雨宮処凛さん×清田隆之さん(桃山商事)(その2)こじらせ男子とサブカル時代の闇

2016年のマガ9鼎談「女性の生きづらさ、男性の生きづらさ」で、日本社会においてセクシャルハラスメントやジェンダー問題を言及することの難しさを語っていた雨宮処凛さん。それから2年、このテーマに正面から向き合った著書『女子という呪い』(集英社クリエイティブ)を上梓しました。一方、男性のジェンダー問題を考えるウェブ連載「桃山商事の『先生、“男らしさ”って本当に必要ですか?』」などで発信を続けてきた清田隆之さん。初めての顔合わせとなるほぼ同世代のお二人に、これらの問題への関心をもったきっかけや、日本における#MeToo 運動について、またサブカル時代の女性の人権について語っていただきました。

女子校生ブームの裏に潜むこじらせ男子

編集部 最近の、パワハラ、セクハラを告発する記者会見の事例でいうと、危険なタックルをしてしまった日大アメフト部の選手へのバッシングはそれほどなく、レイプ被害を訴えた伊藤詩織さんへのバッシングはひどかった。二人とも同じように名前と顔を出して、勇気を出して告発したことに変わりはないと思うのですが、どうしてこうも男性と女性とでは、ネットでのバッシングのされ方に違いがあるのかなと思います。

清田 個人的に感じているのは、男性たちって自分が理解できる構造に対してはびっくりするほどみんなやさしいってことなんですよ。たとえば日大アメフト部の問題。日大の選手が記者会見したとき、「まだ20歳の青年が正直に顔を出してちゃんと謝罪した。話し方も論理的で真実味があって、よくぞ話してくれた」みたいに温かく受け止められましたよね。
 対して、伊藤詩織さんには共感が集まらない。相手の男に対する怒りも広がらない。逆に被害者である詩織さんがバッシングされる。偏見覚悟で言えば、「日本の男性の多くが彼女のような“帰国子女”タイプが苦手だから」という背景があるような気がしていて。自己主張ができて、英語が堪能で、男性に媚びるような態度を取らない……といった女性に対し、ある種の生理的嫌悪感を抱く男性って結構いますよね。それに対し、日大の選手は丸刈りのスポーツマンで、上の命令に従順でと、日本人の男性の大好きゾーンに入ってる。

雨宮 パワハラを受けた男には「わかるわかる、俺たちも上から言われたら逆らえないよな」みたいな同情が集まった。たぶん思うに、日大の選手も逆に、監督から圧力を受けたけれど悪いことだからやらなかった、というのであれば、あそこまで賞賛されなかったのではないでしょうか。日本社会では上の意思に逆らう人は嫌われますからね。特にそれを女性がやると、嫌われる。まさに詩織さんがそこに当てはまってしまったんだと思う。

清田 ネット上での詩織さんバッシングの中には、「女だからいきなり権力者に近づけたんだ。男の俺らには、ありえない、女はいいよなあ」といった声もありました。これってある種のひがみだと思いますが、正直言うと、ちょっとだけこの感覚はわかる。というのも僕自身、20代のころに同世代の女性の書き手が年上の男性編集者にフックアップされ、メジャーな媒体などで活躍して一足飛びに売れていった、という光景を横で見ていました。そういう中で、「自分たちのようなイケメンでも天才でもない若手男子って、世の中で最も興味を持たれない、使い捨ての労働者みたいな存在なのかも……」って思いを募らせたことがありまして。もしかしたら、詩織さんをバッシングしている男性たちの中にも似たような感覚があるのかなって。

雨宮 清田さんの世代って、90年代後半の女子高生ブームの時に男子高生だった世代ですよね。ブルセラショップがあちこちにできて繁盛して、女子高生がとんでもない性的な消費のされ方をしつつ、ある意味社会の注目を浴びていた。その裏側でまったく日陰の存在だったのが、男子高生だった。その時の、どうせ俺たちは無価値だからみたいな、ある意味「男をこじらせた」人たちが、今、30代になっているわけですね。

