摘の中で、今起きていることとして実感を持って学生にうけとめられるのが、日本における歴史教育をめぐる論争である。90年代後半、従軍慰安婦問題への反動を機として、近現代日本の侵略政策、戦争犯罪の批判的な検証に基づく歴史観を「自虐史観」と呼ぶ勢力があらわれた。「戦後の歴史教育は日本の負の側面ばかりを強調しすぎているので、もっと自国に誇りを持てるような歴史教育をすべきである」というのが彼らの主張である。それによると歴史教科書に何を記載し何をしないかの選択において、愛国心、誇りというイデオロギーが実証主義的史学に優先されることになる。
一方、アメリカでは2019年、ニューヨークタイムズの記者、ニコール・ハナ=ジョーンズが批判的人種理論(Critical Race Theory, CRT)の立場からアメリカ合衆国史を再検討する「1619プロジェクト(The 1619 Project)」を、『ニューヨーク・タイムズ・マガジン』の特集号として発表した。通常アメリカ合衆国史は1776年の独立宣言をもって建国、国の始まりとする。しかしこのプロジェクトでは、1619年にアフリカから奴隷化された人々がバージニア植民地(現在のバージニア州)に到着した出来事をアメリカ合衆国の礎の確立ととらえ、そこから400周年にあたる2019年に「正史」を批判検証したのである。
ピューリッツァー賞を受賞したこのプロジェクトは、その後ポッドキャスト、本、絵本、授業教材など様々な媒体に発展し、ドキュメンタリー版はエミー賞も受賞するなど、批判的人種理論を学術的な場から一般に広めることに貢献した。しかし翌2020年、当時のトランプ政権は、1619プロジェクトをはじめとする批判的人種理論に基づいた教育は、白人の子どもに罪の意識を植え付ける「児童虐待(a form of child abuse)である」とし、「親米的なカリキュラム(Pro-American curriculum)」「愛国的教育(patriotic education)」を推進すべく「1776諮問委員会(The 1776 Commission)」を設置した (※6)。
この委員会による報告書「1776レポート(The 1776 Report)」は2021年1月、バイデン大統領就任の2日前に発表されたが、その不正確で虚偽的な内容はアメリカ歴史学会はじめ47の学術団体の連名により強く非難され(※7)、バイデンは就任とともに即日委員会を解散した。しかし現在でも18の州では批判的人種理論を学校で教えたり、関連の本を公立図書館に置いたりすることが禁止されている(※8)。学生の中にはそうした州の出身者もおり、シカゴという大都会のリベラルな大学に来て初めて、人種差別や性的マイノリティについて話すことがタブーではない環境を経験している。彼らにとって日本での史観論争、教科書問題は遠くの国の余所ごとではなく、自らが直結する世界的な問題、世代の問題なのである。
ちなみに、日本における在特会(在日特権を許さない市民の会)など、「行動する保守」について授業でとりあげるときには、──これもプラウドボーイズ(※9)やQアノン(※10)などアメリカでの事象との類似性も指摘しながら──、個人的に韓国系の学生にあらかじめ話をするようにしている。学問的目的があるとはいえ彼らに向けたヘイトスピーチを目にすることになるので、もし希望するなら教室の外に出ることも許可している。しかし今まで一人もそうすることを選んだ者はいない。むしろ「ああ、知ってます」「ニュースでもっとひどいの見てますから大丈夫です。ありがとうございます」とこちらへの気遣いさえ見せてくれる学生もいていたたまれなく、またこんなことに彼らを慣れさせてしまっている現状に憤る思いがする。
※6:Trump, Donald J. “Remarks by President Trump at the White House Conference on American History.” The White House. September 17, 2020.
※7:American Historical Association. “AHA Statement Condemning Report of Advisory 1776 Commission.” January 20, 2021.
※8:Sawchuk, Stephen. 2024. “Anti-Critical Race Theory Laws Are Slowing Down. Here Are 3 Things to Know.” Education Week, March.
※9:北米の極右、ネオ・ファシスト集団。白人至上主義、男性優位を掲げ、トランプ前大統領を支持し、2021年1月6日のアメリカ合衆国議会議事堂襲撃事件に参加、多くのメンバーが逮捕されている
※10:アメリカの極右陰謀論を信奉する人々による運動。明確な団体はなく匿名掲示板、ソーシャルメディアを中心に、民主党政治家や著名人が小児性愛の秘密結社によって世界を支配しているという陰謀論を拡散、トランプ前大統領がその秘密結社と戦う救世主であるという説を展開している、カルトに近い運動である
「自分はなぜそれが好きなのか」を考える
いつも最終回の授業には、私の友人で日本のポップカルチャー、特にアニメに詳しい元・雑誌編集者のカーミラ・キュプリッツをゲストに迎えてのディスカッションをしている。
カーミラは2000年代初頭にアニメ、コスプレやビジュアル系J Rockを紹介する英語雑誌を創刊、編集していた女性で、オタク・カルチャーの英語メディアのパイオニアである。当時では今よりもなお一層めずらしかった黒人の女性として(しかも “weeb” と揶揄されるような強烈な日本マニアではなく、日本語もあまりできないアメリカ人としてのアイデンティティを保ったまま)、アニメファンコミュニティに飛び込んで行った彼女の体験談と洞察は何度聞いても興味深い。
彼女によると、日本における黒人のイメージは、実は白人中心的な西欧メディアにおける黒人の表象から来ているという。例えばアニメにおいて色の黒い女性や黒人男性が性的に奔放なキャラクター付けをされることが多いのはまさにこれにあたる、という彼女の指摘は毎回学生たちに衝撃を与える。彼女自身、直接侮蔑的な言葉や態度をぶつけられるような差別はアメリカでしか経験したことがないそうだ。その一方で、日本では電車に乗っていると知らない間に自分の周りに空間ができていたり、温泉で一斉に好奇の目を向けられたりという経験が多いという。
雑誌編集を退いた今もオンラインのファン・コミュニティの管理人をし、年間何百というアニメを見ているカーミラと、ファン、人種、差別、コミュニティの交錯する地点について、現在進行形のディスカッションをすることは、学生たちにとってこれ以上ないこの授業の締めくくりとなる。むしろ私は、カーミラと有意義なディスカッションができるように学生たちを一学期かけて準備させるのが自分の仕事であるとすら思っている。
授業の最後は私の恩師である、フランス文学者で詩人の故・井上輝夫先生の言葉で締めくくる。
〈何か好きなものがあったら、自分はなぜそれが好きなのかを考えなさい〉
学生たちには「たとえ時間がかかっても、自分がそれを好きな理由を一生懸命考え続けなさい。そのためにはその背景や歴史を勉強し、調べ、研究し、思考をめぐらせることが必要でしょう。社会学のツールがその一助になってほしいと思っています。10年、20年、あるいは一生かかるかもしれない。けれどいつかその理由がわかったときというのは、自分の人生にとって何が重要かということ、人生の意義がわかるということです」という私なりの解釈を伝えることにしている。
「アニメが好き」「日本が好き」という無邪気な動機で私の授業に集まってきてくれた学生たちに、その純粋な気持ちと情熱を鍛錬し磨き上げて、何かこれからの人生を探究するためにつなげてくれれば、という、少々大仰な願いをこめて毎回授業を終えている。