第2回:春の牛空気を食べて被曝した〈下〉(牧内麻衣)

東日本大震災と原発事故から11年が過ぎました。福島では今もさまざまな形で被害は続いていますが、世の中の関心が薄れ、記憶の風化が進んでいることは否めません。しかし、悲惨な原発事故を経験した俳人で高校教員の中村晋さんは、事故後から現在に至るまで、福島の高校生たちと俳句を通じて語り合うことで、「命そのものの尊さ」を実感できる社会を取り戻そうとしています。そんな中村さんの句を取り上げ、お話を伺うことで、もう一度震災と原発事故をみつめ直し、今の社会について一緒に考えていこうという連載です。

子どもたちの悲痛な声

ウネラ 今回も前回に引き続き、「春の牛空気を食べて被曝した」という句とともに、事故当時子どもだった若者6人が声を上げている「311子ども甲状腺がん裁判(※)」について、お話を深めたいと思います。

※東電福島第一原発事故当時に福島県内に居住していた男女6人が、事故に伴う放射線被ばくにより甲状腺がんを発症したとして、東電に損害賠償を求めている裁判

中村 この裁判が提起され、「春の牛」の句がより重い意味を持ち始めてしまった、といった話をしましたね。

ウネラ 中村さんはこの裁判を特別な気持ちで見守っていらっしゃいますね。福島では他の多くの方々からも「この声を無視したり退けてしまったりする社会でいいのか」といった声をお聞きしています。11年の月日を経て裁判の場で沈黙を破った若者たちの声を、どう受け止めていますか。

中村 先日(5月26日)の第一回口頭弁論の要旨(意見陳述書)を読みました。この文面、とても心揺さぶられるものがありました。内容についてはもとより、言葉の間から染み出てくる揺れる心情に胸が痛みました。どれほどまで自分自身の存在がないがしろにされてきたか、その悲しみにじっと耐え、しかしそれでもそこから漏れ出てくる深い悲しみ。彼ら彼女らは言いたくても言えない苦しみを長く抱え続けてきたのだろうと察します。一俳人の勝手な想像ですが、もし彼らが俳句を詠んだとしたらどんな作品ができあがるだろうか、などと思ってしまいます。

ウネラ 裁判の原告ではありませんが、中村さんの生徒さんたちが作った句にも「言いたくても言えない苦しみ」が表れている気がします。正確な情報が得られず大人も右往左往している状況下で、子どもたちは相当な我慢を強いられただろうし、無邪気に本音を言えるような環境ではなかったと思います。裁判に訴えた若者たちとも重なる部分があるのではないでしょうか。

中村 事故後から若い生徒たちと、授業や部活動を通して俳句を作ってきました。これまでいくつか紹介してきた作品には、たしかに口に出せない思いが俳句で吐露されたものもありました。

放射能無知な私は深呼吸     髙橋琳子

 などは、当時の自分を「無知な私」と少し卑下しつつ、しかし、そこに後悔や不安、怒りなども感じさせるものになっていますね。

「外出るな」子ども心に蓋した春  佐藤彩香

 なども当時を思い出して、親の心配を理解しつつも自由に遊ぶことを我慢していた自分の心を描いています。

ウネラ 当時の状況と複雑な心境がストレートに伝わってきます。

記憶の風化

中村 ただ、こういう生徒ばかりではないんですね、実際には。こういう切実な思いを持っている生徒は確実に少なくなっています。この春、高校を卒業していった生徒たちは、震災時小学2年生でした。当時の記憶を聞いてみると、地震の激しい揺れのことは記憶していても、原発事故で自分たちが危険にさらされていたことを自覚している生徒は少なかったですね。
 「自覚がない」ということにもいくつかパターンがあって、一つ目はまったくなんとも思っていなかったというもの、二つ目は、放射能汚染のことはおぼろげながらわかっていても無意識的に忘れているもの、三つ目は、意識的にその話題を避けて自覚しないようにしているもの、に大別されるように感じられました。
 最初のパターンの生徒に対しては、いろんな記憶をたどって、こんなことを覚えていないかなと問いかけ働きかけてみましたが、なかなか反応がありませんでした。さらにいろいろ聞いてみると、家庭内で原発事故のことがほとんど話題にならなかったようでした。

