いま、改めて憲法を考える vol.3

衆院選以降、強まる「改憲に向けた論議を」の声。もちろん、必要に応じて憲法を変えることは否定されるべきではありませんが、具体的な、しかも法律ではどうしても対応できない問題を解決するためではなく、「変えること」そのものが目的になっているかのような「改憲論議」は、あまりにもおかしいと感じます。同時に、「憲法に緊急事態条項がなかったから十分なコロナ対応ができなかった」など、事実に基づかない主張がまことしやかに語られていることにも、危機感を抱かずにはいられません。
「憲法についての論議を」というならば、まずは憲法の意味や役割について、十分に知ることが必要なはず。ここでは、マガ9がこれまで掲載してきた、そして再度多くの人に読んでもらいたい、「憲法」に関連するコンテンツを不定期で紹介していきます。

12月14日、政府は子ども関連の施策を一元化するために立ち上げるとしている新組織の名称を、従来想定されていた「こども庁」から「こども家庭庁」に変更するという方針を示しました。共同通信の記事によれば、「伝統的家族観を重視する自民党内保守派に配慮」したものだといいます。
「自民党内保守派」がいう「伝統的家族観」とは何か。自民党が掲げる改憲草案の24条を読んでみると、その意味がはっきりと見えてきます。「両性の合意のみ」での婚姻成立や「個人の尊厳と両性の本質的平等」を定めた現行の24条とは、大きく異なる内容。冒頭から「家族は、互いに助け合わなくてはならない」と述べ、「家族」を一つの決まったあり方にはめ込もうとし、「個人」より「家族」を優先させることを当然とする……その危険性は、たとえば児童虐待やDVなどの問題を考えるだけでも明らかです。そうした「家族観」を引き継ぐ「こども家庭庁」への名称変更、「名称が変わるだけ」だとはとても思えません。
ここでは、その24条改憲の危険性について語っていただいた、文芸評論家で、ジェンダーや差別を切り口にした著書も多い斎藤美奈子さんのインタビュー(2016年1月20日公開)をご紹介します。〈改憲派の憲法や法律に「家族」って出てきたら、「これはヤバい!」と思ったほうがいいかもしれない〉という斎藤さんの指摘、とても重要だと思います。

「こども庁」創設そのものの問題点や政府の家庭への介入の危険性については、以下の記事をぜひ!

●「こども庁」創設は必要か──内閣府の肥大化と教育への政治的介入の危険性を考える 寺脇研さん&前川喜平さん講演レポート
https://maga9.jp/210929-5/

●本田由紀さんに聞いた(その1):国家による「家庭への介入」がはじまっている
https://maga9.jp/interv170726/

2016年1月20日up
斎藤美奈子さんに聞く(その1)
24条改憲案にある「家族は、互いに助け合わなければならない」の真意は?

●自民草案にひそんでいる「ひっかけ」には要注意!?

――ますます激しくなってきた改憲の動き。でも、安保法制やTPPと、いろんな問題が同時多発的に起きているので、みんなフォローしきれていないのが現状です。9条以外にもさまざま問題があるんだろうな、と漠然とした不安感はあるのですが。そんな中で、24条の自民党改憲草案(以下、自民草案)にも問題があるという点を、ぜひ具体的にうかがいたいと思います。

斎藤 そうですね。日本国憲法の柱は「主権在民」「基本的人権の尊重」「平和主義」の三つですけど、自民草案では、三つともヤバイ。芸が細かいっていうか、全方位的というかね。
 なにしろ前文の書き出しが「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される」ですからね。主語が現行の「日本国民は」から「日本国は」に変わってる。
 「基本的人権の尊重」に関していうと、重要なのは第13条と第24条だと思います。
 先に13条についていうと、「すべて国民は、個人として尊重される」が、自民草案では「人として尊重される」に変更された点が無視できません。たった1字の違いですが、「個人」と「人」では天と地ほど話がちがう。「個人として尊重される」っていうのは、その人の思想信条を含めた「人それぞれ」の生き方が尊重されるってことでしょ。でも「人として尊重される」だと、個人個人の差は考慮しなくてもいい。極端な話、「動物扱い」しなけりゃOK(笑)、みたいな話にもなりかねないわけですよ。
 こういう「ひっかけ」が多いんだよね、自民草案は。
 24条もそうです。24条は「婚姻」と「両性の平等」についての条項で、「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し…」という条文で知られていますよね。

