学術交流を通じた平和貢献 講師:髙山佳奈子氏
世界では武力紛争や人権侵害が止むことはありません。刑法学者である髙山佳奈子さんは、研究者として教育者として、学術交流を通じた平和貢献に携わってこられました。国際学会、法学教育の現場において、どのように他国の研究者や留学生との信頼関係を構築されてきたのでしょうか。ロシア、イスラエル、中国との関係も含め、これまでの国際的な取り組みについてお話しいただきました。[2024年8月3日@渋谷本校]
国際交流に携わることになった経緯
今日は「学術交流を通じた平和貢献」というテーマで、研究者の立場からお話しいたします。
なぜこのテーマなのか。今、世界の情勢は刻々と変化しています。ウクライナとパレスチナなど各地で戦争や人権侵害が起きているときに、自分のとるべき行動を考えず何もしないとしたら、その「何もしない」ことにも責任が生じると思うのです。
私自身はもともと国際的な素地をもっていたわけではありません。研究の道に進んで刑法を専門にしたため──日本の刑法はドイツ法の影響を受けていますので──1998年から2年間ドイツのケルン大学に留学しました。帰国後、国際刑法学会に参加し、国際交流に深く関わるようになり、2004年から同学会の常務理事をつとめています。
京都大学大学院法学研究科の助教授に就任した2000年代は、アジア諸国からの留学生が増えてきた時期でした。また、名古屋大学大学院の国際コースでも20年ほど留学生に刑法の講義をしていました。
アジア諸国からの留学生への指導
私が名古屋大学大学院で教えていた留学生の多くは、発展途上国で公務員や法律家として仕事をしていた優秀な方たちです。彼らの母国のなかには、講義をしていた20年の間に体制が大きく変化した国もありました。
例えばミャンマーは、軍事政権下で男子は出国できず、留学生には女子学生しかいない時期がありました。日常の行動も制限されていました。それが民主政権に代わって、男子も留学できるようになったのに、また軍事政権に戻ってしまいました。
その他のASEAN(東南アジア諸国連合)の国々や、中央アジアの国々からの留学生もたくさん来ていましたが、いくつかの国では政変が起こったり、国外にいる彼ら学生に対する監視が厳しくなったりしたこともありました。そうしたときは、私たちも常に最新情報を集めて、留学生が研究テーマを選ぶ際の指導などにも注意をしなくてはいけません。母国の事情を考慮せず、「こういう研究をしてみたら」と私が働きかけた研究テーマの内容が母国の体制に合わなかった場合、危険人物とみなされて目をつけられることも起こりかねないからです。
また現在は、どこの大学でも、中国人留学生の数が増えています。香港、台湾からの留学生もいます。中国で2012年に習近平政権が誕生した当初は、中国、香港、台湾の研究者同士、自由に議論ができていました。ところが、2023年に改正されたスパイ防止法(中華人民共和国反間諜法)の規制強化によって、中国と台湾の研究者がシンポジウムで同席することができなくなりました。
一方で中国の刑法学会は近年、世代交代がありまして、私と同じ世代の人たちが役員の中心を占めるようになりました。彼らとは長い間、学術交流を通じて一緒に共同研究をやってきた友人同士です。そのため今は中国の大学の教授が、京大の私の研究室に若手研究者を留学生としてどんどん送り込んでくれるということも起きています。
国際刑法学会における研究者のつながり
2022年、ロシアによるウクライナ侵攻が始まりました。京大では大学の方針として、ウクライナからの留学生の受け入れ枠を増やすことを決めています。
侵攻が始まった当時、ウクライナのハルキウにいる旧知の教授から私のところに「自分の研究室にいる学生に、安全な日本で研究を続けさせたい」という連絡がありました。その学生は親戚が東京にいるので「東京の大学で受け入れてくれるところはないか」とのことでした。いろいろな学会の知人に声をかけると、東京周辺のいくつかの大学が受け入れを了承してくれました。研究者は、このような不測の事態で対応を求められることもありますので、普段から他大学とのネットワークをつくっておくことは不可欠だと思いました。
ウクライナから連絡をくれた教授は、国際刑法学会で知り合った方です。国際刑法学会は1924年に設立された学会で、国際政治においては中立の立場をとっています。
学会には世界のさまざまな国から参加があり、研究者個人の政治的立場はバラバラです。しかし、基本的には、国同士が対立していても一緒に活動しています。たとえば旧ユーゴスラビア諸国の研究者同士が民族の違いでいがみ合うなどということはありません。国別部会でも、以前はロシア部会とウクライナ部会は共同研究をやっていました。今は大変な状態になっていますが、ロシアとウクライナの共同研究がまた再開できるようになってほしい、というのが学会のみんなの共通の思いです。
ウクライナとパレスチナ侵攻による影響
ロシアによるウクライナ侵攻は、法学教育にもいろいろな形で影響を及ぼしています。
私は、名古屋大学大学院でのつながりからロシアのサンクトペテルブルグ大学でも非常勤講師をしていました。コロナ禍の前は現地のキャンパスに通って、英語で日本の刑法の講義をしていたのです。コロナ禍ではオンライン講義になり、やがてロシアのウクライナ攻撃が始まりました。
この後、日本政府は、ロシアに対して経済制裁を行う方針を決めましたが、ロシアと交流のある研究者がどうするかは、個人の判断に委ねられました。私自身は悩んだ上でボイコットを決断し、「授業を中断します」という連絡をお送りしました。