福島市内の風景(撮影:ウネリウネラ)

ウネラ 原発事故による被曝をめぐっては、事故直後から福島に「専門家」といわれる人たちが続々と入り、各地で講演などを開いたという経緯がありますね。「年間100ミリシーベルト以下なら安全」とか、「ニコニコしている人に放射能の影響はない」などという発言もありました。これらの発言は後に一定数の批判も浴びましたが、同時にあの講演をきっかけに「安全なんだ」と考えた福島県民も多かったと思います。

中村 山下俊一さんたちのことですね(※)。正直言うと、私自身も彼らの講演をラジオで聞いて、妙に乗せられてしまった部分もあるんですね。当時、勤めていた学校が避難所になり、緊急事態が続いていたから、この事態をなんとかしなくてはと気張っていた自分もいたんです。ですから山下氏らの講演に共鳴する部分もあったことは確かです。時間が経てば、「あれはとんでもねえことだ」というのはわかるのですが、あの時点で私はそこまで判断できませんでした。

※「山下発言」についての詳細記事はこちら(ウネリウネラ公式サイトより)https://uneriunera.com/2021/04/04/kodomodatsuhibaku8/

ウネラ あのような混乱のなかでは無理もないと思います。

中村 私自身はその講演を最初から最後までしっかり聞いたわけではないんです。ラジオで聞いたのはごく一部でした。
 妻は、ラジオで講演内容を聞いたようでした。あとで私にその内容を語ってくれましたが、妻の話のこんな部分を私は覚えています。質疑応答のとき、聴衆のひとりがこんな質問をしたのだそうです。「私は酪農を営んでいるが、牛に与える飼料は外国から輸入している。また震災以降、牛を牛舎から外に出していない。それなのになぜ牛乳から放射性物質が検出されるのか」と。それで、後日その講演の再放送があるというので聞いてみました。ところが、その部分を放送では聞くことができませんでした。巧妙にカットされたんでしょうか。でも、そういうこともかえって印象に残り、「牛は空気と一緒に放射能を吸い込んだんじゃないだろうか。これは人間も同じだろうな」そんな思いも生まれました。
 ですから、山下氏らの存在は、当時の私にとっては両義的というか、消化しきれない部分がありました。ただ、牛の話はやっぱり心に残っていました。この被曝というのはひどいことだなと。そしてその思いが時間とともにだんだんと膨らんできて、ある日「春の牛空気を食べて被曝した」の句になったのかもしれません。とすると、「春の牛」の句の生みの親は、山下俊一氏だったということになってしまうわけですが、そうなるとちょっと笑い話にもなりませんね。

「知りたくなかった」被曝

ウネラ 「おぼろげながらわかっていながら無意識的に忘れている」というのが二つ目、「意識的にその話題を避けて自覚しないようにしている」のが三つ目のパターンでしたね。

中村 そうです。二つ目のパターンの生徒とはこんな会話をしました。

私:「震災のあと、一度、福島から県外に『引っ越した』って言ったけど、それって単純な引っ越しだったのかな」
生徒:「そうだったと思うけど」
私:「引っ越しの理由ってなんだった?」
生徒:「弟がこれから生まれるから、放射能が少ないところにいくってことだったかな」
私:「うーん、それってさあ、引っ越しでもあるけれど、避難でもあるんじゃないかな」
生徒:「ああ、たしかに。なんで引っ越しって言ってたんだろう?」