清田 そうですね。しかも“ロスジェネ”と言われ、就職にも恵まれなかった世代でもあります。地層の奥底に「女はずるい」「女はいい思いをしている」みたいな感覚があって、ネットの中でミソジニー的な書き込みをしてしまう、という男性も多いのかもしれません。

雨宮 女性専用車両や、映画のレディースデイにも差別だと怒る人もいますね。あと、私は貧困問題がメインテーマなので、よく言われるのが「ホームレスは男ばかりで女はいない」。本当はいるんですが、女性はそうなるまえに水商売に行ったり身体を売ったりできるからそこまで行かないと。男にない逃げ道があるから、男よりましだという言説は、まったく賛同はしないけど、昔からよく言われることですよね。

セクハラ男を失脚させる実効マニュアル

編集部 財務省のセクハラ問題などが注目されて、ようやく変わり始めたかなとは思うのですが、世界中で広がっている#MeToo 運動は、日本ではなかなか盛り上がりません。これからなんでしょうか。

雨宮 性被害を受けても、いままでは誰にも言えなかったし、勇気を出して相談しても忘れろとか、我慢しろとかいわれて、もう黙るしかなかった。それが多少なりとも言いやすい空気が生まれたことは前進だと思います。セクハラが社会問題化して、おじさんたちにも、意味は分からなくても、これはだめなんだとか、被害者バッシングがセカンドレイプなんだということくらいは伝わったと思います。被害者が声を上げるには、「あなたは悪くない、私たちは味方だよ」と受け止めてくれる場があることが必要。それだけで救われることもある。その場を今この機に広げることが大事だと思います。

清田 セクハラや性暴力が人間の尊厳をズタズタに切り裂く行為であるということは、自分自身、経験者の語りに耳を傾けるまでちゃんと理解できていなかったように思います。個人的に、19歳のころ駅でヤンキー4人組に絡まれ、ホームで殴る蹴るの暴行を受けて顔面を骨折し、救急車で運ばれたことがありました。思い出すだけで怒りと恐怖で体が勝手に震え出すような経験をしていたにもかかわらず、女性の受けるセクハラや性暴力がそれと同じ種類の体験であるという認識を、30代になるまで持っていなかった。
 以前ウェブ連載で、長年セクハラ問題に取り組む金子雅臣先生と一緒に「セクハラを“男性問題”として捉えるには」というテーマを考えたことがあるのですが、男性たちに「自分の内なる加害性と向き合い、当事者の問題としてセクハラや性暴力を捉えていきましょう」と言っても、なかなか言葉が届かないという実感があります。
 だから今は、財務省の元事務次官やハリウッドの大物プロデューサーのように、セクハラ加害者が社会的地位を失う事例がどんどん増えていき、男性たちの中に「それだけ罪深い行為なのだ」という認識が広がっていくことが大事なのかなと、個人的には考えています。
 それと、セクハラの傍観者にならないことも大事ですよね。僕も昔、女友達がセクハラされている場面を傍観してしまい、ものすごく怒られた経験があります。これはテレビ局で働く男性の知人に教わった「がっかりツッコミ」というテクニックなんですが、たとえば男同士の遊びや会話のなかで、セクハラ的なことをやらされそうになったりとか、「これからみんなで風俗行こうぜ」みたいなホモソーシャル圧がかかったときの対処法として、「●●さんはそういうことさえ言わなきゃホントかっこいいのになあ」と残念がってみせる。それだけでホモソーシャル的な空気を壊せたりすることがある。