――うう…、ちゃんと知ってる人は少ないかもですが(笑)。現行の日本国憲法の24条の条文がこちらですね。

●第24条
1 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
2 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

斎藤 そうそう、これはさあ、当時の人がどれだけ意識していたかはわからないけど、戦前の女性たちにとっては「悲願」に近い内容だったと思うんですよ。詳しくは後ほど話しますが、「両性の合意のみ」「個人の尊厳と両性の本質的平等」という点が重要です。

――一方、2012年発表の自民草案の24条には、いままでなかった項目が加わって、全部で3項になっています。

●(家族、婚姻等に関する基本原則)
第24条
1 家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない。
2 婚姻は、両性の合意に基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
3 家族、扶養、後見、婚姻及び離婚、財産権、相続並びに親族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して制定されなければならない。

      

斎藤 これまでなかった「家族」から、いきなりはじまる点が大きく違いますよね。 
「家族、婚姻等に関する基本原則」という位置付けも、現行憲法とは大きく異なる。「互いに助け合わねばならない」とも書いてある。続く婚姻の項では、両性の合意に基いて「のみ」、の「のみ」をなぜか削除しています。3番目の項も「家族」からはじめて、現行の憲法では出てこない「扶養」「後見」「親族」が登場。トップにあった「配偶者の選択」、「住居の選定」は削除。両者に共通する言葉も、出てくる順番が違っています。

●憲法にわざわざ「家族」を持ち出してくるのには、意味がある!

――確かに違いますけど、それほど問題ない条文なのでは? と、つい思ってしまいそうですが。

斎藤 一見そう見えますよね。「『家族の助け合い』って書き足されているけど、家族の助け合い自体悪いことではないし。ま、他の条文に比べたら問題ないのでは?」と思った人、多いはず。でも、そこがアブないんですよ。13条の「個人」と「人」もそうですが、シレっと書いてて見すごされそうな部分にこそ、問題が宿る。
 まず、改憲派の憲法や法律に「家族」って出てきたら、「これはヤバい!」と思ったほうがいいかもしれない。今回の自民草案を支持している勢力、女性の権利をできるだけ制限したいと思っている人たちの話の中で「家族」と言えば、「愛国」とか「反日」と同じように、その筋の方々にとって特別な意味を持つ「要注意ワード」だと思って、ほとんど間違いないです(笑)。

――えっ、「家族」って、普通の日常にあふれている言葉ですよね。「家族仲良く」、とか「家族割引」、『家族になろうよ』とか…。そんな見慣れた言葉が、「憲法にあると”ヤバい”」なんて、どうして? と思いますが。

斎藤 そういう一般に使われる「家族」と、改憲をうたう右派勢力や自民草案での「家族」は、かなり意味が違います。一般的に言う「家族」は、血縁関係を基準にしていても、一応自由な個人の集合体ですよね。家族を基準とした役割とか権限、義務は今の憲法上にはない。でも自民草案では、「家族は助け合わなければならない」と義務を書いています。
 この「助け合う」義務を書くことで「家族」がとても大きな意味を持ってくる。家の中では「個人」より「家族」が優先、ということになりますからね。そっちの意味の「家族」といえば、思い出されるのは、戦前の「家制度」の下の「家族」。それを現代一般の愛情や血縁で結ばれた家族と同じ言葉で書き、ごまかしているわけで。タチが悪いんですね。

――個人より大事で「助け合わねばならない」関係となると、同じ「家族」でも意味が全然違ってくる。なるほど、だから憲法の条文は、細かい言葉の違いやその意図を吟味する必要があるんですね。とはいえ、戦前の「家制度」とその中の「家族」がどう問題だったのか、私たち自身よく知らないので、もうひとつピンと来ないのですが。

斎藤 当時の「家制度」を法的に体系づけたのが1898年(明治31年)に施行された、明治民法の「親族編・相続編」です。これは完全に「家」中心の制度で、結婚も結婚相手も離婚も、決定権は「家長」(父や夫、男の子や男兄弟)にあり、自分のことなのに、女性は自分では決められませんでした。そもそも女性は「無能力者」とされていたわけで、人権は無いも同然。自分の財産も持てなかった。相続も夫から長男へ、ですからね。
 女性だけじゃありません。「長子相続」ですから、男であっても次男以下には相続の権利がありませんでした。財産も、戸主の権利も、すべて、長男だけに引き継がれるものだった。きょうだい間の差別が公然と法制化されていたわけです。
 もうひとつ、われわれ戦後世代には実感がありませんが、戦前の日本の社会体制の基本は、天皇制です。その中での「家制度」は「天皇制」を下から支えるための仕組みだった。
 戦前の日本社会は、天皇を親、国民は「天皇の赤子(せきし)」と呼ばれる子どもに見立てた「擬似家族」。「家族」の中にはすべてを決める絶対的な「家長」がいて、家族みんなが家長に従っていたように、国には「天皇」がいて、国の「家長」である天皇の言うことは絶対なのだ、と。そういうヒエラルキー意識を、小さなピラミッドから大きなピラミッドに積み上げるように、植えつけたのです。つまり「家制度」は、一番身近なところに差別をつくり、その構造を温存させる仕組み。戦前の日本に独特の、人権を破壊する制度でした。

