第1回:春の牛空気を食べて被曝した〈上〉(牧内麻衣)

はじめまして。物書きユニット「ウネリウネラ」のウネラこと牧内麻衣です。2020年3月に首都圏から福島県福島市に移り住み、パートナーのウネリこと牧内昇平と一緒に物書き稼業をしながら、小さな版元を営んでいます。
以前、こちらマガジン9で、福島市の映画館「フォーラム福島」の阿部泰宏支配人とウネリの対談企画「映画から考える3・11」を連載させてもらいました。その阿部さんにご紹介いただいたのが、今回の企画の主役である俳人で高校教員の中村晋さんです。中村さんは原発事故という非現実的な出来事に抗いながら句作を続け、2019年に第一句集『むずかしい平凡』を刊行。
言葉を失うような現実を目の当たりにした後、いかに「命そのものの尊さ」を実感できる社会を取り戻せるか――。福島の高校生たちと、俳句を通じ語り合い、考え続けています。
そんな中村さんの代表句をいくつか取り上げ、句が生まれた風景やその句に込めた思いをうかがう短期連載です。その言葉のなかにきっと、いまだ福島に山積する課題や混沌とする現代社会のなかでいかに「光」を見出すべきかの手がかりが、みつかると思います。

被曝を経験して

ウネラ 最初に取り上げたいのは、この句です。

春の牛空気を食べて被曝した

 はじめて読んだ時の衝撃は忘れられません。いま、子ども時代に福島で被災し、小児甲状腺がんを発症した6人の若者たちが「311子ども甲状腺がん裁判」を起こしています。この句を詠んだ時、このような未来を想像していましたか。

中村 具体的に、このような形で裁判が起きるという事態は想像できませんでした。しかし、この先何が起きるかわからないという不安、よくないことが起きるのではないかという恐れ、ひどいことが起きてほしくないという祈りのようなものは抱いていました。何しろ、2011年3月15日から16日にかけては、福島市内でも毎時20マイクロシーベルトを超える線量が観測されていましたから。
 そんな状況の中、高校の合格発表が行われ、中学生がそれを見に外を歩いていた。福島の状況と、かつてのチェルノブイリの状況とは違うとはいえ、チェルノブイリの事故で甲状腺がんを患った子どもたちが多くいたことを知っていた身としては、この先悪いことが起きなければいいけど……という思いを、漠然と感じていました。
 ですから、我が家では子どもを一歩も外へ出さなかったし、またその年の6月には妻子の自主避難を決め、8月から妻子は山形県で生活をし、私自身は福島市に残って仕事をするという二重生活をすることにしました。そういう行動を取ったということから見ても、このような事態が起こりかねないことをうすうす感じていたのかもしれません。ただ、私が「春の牛」の句を得た瞬間に、そこまで考えていたかどうかはわからないですね。そういった意識は、潜在的にあったかもしれませんが。

教室がシーンとなった

ウネラ 裁判に訴えた若者たちの悲痛な声を聞くと、10年の年月を経たこの句が、さらに重く響きます。

中村 「春の牛」の句は、ふっと口をついて出てきた句ですから、将来のことまで見通して作ったわけではありません。ただ、私が教えていた高校のクラスで生徒たちにこの句を紹介すると、最初笑いが生じたあと、しばらくして教室がしーんとなる瞬間があったことが印象に残っています。こんな俳句らしくもない句が紹介されて、これが俳句なの? って笑ったのかもしれません。でも、しばらくして、ああ、牛だけでなく、私たちも被曝したんだよなあ、という雰囲気になるのです。
 そう考えると、この句を読んだ生徒たちは、作者の私などよりもよっぽど将来の不安を抱いたかもしれない、と今では思います。私は、ただただ当時の状況を牛に託して俳句にした。しかし、それを読んだ若い人たちは、そこから自分たちの未来までもが被曝してしまったと感じたかもしれない。だとしたら、この句を生徒たちに紹介したのは、ちょっと軽率だったかもしれませんね。
 ただ、当時はまだ将来どうなるかはわからなかった。ですから、この句もあくまで問いかけるような一句であって、「被曝した」からどうなんだ? と言われれば、そうですよね、と答えるしかないものでした。もちろん「被曝した」だけでも、ずいぶんひどいことだと思いますが、当時まだ実害は報告されていなかった。ところが、今、こうして裁判が始まり、いろいろな訴えが表に出てきました。当時、それほど深く考えずに「空気を食べて被曝した」と作った句が、今となってはすごく重いものになってしまったことを感じないではいられません。

