マガジン9創刊20周年を機に、あらためて「憲法」のことを一緒に考えたいと、マガジン9で連載中の執筆陣の皆さまに「わたしと憲法」のテーマでご寄稿いただきました。
満身創痍の女神(三上智恵)
憲法ってのは、ナマモノだ。もしかして賞味期限がとっくに切れているかもしれない。心配したほうがいい。来年で80歳になる憲法が、いつもスーパースターの如く元気に活き活きとパワーを発揮し続け、私たちを守ってくれているに違いない、と思い込んでいないか? 「不断の努力」って条件があったこと、みんな忘れてない? それ、ちゃんとやってきたっけ?
「憲法」との距離は、私も遠かった。最初の出会いは当時住んでいた千葉の小学校の教室。社会科は、世の中の仕組みを言葉で暗記させる退屈な時間で、私にとって憲法は教科書のインクの匂いしかしない、のっぺらぼうな存在だった。その憲法に俄然色がついて来たのは、30年前に沖縄に移住してからである。
沖縄県以外の国民は、敗戦後に民主主義という概念を習う。目からウロコだったと元軍国少年の父も言っていた。一人ひとりが国の主人公である、と国民主権を掲げた「憲法」が動き出すのを、国民は徐々に、戸惑いと希望の中で受け止め、やがて当たり前になっていった。
ところが沖縄県だけは違った。敵味方二十万余の遺骨がまだ散乱する島に、今度は異国の軍隊の基地が次々に出来上がっていき、気づけば日本が独立を回復しても沖縄だけはアメリカ軍に占領されたままになった。そう、沖縄にだけは憲法が適用されなかった。主権者になれなかったのだ。
土地を取り上げられても財産権が保障されない。米軍に家族が轢き殺されても、相手は治外法権で沖縄県民の人権は誰も守ってくれない。憲法がない、人権がないということがどれほど惨めなことなのか。それを私は5月15日がくる度に「復帰報道」に携わり、取材の中で思い知ることになる。憲法の実力を、憲法が指し示している理想の高さを思い知る。千葉県の小学生には全く想像もできなかった「憲法のない世界」の悲劇を知るたびに打ちのめされ、同時に、27年間も暗闇に放り出されていた人々にとって「憲法」の下に入るということはどれほど安心で、希望で、もう泣かなくても良い世界への入り口だと思えたかを年々実感していった。
「憲法はね、暗い海で荒波に揉まれる小舟だった私たちにとって、唯一の灯台の光だったの」
沖縄戦のフィルムを収集する「1フィート運動の会」をけん引した沖縄平和運動の母・中村文子さんは、よく憲法をこのように表現した。黒い高波に遮られ、灯台の光が時折見えなくなっても、あっちだ。あそこに行けば陸がある。守ってくれる憲法もある、とその光を凝視した。あの光の場所に到達すれば、他の日本人のように戦後復興の波に乗って、希望を持って進んでいける。針路を「憲法」に取ることで、いつ終わるかもしれぬ「占領」という嵐の海を渡っていったのだ。それが「本土復帰」を達成する原動力になっていった。
憲法に憧れて、憲法手帳の小冊子を常に胸のポケットに入れていたという人に何人も出会った。喉から手が出るほど欲しくて、でも絵に描いた餅であった期間が長かったからこそ、民主主義の輪郭、憲法の謳う理想を具体的にイメージすることができた。でも大多数の日本人にはその時間がなかった。憧れもなく、感謝も湧いてこない。憲法を大切に思う気持ちは沖縄の人たちと本土の人たちでは雲泥の差がある。
よくお隣の国韓国と比較されることだが、韓国のドラマや映画には現代史に切り込んだ骨太な作品が多く、エンタメに仕上げていながら風刺も効いて見応えがあるのに比べ、日本は政治をエンタメにする力がない。観客も「政治的」な作品を敬遠する。それは、戦後も大国に翻弄され分断され、軍事政権の圧政に耐えて民主主義を獲得するために辛酸を舐めて来た人たちが制作側に唸るほどいる韓国と、同じ時期にアメリカの傘の下で利潤の追求に勤しんできた日本とでは土壌が違うのは当然だ。
もちろん日本にも安保闘争や労働争議が華やかだった時代もあったが、それとて過去の過去、弾圧され大量の死者を出したというわけでもないのに「運動」は下火になった。お上に逆らってでも自分たちの権利を守るという大人たちの姿を、私の世代から下はまず見ていない。沖縄は違う。ここでは闘う大人たちの姿は日常的に視野に入る。でも本土では権力と闘う大人をあまり目にしないから、かっこいいと思うチャンスもない。それよりも、国に文句を言うと「反日」とレッテルを貼る側に回る方がトレンドだ。大人しくしていれば損はしない。憲法はあるんだし、そうそうヤバいことにはならない。先進国なんだし、警察も裁判官もちゃんといるし、悪いようにはならないだろう。なんとなくそう思っている国民が多いから、みんな選挙にも行かないのだろう。しかし、果たしてそうだろうか。不断の努力を怠ってきた国民の目に、憲法は生きているだろうか。平和に生きる権利は保障されるだろうか。司法の独立は守られてあなたの窮地を救うだろうか。