雨宮 それはすぐ使えますね。男性はかっこいいと言われるの好きですものね。とくに同性から言われるとうれしい。

清田 本来なら、「セクハラは人権侵害」という認識を持ち、自らの言動を省みるようになるべきだと思いますが……現実的には「セクハラは“社会的”にアウト」という認識から広めていくしかないのかなと。だから、セクハラしたら加害者当人が失脚するばかりか、例えば会社に労基署が入ってペナルティを食らうとか、具体的に株価が下がるとか、そういう社会的制裁がくだる事例が増えていくと、男性たちのリアリティも一気に増すような気がしています。
 あと、これはセクハラ問題に詳しい弁護士の先生に聞いたノウハウですが、被害者側の自衛手段として、加害者の発言を録音しておいたり、自分の受けた被害を記録に残すことも有効だそうです。日記もいいですが、第三者に被害の状況を逐一LINEしておくと、客観性の高い証拠として扱われるとのこと。傍観者にならないためにも、実効的な知識や手段を持って被害者に寄り添う“エビデンスお節介”のノウハウを確立しようと、あるセクハラ対策のチームで相談しているところです。

雨宮 男性って「仕事ができない男認定」されるの、すごく怖がりますものね。お酒とかギャンブルに過剰にハマったりして問題を起こせばこれまでにも「仕事できない男」認定されてきたのに、セクハラだけは「男のお楽しみ」みたいな、男同士の談合として許されてきたんですね。これからは「セクハラしたら人生終わるよ」って、認定しなければ。

サブカル時代の女性の人権問題

清田 最後に、雨宮さんにお聞きしたいことがあります。『女子という呪い』の中の「AVで処女喪失したあの子の死」の章で、90年代にあった重大なことを一つ忘れていたとして、井島ちづるさんのことを書かれていました。僕は「遅れてきたサブカル世代」になるかもしれませんが、20代前半の頃に怪しいものが解き放つエネルギーが充満していたあの時代の残り香を体験しています。過激なことができる人はすごいなと思っていたし、かたや自分は、極端なことができない平凡な人間だなとコンプレックスを感じていました。しかし、当時は僕も気が付いていなかったのですが、今思うとあの時代の女の人の扱われ方は、ひどかったですよね。

雨宮 本当にひどかったですね。井島さんは90年代の後半に活躍していたライターでしたが、「AVで処女喪失」したということで注目されていて、なんでもやるAV女優みたいな扱いでしたね。当時のロフトプラスワンなんかでも、ステージ上ですぐ脱がされて、お客さんに性的サービスをする、みたいな。今なら風営法的にもありえないでしょう。でも、当時はそういう世界の男性たちの「悪ノリ競争」の中で、女性たちが本当に、今思うとあり得ない消費のされ方をしていた。

清田 写真家のアラーキーもそういうことをやっていて、今回、元モデルだった女性から#MeTooされた(*)わけですが……。あの時代の渦中にいた雨宮さんに、当時はどんなだったのか、実感をうかがってみたいと著書を読みながら思っていました。

*元モデルだった女性から#MeTooされた…今年4月、写真家・荒木経惟氏のモデルを15年にわたって務めていた女性が、「部外者の前でのヌード撮影を強要された」「無報酬の仕事も多かった」「写真を無断使用された」など、荒木氏によるパワハラ・セクハラを告発する文章をウェブ上で発表した。

雨宮 90年後半のその世界って、本当に悪ノリ、悪ふざけ合戦でした。AVの世界もいかに過激なことをするかという競争になっていたし、それを文化人たちも評価していました。AVではなくドキュメンタリーと絶賛されたり。その中で、不思議なほど誰も出演する女性の人権など考えずに、どこまでやれるのか、どこまで鬼畜になれるのか、という過激さだけを追及していたんだと思います。

清田 若手社会学者のような方も、その頃「売春肯定論」を唱えて世に出ていましたよね。そして、そういうことが理解できるのが、頭がいいみたいな風潮もあって。

雨宮 その後、一部のAVはどんどんエスカレートしていって、ついに2004年にバッキー事件(*)が起こります。監禁や集団暴行、子宮破壊などを売りにするAVメーカーの撮影で、女優の大腸が裂けて重傷を負い、人工肛門になった事件です。一命はとりとめましたが、死亡事故につながっていてもおかしくなかった。この事件では逮捕者も多数出ました。それからみんなさーっと引いていったような印象ですね。ずるいなあ、と思います。結局、心も体も傷ついたのは、女性です。
 今、AVの出演強要の問題(*)が、人権問題として訴訟や運動を起こし注目されていますが、90年代のことについては、誰も問題にしないし、そこだけ放置されています。バッキー事件の時も、社会の関心は低かった。あの時、あんなひどい思いをした女性たちは、その後どうなったのかなと思います。自殺してしまった人も多いと聞きます。