「あの日」の記憶がよみがえってくる

ウネラ 今年1月提訴の「311子ども甲状腺がん裁判」。5月26日に第一回口頭弁論が開かれました。中村さんはこの裁判のことをどのように見ていますか。

中村 裁判はまだ始まったばかりで、私が立ち入って意見を述べる立場にはありませんが、原告の方々の不安やつらさは、少しは私にもわかるような気がします。
 私自身、2011年3月15日、浜通り地方からの避難者を受け入れる業務に、放射性物質を多く含んだ雨に打たれながら従事した記憶があります。今のところとくに健康に支障はありませんが、健康診断の血液検査などで、一時ある項目が異常値を示しました。甲状腺の病気が疑われるもので、それを知ったときは、ひょっとしてあのときの被曝が原因か、とすぐに「あの日」に引き戻され、一歩も身動きできなくなる感覚にさいなまれました。その後、別の検査で、甲状腺に異常はないとわかりましたが、それでも、「あの日」の記憶が必ずよみがえってくるのですね。こういった感覚を、福島に住む人なら、少なからず持っているのではないかと思います。
 「春の牛空気を食べて被曝した」の句は、飯舘村のことを念頭に置いて作ったのですが、当時飯舘村で牛を飼っていた長谷川健一さん〈原発事故被害者団体連絡会(ひだんれん)共同代表〉も甲状腺の病気で昨年逝去されました。長谷川さんと私は面識はありませんでしたが、ついつい、子どもに限らず大人もか、と思ってしまいます。決して他人事ではない。
 時間が経てば経つほど重くなってくるこの句に、ちょっと怖さを感じますね。

※中村さんは、長谷川さん追悼の意を込めて「牛逝かせし牛飼も逝く被曝地冬」という句を詠んでいる

「春の牛」の句が生まれた瞬間

ウネラ この句は中村さんの代表句だと思います。句ができた時のことを、少し詳しく教えてください。

中村 そもそも自分は「代表句」を持つことができるほどの俳人なのかという思いがあるので、「代表句」と言われると正直戸惑います。気恥ずかしい、畏れ多い、という感じです。ただ、下手に謙遜しても嫌味ですから、それはそれとして(笑)。もう一つ、これが仮に「代表句」だとしても、この句が生まれたのは、あの「東日本大震災」「原発事故」という不幸があってのことですから、「不幸」から生まれた「代表句」というのも、なんというか、本来はあってほしくないものだなとも思います。この句は確かに私にとっては大切な句です。でも、本来なら、こういう句が詠まれなくてもいい社会であってほしいもの、という思いもあります。
 さて、前置きが長くなりましたが、この句ができたのは2011年の5月半ばごろだったと記憶しています。季節はもう夏に入っていました。3月に震災と原発事故があって、しばらく混乱が続いた後、だんだんに日常が戻りつつあったころのことです。しかし、福島県は原発事故による放射能汚染がひどく、私が住んでいる中通り地方でも、毎日測定される放射能測定値は非常に高いものでした。当時私の息子は5歳でしたから、家庭内でも、このまま住み続けていいものか、どこか安全な場所に避難すべきではないか、など身の振り方を決めかねる状態でした。とても俳句などできる状態ではありませんでした。もちろん、作ろうとは試みていたんです。でもろくなものができない。
 「春の牛」の句以前に、一つだけまともな句ができたのは覚えています。

陽炎や被曝者失語者たる我ら

 この句は呻吟して推敲してやっと出来上がった句です。ほかには、短歌がありました。

被曝検査受けねば避難受け付けぬと雨を濡れ来し親子帰さる

 この歌は実体験があったから反射的にできたんですね。俳句の場合はなんというか、体験が体の中に一回沁みとおらないと言葉にならないようなところがあって、3月4月は、まったく俳句ができませんでした。一つ短歌もできましたが、自分の体質とはどこか合わないのもあって転向もできず、悶々としていた時期でした。
 そんなときに、ある朝目覚めて、ふっと「春の牛空気を食べて被曝した」という句が浮かんできたんです。頭の中に、ぽこっと泡が立ったみたいに。

ウネラ 中村さんの師匠である金子兜太氏の作品に「猪(しし)が来て空気を食べる春の峠」がありますよね。

中村 そうなんですが、「空気を食べて」が兜太先生の句の本歌取りということも、あんまり意識していなかったんじゃないでしょうか。当時、福島県飯舘村の全村避難のことが話題になっていました。飯舘村は畜産がさかんで、牛もたくさん飼育され、また被曝していました。その牛をどうするか。そんなことが頭の中のどこかにあったのかもしれませんね。でも、できた時はそんなことはまったく考えていませんでした。無意識にこの句が生まれてきて、ノートに書き留めました。無心の一句だったので、ああ、これで俳句が復活したかも、とも思いました。