憲法っていうのは、下積み厳禁、取扱注意のナマモノだ。乱暴に扱えば壊れるし、一部が壊死してしまうかもしれないデリケートな守り神なのだ。最初に書いたが、80年もの間、憲法という女神さまの素晴らしさを讃えたりすることもなく、手足を縛るものから解放してやるでもなく、悪い奴から一番大事な肝を取られそうになったりしているのを、見て見ぬふりして来たのではないか。すでに満身創痍なんじゃないのか。
確かに、9条を守ると大合唱し、プラカード持って頑張っている人たちも少なくはない。でもこの10年で集団的自衛権も敵基地攻撃力も許し「普通の戦争をする国」になってしまったというのに、実質は守れていないのに「9条を殺すな一揆」も起きていない。もっと言えば、武力攻撃事態のその前の存立危機事態の、さらに前の段階に重要影響事態ってのを設定してまで、アメリカが軍事介入を決意したと同時に自衛隊を動かす約束まで政府がしてしまっているのに、護憲派が蜂起することはなかった。
安保3文書では「原状変更を試みる国=中国に対して主体的に対処する」と、国土を戦場にする覚悟をアナウンスしつつ、南西諸島に自国のミサイル部隊を次々に並べているというのに「まだ9条があるから戦争にはならないはず」と、すでに土台がない建物の中まだ逃げ込めるような幻想を抱いているとしたら、それは病気の子どもを病院に連れて行かない親と同じネグレクトだ。「まだ大丈夫よね、踏んばってお母さんを安心させて頂戴」と言っているように私には見えるのだが、言葉が過ぎるだろうか。
憲法に大事な人権を守ってほしいのであれば、みんなで憲法を守ってやらなければならない。権力の暴走を止めるのは憲法ではなく、憲法を武器に権力を監視しようとする国民の努力である。戦争を止める力は憲法にあるのでもなければ自衛隊にあるのでもない。戦争をしないという憲法を掲げて国際社会との約束を守る勇気を示し続ける、日本国民の行動だけが戦争を止めることができるのだ。満身創痍になるまでケアもしなかった女神さまに、追いすがって守護を求めても、もう魔法は使えない。
もしかすると女神は、その美しさと気高さを誰よりも知り自分を呼び続けた沖縄の上に舞い降りて、最後の力を振り絞ろうとしているかもしれないと妄想する。でも彼女の翼は折れ、手にした9番目の魔法の杖は背中で砕けていた。私たちの守護神の力を無力化するのは誰か。敵は「改憲勢力」だけではないところが厄介だと私は思う。
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三上智恵(みかみ・ちえ) 映画監督、ジャーナリスト。1987年、アナウンサー職で毎日放送に入社。95年、琉球朝日放送の開局時に沖縄に移住。同局のローカルワイドニュース番組のメインキャスターを務めながら、「海にすわる〜辺野古600日の闘い〜」「1945〜島は戦場だった オキナワ365日〜」「英霊か犬死か〜沖縄から問う靖国裁判〜」など多数の番組を制作。2010年、日本女性放送者懇談会放送ウーマン賞を受賞。12年に制作した「標的の村~国に訴えられた沖縄・高江の住民たち~」は、ギャラクシー賞テレビ部門優秀賞、座・高円寺ドキュメンタリーフェスティバル大賞など多くの賞を受賞。13年に映画版『標的の村』で映画監督デビュー。14年にフリー転身。15年に『戦場ぬ止み』、17年に『標的の島 風かたか』、18年に『沖縄スパイ戦史』(大矢英代と共同監督)、24年に『戦雲-いくさふむー』を発表。著書に『戦場ぬ止み 辺野古・高江からの祈り』(大月書店)、『女子力で読み解く基地神話』(島洋子氏との共著/かもがわ出版)、『風かたか 『標的の島』撮影記』(大月書店)、『戦雲 要塞化する沖縄、島々の記録』(集英社新書)など。「証言 沖縄スパイ戦史」(集英社新書)で石橋湛山記念 早稲田ジャーナリズム大賞 草の根民主主義部門 大賞、城山三郎賞、JCJ賞を受賞。(プロフィール写真/吉崎貴幸)
マガジン9連載:三上智恵の沖縄〈辺野古・高江〉撮影日記 https://maga9.jp/category/mikami/