――家の中に、個人にはどうしようもないヒエラルキーがあって、従うしかなかったんですね。

斎藤 家のためには個人を犠牲にしてもしかたない。国家のためにも個人を犠牲にするのは当然……と、そうしたヒエラルキーに「従う意識」を隅々まで浸透させるのに、「家制度」というのはある意味よくできたシステムだったんですね。
 「親方」という言葉があるように、職場でも雇用者と労働者は疑似家族、大家と店子も疑似家族、なんでもかんでも「家族」にならって、それを「醇風美俗(じゅんぷうびぞく)」と呼んでいたのが戦前の社会だった。ひどいものです。

――この「自民草案」では、第1条において、これまで「天皇は象徴」とあったところを、「天皇は元首」に変えています。

斎藤 より「国家」を前面に打ち出した憲法ですよね。そうした憲法の下で、現憲法にはないのにわざわざ書き込まれた自民草案24条の「家族」の条文には、「国家体制」のためにも「家制度」意識を復活させよう、という意図が透けて見える。そういう意味で「家族」は時と場合によっては歴史用語なのだ、と考えたほうがいいと思います。

――なんだかこの24条、思ったより深い意味を持つんですね。そんなヒエラルキーの下では、今の24条に書かれているような「同等の権利を有する」夫婦の実現なんて、ますます無理。

斎藤 そうですよね。とはいえ、この21世紀の世の中で、「女性は財産を持てない」「結婚も自由にできない」なんていう、性差別を肯定するような条文はまさか書けない。だから、そうは書かないで、人権をどう制限するか考えているんじゃないかな。
 「家族は、互いに助け合わなければならない」という、書き加えられた条文は、どうとでも解釈できる表現ですが、あいまいだからこそ利用しやすい。
 例えば選択的夫婦別姓の問題。残念ながら昨年末の判決では「夫婦同姓しか認めない現在の民法750条は合憲」だとされました。でも、さらなる訴訟が起きて国民の声が大きくなれば、最高裁でも違憲と考える人が優勢になり、750条は変わることも近い将来ありえるでしょう。ただ、もし憲法24条が自民草案通りに変わったら、選択的夫婦別姓の法案は「家族は、互いに助け合わなければならない」という条項に反している、とか誰かが屁理屈をつけかねない。極端なことを言えば、この条文のせいで離婚だって簡単にはできなくなるかもしれない。非常に使い勝手がいいですよね、権力の側には。

――それはショックです。別姓裁判では、意外な合憲判決に驚きましたが、反響も大きいので、いずれ別姓が可能になるかも、と希望をつないでいたのに。憲法24条が変えられてしまったら、もう日本で選択的夫婦別姓の可能性もなくなり、さらに結婚や離婚の自由度も低くなりかねないとは。自民草案、そんなに広く解釈できるものだと、気がついている人はまだ少ないかも……!

※続きの(その2)はこちらから読めます。

(さいとう・みなこ) 文芸評論家。1956年新潟市生まれ。成城大学経済学部卒業。児童書等の編集者を経て、1994年『妊娠小説』でデビュー。2002年には、『文章読本さん江』で、第一回小林秀雄賞を受賞。ジェンダーと文化、社会をふまえて縦横に展開される批評の切れ味の良さには定評がある。『紅一点論――アニメ・特撮・伝記のヒロイン像』(ちくま文庫)、『戦下のレシピ――太平洋戦争下の食を知る』(岩波現代文庫)『趣味は読書。』(ちくま文庫)、など著書多数。東京新聞、「婦人公論」、「eclat」などに連載執筆中。近著『ニッポン沈没』(筑摩書房)は、民主党政権後半からの社会・政治の迷走ぶりをテーマ毎に選んだ3冊の本とともに批評する、刺激的な一冊。

※プロフィールは初出当時

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