師、金子兜太が枕元に

ウネラ 受け入れがたい現実を前に生まれた、超自然的な句だと感じます。

中村 ただ、その次の日の明け方、こんな夢を見ました。「おい、これは俳句じゃねえぞ、『春の牛空気を食べて被曝した』なんて、こんなのは俳句じゃねえんだ」と金子兜太が夢に出てきて言うんですね(笑)。思わず目が覚めました。やっぱりだめですか先生、と、しばらく力が出なかったですね。ただ、一方で、ただの夢じゃないかとも思いました。金子兜太にこっちの現実が本当にわかるのか、牛だけじゃなくてこっちは人間が被曝しているんだ、それを俳句で伝えてなにが悪いんだ、少なくともこの句は自分の中から生まれてきた句じゃないか、そんな風に勝手に自分の中で反論していたんですね。
 で、結論。やっぱり自分の句なんだから、これは表に出すしかない。「空気を食べて」は「猪が来て」の句を下敷きにしているから、きっと金子先生も喜ぶに違いない、と勝手に判断して、朝日俳壇に投稿しました。そうしたら何日かして新聞に掲載されていました。2年半後くらいに金子先生とこの句についてお話しする機会があったのですが、(NHKのETV特集「94歳の荒凡夫~俳人・金子兜太の気骨~」)そのときの先生の言葉が印象的でした。
 この句の「春の牛」の「春」を普通の人には持ってこられないんじゃないかな、とおっしゃっていたんです。自分の句ながら妙に感心して聞いてしまいましたね。こっちは、あの震災時に結構きつい「春」を体験していた。だから「春」という言葉には、生で体験したこと以上のニュアンスを抱いていなかったのです。そうか、そういうふうに受け取ってもらっていたのか、と感心しつつ、驚きつつその話を聞いた記憶がありますね。
 また、この句が「猪が来て」をもとにしているという話題になったときに、二人で一緒にこの句を唱和したのも忘れ難いです。これはテレビでカットされましたけれど(笑)。夢で「こんなのは俳句じゃねえ」と叱られた話も笑みを浮かべて聞いてくださいました。どれも忘れ難い思い出です。先生の遺句集「百年」の中に「遠く雪山近く雪舞うふたりごころ」という句があるんですが、きっとこの日の対談のことを詠んでくださっているんじゃないかなと思います。「ふたりごころ」がうれしいですね。と、長くことばを連ねて書いてきましたが、こうしてみるとやっぱり「代表句」になるのでしょうね。

【つづく】

 

俳人で福島県立高校教諭の中村晋さん

中村さんの意向により、句集『むずかしい平凡』の売上は現在、「311子ども甲状腺がん裁判」に寄付されています。句集はウネリウネラBOOKSより通販でお求めいただけます。

 


中村晋(なかむら・すすむ):1967年生まれ。俳人、福島県立高校教諭。1995年より独学で俳句を作り始め、2005年からは故・金子兜太に師事。2005年福島県文学賞俳句部門正賞、2009年海程新人賞、2013年海程会賞受賞。2011年の東日本大震災・原発事故以降は、勤務する高校の授業にも俳句を取り入れ、生徒たちと作句を通じ命や社会のあり方について考え続けている。著書に第一句集『むずかしい平凡』(BONEKO BOOKS/2019年)、『福島から問う教育と命』(岩波ブックレット/大森直樹氏と共著、2013年)など。

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ウネリウネラ
元朝日新聞記者の牧内昇平(まきうち・しょうへい=ウネリ)と、そのパートナーで元同新聞記者の牧内麻衣(まきうち・まい=ウネラ)による、物書きユニット。ウネリは1981年東京都生まれ。2006年から朝日新聞記者として主に労働・経済・社会保障の取材を行う。2020年6月に同社を退職し、現在は福島市を拠点に取材活動中。著書に『過労死』、『「れいわ現象」の正体』(共にポプラ社)。ウネラは1983年山形県生まれ。現在は福島市で主に編集者として活動。著書にエッセイ集『らくがき』(ウネリと共著、2021年)、ZINE『通信UNERIUNERA』(2021年~)、担当書籍に櫻井淳司著『非暴力非まじめ 包んで問わぬあたたかさ vol.1』(2022年)など(いずれもウネリウネラBOOKS)。個人サイト「ウネリウネラ」。【イラスト/ウネラ】