連載陣に聞く「わたしと憲法」(小林美穂子さん)

マガジン9創刊20周年を機に、あらためて「憲法」のことを一緒に考えたいと、マガジン9で連載中の執筆陣の皆さまに「わたしと憲法」のテーマでご寄稿いただきました。

わたしと憲法(小林美穂子)

 生活困窮者支援に関わるようになって15年余り。今でこそ社会の周縁に追いやられた人たちや自分自身の「生きる権利」「幸せを追求する権利」のために、断片的で生半可な憲法・法律の知識を吐くことの多い私ですが、それまでの生活は憲法から遠く離れたところにありました。
 幼い頃に海外でのびのびと過ごした私は、帰国した後もあらゆる面で日本の子どもたちとはズレていて、未熟で、勉強も苦手でした。憲法や国の仕組みを教える授業は、なにがなにやらさっぱり分からないし、とにかく面白くなかった。それこそ、中年になって困窮者支援の世界に身を投じるまで、憲法や政治が自分の「生きる」を支える土台であることを全く意識せずに過ごしてきたのです。憲法も政治も自分とは関係のない遠い世界の話。日本に居続けたなら、そう思い続けていたかもしれません。

 2005年の春、小泉純一郎元首相の靖国神社参拝に抗議して、中国各地で反日デモが多発、一部では暴動にも発展したニュースを皆さんも覚えていると思います。
 日本料理屋のガラスが、荒れ狂う暴徒によって破られる映像をテレビで見ながら、私は「やっべー」と爪を噛んでいました。なぜなら、その一カ月後に私は上海に引っ越すことが決まっていたからです。タイミング最悪です。「なにやってくれてんだよ、小泉!」と、時の首相を激しく恨みました。

 国のトップによる外交、政治の影響は、そのまま現地で暮らす日本人を直撃します。
 あらゆる場面、特にタクシーではお喋り好きの運転手に「日本人か。小泉はどうなんだ!」と聞かれる頻度が高すぎて、「小泉(シャオチュアン)」「靖国(ジングオ)」という名詞は速攻で覚えました。私も「あいつはいけねぇ」などと答えてうまくやっていたのですが、小泉姓の同級生はそれだけでイメージが悪くなりそうで気の毒でした。いい迷惑です。
 とはいえ、当初の心配とは裏腹に、4年近くに及ぶ私の上海生活は、青春が再来したかのような、人生でも最も刺激的で楽しい学びの日々でした。プラタナスの街路樹から漏れる陽光のようにキラキラしていました。語学学校では世界各国から集まった若い同級生たちと学び、遊び、飲んで、食って語らいました。中国語をある程度会得すると、現地の人たちとの交流も増え、文化や歴史について、それはそれは沢山話しました。不惑近くになって、私ははじめて学ぶ悦びを全身で感じたのです。

 その中で、驚いたことが一つ。日本国憲法第9条は、日本の外の人たちには意外なほどに知られていないということでした。アジアや欧州の同級生たちのみならず、中国の人たちが全然知らなかった。そして、庶民、中には知識層の中にも、日本がまた中国を侵略するのではないかと強い不安感を持つ人が多いことに驚きました。過去に自分の国が、アジアの国々にいかに残虐非道なことをしたか、その傷の深さを感じずにはいられませんでした。
 「戦争も侵略もしないと日本国憲法で定められているから、絶対にないです」と説明すると、「なに? 憲法? 本当か?」と一様に驚いたあとで、安心したように表情が和らぐ。

 韓国人のクラスメートと、長距離バスに乗って郊外の動物園に行った時のこと。満席のバスの通路に立っていると、座っていた男性がクラスメートに声をかけました。
 「どこから来た?」
 友人が「韓国」と答えると、男性が席を譲ってくれ、「日本人じゃないなら」と言ったのです。よせばいいのに私が「私は日本人です」と、口を滑らせました。その時、バスの乗客全員がバッと私を振り向き、まさかの運転手までが振り向いたので「あわわ……」と後悔しましたが時すでに遅し。友人に席を譲った男性は「自分は南京出身だ」と私を睨みつけました。
 さて、そこから1.5時間ほどの旅路は、もはやフィールドスタディです。周りの乗客は参加しないまでもみんな耳をそばだてて会話を聴いており、時には小さく頷いたりしていました。
 若干、理不尽を覚えはしました。仕方がないとはいえ、韓国の友人がかばってくれないことにもちょっと傷ついていました。そもそも、戦争当時、私は生まれていません。なんで私が責められなくてはならないのでしょう。同年代のその男性も戦後生まれのはず。ただ、無残に殺された人々の血が沁み込んだ大地で生まれ、育った男性の言葉を聴く責任が、私にはあると思いました。それに、そんなぶっちゃけトークをしてくれる人は貴重です。「聴かせてください」以外の選択肢はないでしょう。
 散々思いのたけをぶつけた男性は、バスが到着する頃にはスッキリした表情で、ちょっと言い過ぎちゃったかなと心苦しくなったのか、改めて後日、上海で再会することになりました。
 再会の日、ショッピングセンターの食堂でご馳走してくれた男性に、私は中国語に翻訳された憲法第9条を渡しました。男性は小さな丸い石をびっしり敷き詰めた健康背もたれをお土産に持って来てくれました。重かったです。重さでは、憲法9条も負けないはず。
 その一件があってから、私は9条の英訳版と中国語版をプリントアウトしたものを常に持ち歩くようになりました。その威力は絶大で、民族間のわだかまりや不信感をたちどころに解かす魔法の呪文みたいでした。

 「お花畑」とか「平和ボケ」とか言われるかもしれませんが、平和を守るために必要なのは、武力以上に非戦の決意だと感じています。緊張状態にある国の国民がどちらも「やられる」と危機感を募らせることは、政治にとっては都合が良いのかもしれません。
 戦争の記憶が遠くなり、世界中が暴力に支配されている今、この国にも憲法改正を悲願にしている政治家たちがいます。9条の文言を朗読する私に、「良かった、それなら良かった」と安堵の表情を浮かべた中国の人たちや、「過去の戦争責任はミホコにはない」と言ってくれたアジアの友人たちを裏切るようなことはしないでほしいです。
 憲法も政治も、私には関係ない。そうやってのほほんと生きていた私は、上海滞在時に日比谷の年越し派遣村のニュースを見て、初めて日本の貧困問題を知ります。そうして、帰国後に生活困窮者の支援に首を突っ込むと、憲法や法律、そして政治がぐんと目のまえに迫ってきたというわけです。私は相変わらずボケーッとしていて大切なことに気づくのが遅い。それでも、気づけるのは、日本の内外で多様な人たちと出会い、それぞれの「生きる」を共有してもらえたから。その「生きる」が何によって支えられているかを知ったことが、今の私の武器となっています。

小林美穂子(こばやし・みほこ) 一般社団法人「つくろい東京ファンド」スタッフ。支援を受けた人たちの居場所兼就労の場として設立された「カフェ潮の路」のコーディネーター(女将)。幼少期をアフリカ、インドネシアで過ごし、長じてニュージーランド、マレーシアで就労。ホテル業(NZ、マレーシア)→事務機器営業(マレーシア)→工業系通訳(栃木)→学生(上海)を経て、生活困窮者支援という、ちょっと変わった経歴の持ち主。空気は読まない。著書に、『家なき人のとなりで見る社会』共著に『コロナ禍の東京を駆ける 緊急事態宣言下の困窮者支援日記』(ともに岩波書店)。
マガジン9連載:家なき人のとなりで見る社会 https://maga9.jp/category/kobayashi/

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