*バッキ−事件…2004年6月、AV制作会社の「バッキ−ビジュアルプランニング」による撮影現場において、AV女優の一人が直腸穿孔、肛門裂傷の重傷を負うという事件が発生。捜査の過程で、同社の撮影現場では違法薬物を用いたり、女性の顔を水に沈めたりといった暴力行為が常習化していたことが明らかになった。同社代表は強姦致傷容疑で起訴され、懲役18年の判決を受けた。

*AVの出演強要…街で女性に「モデルにならないか」などと声をかけ、契約書にサインさせて、騙したり脅したりして無理矢理AVに出演させるという手口のこと。ここ数年、相談団体などへの被害相談が急増し、注目が集まっている。

清田 ちゃんと系譜や歴史をたどっているわけではないので単なる私見になってしまいますが、2013年に『劇場版テレクラキャノンボール2013』(*)が、全国のミニシアター系劇場で上映されましたよね。僕はあの映画に、かつてのアングラ・サブカル的な空気(過激さを競うホモソーシャル的なコミュニケーション)を感じ、「これは見ておかねば……」と気持ちが煽られた感覚がありました。でも一方で、ジェンダー的な観点から非常にエグいもの(お金で女性に過激なことを強いたり、その背景に貧困問題が貼りついていたりという要素)を感じ、映画を観ながらいろいろ複雑な思いがこみ上げてきたことを覚えています。

*『劇場版テレクラキャノンボール2013』…アメリカ横断AV監督らが車やバイクでレースを繰り広げつつ、各地でテレクラやナンパで知り合った女性たちとセックスした数を競い合うという映画で、1997年からビデオ作品として制作されていたシリーズの劇場版。全国のミニシアターなどで上映され、公開から1年足らずで約1万人を動員した。

雨宮 あの映画は大ヒットしましたよね。私は見に行きませんでしたが、まわりでは見に行った人が多くて、「大笑いした」と言ってました。
 私も90年代は鬼畜ブームにどっぷり浸っていたので、エロに対しては拒絶感があったものの、どこかセットみたいなところがあったのですごく感覚が麻痺していると自分でも思います。先日、同じ世代でやはりサブカルにハマっていた女性と話したんですが、変態なものばかりを見せられていたので、自分もそうであらねばいけないんだ、そういうセックスをしないといけないんだと思っていたと言っていて、いろいろ根深いものを私たちに残したなと思いました。
 そんな感じでしたから、私も90年代に一度地に落ちた人権意識を取り戻すのがけっこう大変でした。本当に闇は深くて、みんな黒歴史として持っているのに、なぜか語らないんですよね。でも、自省も含めて語りたいことはたくさんある。

清田 僕も、そのあたりについてまだまだお聞きしたいこともあるので、また語りたいですね。

雨宮 ぜひ。もやもやを抱えている「同じ沼」の人たち、いると思うので、また続きをやりたいですね。

編集部 90年代サブカル時代の女子の人権問題について考える、というこの宿題は、日本版#MeToo の避けては通れない要素かもしれません。今日は長い時間、ありがとうございました。

(構成・写真:マガジン9編集部)

この対談の後、雨宮さんが書かれた『90年代サブカルと「#MeToo」の間の深い溝。の巻』もあわせて、お読みください。

清田隆之(きよた たかゆき)1980年生まれ。文筆業、恋バナ収集ユニット「桃山商事」代表。これまで1000人以上の女性から恋の悩みを聞き、コラムやラジオで紹介。ウェブメディア「cakes」などで連載。著書に『生き抜くための恋愛相談』など。

雨宮処凛(あまみや かりん)1975年生まれ。作家・活動家。2000年に自伝的エッセイ『生き地獄天国』(太田出版)でデビュー。マガジン9で「雨宮処凛がゆく!」連載中。

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