第447回:90年代サブカルと「#MeToo」の間の深い溝。の巻(雨宮処凛)

 私には「90年代サブカルスイッチ」というものがあって、そのスイッチを押すと、すべてに鈍感になり、普段「人権」とか言っている自分がどこかにすっ飛んでしまうような感覚がある。そのスイッチはやはり90年代に私に搭載されたもので、普段はそんなものがあるなんて忘れているものの、ふとしたキーワードで自分でも知らないうちに起動する。

 最近、気づいた。セクハラしたり性犯罪に手を染める男性の中には、私にとっての「サブカルスイッチ」が入った状態の人もいるんじゃないかって。

 例えば数年前、こんなことがあった。

 当時、『テレクラキャノンボール』という映画がヒットしていて、私の周りの同世代のサブカル好きはみんながみんな見に行き、絶賛していた。どんな映画なのか。アマゾンの商品紹介には、以下のように説明がある。

 「東京から札幌までを車やバイクで移動しながら各種出会い系を駆使して現地素人をハメ倒すAVを超えた痛快セックスドキュメント」

 周りの人々があまりに「絶対観た方がいい!」と興奮気味に勧める中、私の「スイッチ」は無意識に入っていたのだろう。ある日、私が過去クソサブカル女だったことも知らず、サブカル全般にまったく詳しくない友人に、私は「こういう映画が今、劇場公開されてるんだって」と話していた。

 おそらく興奮気味に話していたのだろう。相手の女性がみるみるドン引きしていくのがわかった。考えてみれば、その友人が知る私は貧困問題の活動家で、フェミ的な発言をする女。そんな私の口から、普段は絶対に聞かない性的なキーワードが次々と飛び出したのだから引くのは当然である。その時、気づいた。あ、私、この手の話するとなんかヤバくなる。普段の感覚とか吹き飛んで、「より鬼畜な方が偉い」みたいな90年代サブカルの感覚に支配される、と。

 だけど、なんとなく深く考えるのは怖いのでそれ以上、考えずにいた。サブカル好きの友人たちが勧めた「テレクラキャノンボール」を、私は結局観ていない。

 『「女子」という呪い』を出してから、90年代サブカルの話をする機会が多くなった。

 90年代、私はクソサブカル女だった。入り口は、『完全自殺マニュアル』だったと思う。そこで紹介されていた、「24歳で自殺した漫画家」山田花子に興味を持ったところからすべては始まった。彼女が過去に連載していたガロを読むようになり、気がつけば、彼女が尊敬していた根本敬の漫画を読み、「別冊宝島」や「BURST」や「危ない一号」や「世紀末倶楽部」なんかを愛読する立派なクソサブカル女となっていた。

 なにそれ、全然わかんない、という人に説明すると、それらの雑誌に載っていたのは、海外の死体写真だったり違法薬物だったりタトゥーや身体改造だったりした。特集も「洗脳」とか「変態」とかで、たまに右翼や左翼も「キワモノ」の一形態として扱われていた。そんな雑誌は、ざっくり言うと「鬼畜系」なんかと言われ、「より鬼畜な方が偉い」という価値観に満ちていた。ちなみに「鬼畜」という言葉を広めたのは、2010年、読者を名乗る男性にメッタ刺しにされて殺害されたライターの村崎百郎氏。「すかしきった日本の文化を下品のどん底に叩き落とす」という言葉とともに登場した「中卒の工員」という村崎氏は、世の中への復讐のように日々他人のゴミ漁りに勤しみ、それを原稿にしていた。彼の書く文章からは社会への呪詛が匂い立つようで、「鬼畜ブーム」の中、絶大な人気を誇った。私は彼のサイン会にまで行っている。

 私がそんな90年代サブカルに惹かれたのは、自分自身が「ゴミ」という自覚があったからだ。もっともハマっていたのは19〜24歳のフリーター時代。貧乏で、お先真っ暗で、自分以外の同世代の女子たちはキラキラ輝いて見えて、中学のいじめ以来ずっと対人恐怖で人間不信で、リストカットばかりしていた私にとって、鬼畜と言われるような世界に浸ることは、世の中への「復讐」のようなものだった。お前らが眉を潜めるこのようなものが自分は好きなのだ。着飾ってちやほやされて喜ぶお前らなんかと私は違うのだ。…本当は、私だって叶うなら着飾ってちやほやされたりしたかった。だけどそれが絶望的に叶わない時、数百円で買えるそれらの雑誌は、確実に私を救ってくれた。