これは、とてもつらい決断でした。私の授業を受けていたのは、日本が大好きで日本の刑法を学んでいる女子学生がほとんどです。彼女たちはプーチン政権を支えてきたわけではなく、何の責任もないのに、私は、彼女たちの勉強の機会を奪っていることになります。しかし、現実に侵攻によって生命が奪われ人権が脅かされているのです。授業を中断するという苦渋の決断をせざるを得ませんでした。
ロシア人の研究者の中にも、ウクライナ侵攻に抗議をしている方はいます。国際刑法学会のロシア部会長だった方は、デンマークに出国して今はコペンハーゲン大学に所属しています。あえて国外からプーチン政権批判の情報発信をするというリスクの中に身を投じたのです。
命がけの行動に出た彼に、私はメールで連絡をとってみました。京大は、海外からの客員研究員の受け入れは教授の裁量でかなり自由にできるので「法学研究科で受け入れができるので、必要があれば連絡をください」というメールを送ったのです。そうしたら何と、短時間で1万通くらいのスパムメールが送られてくるサイバー攻撃が起きました。慌ててサーバー管理をしている部署に知らせると、ロシアとつながりのある他の京大の研究者も同じような攻撃を受けていることがわかりました。サイバー攻撃の出どころはロシアで、プーチン政権批判をしている人物を監視していることは間違いないようです。
もうひとつ経済制裁の話をしますと、最近のことですが、イスラエルのテルアビブからメールが来ました。元裁判官の方から「京大で在外研究をしたい」との申し出です。しかし、イスラエルによるガザへの攻撃は続いていますので、「戦争が終わってからにしてください」とお伝えしました。
これも大変つらい決断でした。京都は先の大戦で空襲を受けていない地域がほとんどなので、京大は戦前のドイツの文献を多数所蔵しています。ドイツ国内や他の国でも散逸してしまったナチス以前、ナチス時代の古い蔵書もあります。今、世界の国々が差別や憎悪の問題を克服していくために、過去の過ちの歴史を調べることはとても重要です。海外の研究者がナチス時代の文献の調査をしに京大に来ることもよくあります。ユダヤ人の法律家が来られれば、それらの貴重な資料を活用し、学術的意義の高い研究ができたかもしれないのに、いったんはお断りするしかありませんでした。イスラエルからも研究者が来てもらえるように、一日も早く攻撃が止まることを願うばかりです。
研究者であり人権活動家であること
私は、さまざまな人権活動にも関わってきました。表現の自由に関わる刑事裁判の支援活動では、大阪クラブ風営法裁判やタトゥー医師法裁判などで証言をしています。また、2015年に立ち上がった「安全保障関連法案に反対する学者の会(現在は「安全保障関連法に反対する学者の会」)」での活動や、2017年に成立した「共謀罪法」の廃止を求める活動にも加わっています。政府による、日本学術会議会員候補者の任命拒否に抗議する行動も続いています。
研究者の中で、こうした活動に関わる方はあまり多くありません。特に若い非常勤の研究者は雇用が不安定なので、政治的な活動をするとポジションが危うくなるのではないかという不安があるようです。しかし、若手研究者たちから「本当は参加したい」との声を聞くことがあります。ご自身が戦争を経験している年輩の法曹の方々から「がんばりなさい」という言葉をいただくこともあります。
私たちの行っている活動に対して、海外の研究者の友人たちが応援してくれるのも嬉しいことです。研究者がどこまで政治的な活動ができるか、なかなか難しいところもありますが、しっかりと現実的に考えて行動していくことが大事ではないかと思っています。
これからの学術は人類の安全保障をめざす
今、世界の国々で武力紛争が続いています。私は研究者であり、教育者でもあります。かつてこの国の教育者は、学徒動員によって教え子を戦場に送りました。京大でも、3392人が動員され264人の戦死が確認されています。
現在は、教え子を戦場に送ることなどないだろうと思われるかもしれませんが、卒業した法学部の学生が官僚になり紛争地に派遣される可能性もあります。外交官、国連職員、医師、ジャーナリストなど、命の危険にさらされる仕事に就く教え子もいるのです。
だとしたら、教育者にできることは、そもそも戦場をつくらない努力をすることだと思います。政治体制の異なる国の留学生を積極的に受け入れて指導をする。学術交流を通じて信頼関係を構築していく。紛争地の研究者、留学生の支援をする――。そうした地道な不断の努力が、国同士の信頼と友好を高めることにつながると信じています。
先日、宇宙航空工学を研究している友人が心に残ることを言っていました。宇宙航空工学は軍事研究に関係するので、「共同研究をするのも国と国の対立があって面倒ではないですか」とたずねたら、こう言うのです。「われわれの研究は人類の安全保障のためにやっている。全世界の研究者が協力しないと成立しないんだ」と。
なるほど、そうだな、と感心しました。先端研究では、世界が一致して当たらなければ成果は上がりません。私たちが本当にめざすべきは、国際的な学術交流によって平和貢献につながる研究をしていくことではないかと、思いを新たにしています。
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たかやま・かなこ 京都大学大学院法学研究科教授。1991年東京大学法学部卒業。2002年京都大学大学院法学研究科助教授、2005年同教授。1998年から2年間、ケルン大学客員研究員に。2004年から国際刑法学会本部理事、2016年からドイツ比較法学会連携会員を務める。ドイツ連邦共和国功労十字勲章小授章ほか、ドイツの国際賞を受賞。ハンブルク大学名誉博士。主な著書に『グローバル化と法の変容』(共編著、日本評論社)、『日中経済刑法の最新動向』(共編著、成文堂)ほか。