 だけど、ひとつだけ私の「救い」にならないものが90年代サブカルにはあった。それは「エロ」だ。当時は過激なAVが人気を博し、スカトロをはじめ「なんでもアリ」の状態だった。そんな過激なAV作品を有名文化人たちが絶賛し、カウンターカルチャーのような扱いを受けていた。

 当時の雑誌を開けば、そんなAVの撮影現場のルポやレビューが溢れるほどに載っていて、自分と同世代だろう女性たちが、肉体的、精神的に痛みつけられるなどいろいろと酷い目に遭っていた。そんなものを読みながら、私は引き裂かれそうな思いでいた。だけど、結果的に私はその痛みを引き受けることを拒絶した。リア充の世界に居場所がないから逃げ込んだサブカルの世界。そこでも「女」として傷ついてしまうなんて、そんなこと、絶対にあってはならなかったからだ。

 百人中百人が「ひどすぎる」と思うような状況であっても、それを言ってしまえば私が否定した「つまらない人間」と同じになるだけだった。それの究極が「正論を振りかざすPTAのオバサン」的な存在で、だからこそ、私は痛みを感じることを頑なに拒んだ。最初の頃こそもやもやしてざわざわしたけれど、私は自分を意図的に麻痺させて、そして慣れることに成功した。サブカル系のイベントなんかに行けば、有名ライターなんかが「お金欲しさにAVに出る女性」たちを「バカなAV女優」なんて笑っていた。そういう枠に入れてしまえば、私の罪悪感も薄まった。だけど、同じようなイベントでも女優本人が来ると、みんながちやほやして、おだてて脱がせたりした。本人不在で「バカな女優」なんて笑われている時より、本人がちやほやされている様を見る方が辛かった。

 そして、そんなイベントに行けば、私と似たような「クソサブカル女」が、「AV女優の体型の崩れ」なんかを男性と一緒になって批評したりしていた。それが「男と対等になること」なのかと一瞬思ったりもしたけれど、やっぱりどうにも違う気がした。

 当時の雑誌では、ライターの女性たちも「身体を張った」仕事をしていた。出張ホスト体験ルポみたいな企画もあったし、特定の男性と「セックスをする」という指令を受け、本当にセックスした顛末記のルポなんかもあった。しかも相手の男性もその女性とセックスをするという指令を受けていて、どちらもが「相手も指令を受けている」ことを知らずに顛末を書いていた。頭がクラクラした。私はその頃、「物書きとして食べていきたい」と思っていたけれど、サブカルの世界で生きるには、女性ライターはここまでしないといけないのか、と愕然とした。

 そうして、知人の一人は、「AVで処女を喪失したライター」として活動し、イベントなんかでよく半裸になり、ここには書けないようなひどいことをあれこれさせられた果てに、1999年、自宅で遺体となって発見された(『「女子」という呪い』にて、「AVで処女喪失したあの子の死」として書きました)。27歳だった。

 21世紀になり、気がつけば、90年代にあれだけ流行っていた「鬼畜系」の雑誌は軒並み、と言っていいほど廃刊になっていた。私はと言えば00年に1冊目の本を出し、「あの頃」のサブカルが過去となりつつあった04年、「バッキー事件」が起きた。「子宮破壊」などを売りにしたAVの撮影で、女優が人工肛門となるほどの重体を負わされた事件だ。プロダクションの人間が何人も逮捕されたが、社会的な注目はそれほど高くなかったように思う。あの頃、世間はまだまだ「AVに出る女性の人権」などに無関心だった。

 しかし、私はこの事件に大きなショックを受けていた。90年代、AVだけでなく過激な表現がどんどん悪ノリ、悪ふざけをエスカレートさせていくような構図を見ていた私にとって、この事件は「ここまで行き着いてしまったのか」と戦慄するものだった。

 この頃から、私はずっと麻痺させていた「痛み」に向き合うようになった気がする。

 そして今、時代は「AV」と言えば出演強要被害だ。このことが問題にされることは大きな前進だし、私自身も関心を持って見ている。

 だけど、それでいいのか? とも思う。自分自身に対してだ。私があの頃、積極的に楽しんだ文化の中の1ジャンルとして確実にありながらも積極的に無視してきたものたちに対して、自分の中で何一つ折り合いをつけていないのだ。だからこそ、不意に90年代サブカルスイッチが入ると、途端にトンデモない奴になってしまわない自信がない。何か、「こっちの世界ではこうだから、正論とか常識とか通用しない世界だから面白いんだから」みたいなあの頃の感覚がいまだ自分の中に燻っていて、どこか怖いくらいに麻痺している部分があるように思うのだ。

 最近、同じように90年代サブカルが好きだった女性と話していて、当時のAVの話になったのだが、彼女の言った言葉が印象に残っている。

 「ああいうの観てたから、普通のセックスじゃダメだと思ってた。変態じゃないといけないと思ってた」

 ああ、わかる…と遠い目になった。別に変態にならなきゃとは思ってなかったけど、とにかく自分には価値がないと思ってた。それは当時のAVでは女優があらゆる「変態」と言われる行為に応じていて、「こんだけ可愛い子でも脱いでただセックスするだけじゃ商品価値がないんだから、お前らなんて徹底的に無価値なんだからな!」と言われている気がしたのだ。その上、当時はブルセラブーム。とっくに女子高生でなくなった20代の自分は、「ババアですみません」という気分で生きていた。電車に乗ればオッサン雑誌の中吊り広告には「女子高生の膝の裏」とかそんな見出しがデカデカと躍り、テレビではブルセラショップのことばかりやっていて、世の男性の「女子高生への欲情」を隠さない感じがとにかく怖かった。

 そんなことに嫌気がさしていた頃、サブカルスターだった作家の見沢知廉氏に連れて行かれた右翼の集会で、右翼の人々は援助交際が蔓延るこの国を「堕落している」と言い切り、批判した。リベラルと言われるような文化人が援助交際を「肯定的」に語る中、援助交際を批判する右翼。当時の私はフェミがなんなのかさっぱりわからなかったけれど、右翼が唯一「フェミっぽいこと」を言ってる気がした。他の右翼団体の街宣に行っても、「日本人男性によるアジア女性買春」について怒っていて、「こういうことに怒るのは右翼しかいないんだ」と思ったのも、私が右翼に入った動機のひとつだ。

 このように、私のジェンダー問題の遍歴は、いろいろとこじれすぎている。が、当時の空気感を知る人々には理解される気がしている。

 さて、いろいろ書いてきたが、冒頭に書いたように、セクハラとか性被害を生み出す人の一部って、私に搭載されている「90年代サブカルスイッチ」と同じようなスイッチが無意識に入っているんじゃないだろうか。全員じゃないにしても、そういう人っているように思うのだ。

 しかし、それは非常に危険だ。私も自分のスイッチを自覚したからには、自分自身のその辺りの意識を意図的にアップデートしないといけないと思っている。

 自分自身の中にある、「悪趣味」を楽しむような文化が好きだった部分と、今、「#MeToo」などについて書いている自分との断絶。でも、誰の中にもそれはきっとあるはずだ。

 そしてもちろん、90年代サブカル全般を否定しているわけではまったくない。今だって大好きな漫画や本はある。ただ、鬼畜ブーム的なものが盛り上がる中、意図的に見ないふりをしてきたことについて、改めて考えなくてはいけないと思っているのだ。そこには、恐ろしいほど多くの地雷が埋まっている予感しかないのだが。

 女の痛みに意図的に「麻痺」した代償は大きいのだと、今、痛感している。

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雨宮処凛
あまみや・かりん:作家・活動家。2000年に自伝的エッセイ『生き地獄天国』(太田出版)でデビュー。06年より格差・貧困問題に取り組む。07年に出版した『生きさせろ! 難民化する若者たち』(太田出版/ちくま文庫)でJCJ賞(日本ジャーナリスト会議賞)を受賞。近著に『死なないノウハウ 独り身の「金欠」から「散骨」まで』(光文社新書)、『学校では教えてくれない生活保護』(河出書房新社)、『祝祭の陰で 2020-2021 コロナ禍と五輪の列島を歩く』(岩波書店)。反貧困ネットワーク世話人。「週刊金曜日」編集委員。