 彼はこんな俳句を作りました。

放射能避難と言わず引っ越した   石川健一

 三つ目のパターンの生徒はこんな風に言っていました。
 「とにかくもうあの頃『放射能』だとか、『危ない』とか、いろんなニュースが飛び交って、何が何だかわからなくて。でも、なんだかんだ言って大丈夫じゃないかって思って。それでそういう情報を完全にシャットアウトしていました」
 そうか、と私は話を聞きましたが、ちょうどそんな折りに、今度の311子ども甲状腺がん裁判の話がニュースに飛び込んできました。そしてこのニュースを彼に知らせました。すると、ちょっとびっくりしていたようでした。
 「こういうことがあったんですね。知らなかったというより、僕自身が知りたくなかったんですね」
 そのあと彼はこんな句を作ってくれました。

十年間被曝したこと見ないふり   氏家洸志郎

ウネラ 「シャットアウト」するという反応も、わかるような気がします。あのような悲惨な出来事から目を逸らさず、真正面からみつめ続けるのは、大人でも苦しいことでしょう。上の句は中村さんとのやり取りを通じて生徒さんが無意識的に閉ざしていた心がぱかっと開いた瞬間の句というか、ちょっとした奇跡のようにも感じます。

中村 生徒が作る俳句はほんとうに多様です。それは、震災が及ぼす影響の多様さに重なっているのではないかと思います。俳句はとても短く、小さい表現形式です。しかし、生徒たちの作品を一覧にして味わうと、小さい表現の中に奥深い息づかいが聞こえてきたりもします。そして読む側の読み方一つで、一気に深い作品に変わることもあります。何気なく作った一句が、意外な形で他の人の心に届くこともあり、句会によって、生徒たちは、自分の言葉が他者とのつながりを生んでいることに気づくようです。実際には、そこまで授業でもっていくには困難も多いのですが、やればやったなりの甲斐もありますね。
 ところで、原告6名の方々は、裁判に向けてきっと自分の言葉を練り上げていることでしょう。それらの言葉を発するまでにはほんとうに勇気が必要だったと想像します。私が知っている生徒たちも、いろんな形で社会の影響を受け、抑圧され、その本質は共通しているところはあると感じられますが、しかしその度合いには差があると思います。

東京電力福島第一原子力発電所(撮影:ウネリウネラ)

「春の牛」が問いかけるもの

ウネラ 今回の裁判の一報を聞いた時、「春の牛空気を食べて被曝した」の句がまっさきに思い浮かびました。作品がより不気味なリアリティを持ったと感じました。牛だけではない、人間も被曝したんだということを、若者たちによって突き付けられたのですから。

中村 「春の牛」の句を原告の彼らが読んだらどんな反応をされるでしょうね。正直、まったく予想できません。知りたいような、知りたくないような。
 彼らだけでなく、何か言いたくても言えなかった子どもたち、多かったと思います。今回の裁判で声を上げた方々だけでなく、長期にわたって避難を強いられた子どもたちや避難したくてもできなかった子どもたちが、社会のどこかに隠れた形できっと今もいることでしょう。また、子どもたちだけでなく、その親たちも言葉にできず苦しんだのではないでしょうか。復興の掛け声で、そういう小さな声は、今はもうなくなってしまったと感じてしまいがちですが、私たちが知らないどこかで今もきっと苦しんでいる人がいるんじゃないかと想像します。
 「春の牛」の句がどう受け止められるかわかりませんが、かつてこんな句を作り、こういう状況の中で私たちは生活しているんだと告発し、ほんとうにこんな状況を許していいのかと問いかけた人間がいるんだと、今も苦しんでいる方々に知ってもらえたらうれしいですね。「俳句」はとても小さな言葉でしかありませんが、それでも何らかの形で社会とつながり、微力ながら社会をいい方向に動かす可能性があると私は考えています。

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中村晋(なかむら・すすむ):1967年生まれ。俳人、福島県立高校教諭。1995年より独学で俳句を作り始め、2005年からは故・金子兜太に師事。2005年福島県文学賞俳句部門正賞、2009年海程新人賞、2013年海程会賞受賞。2011年の東日本大震災・原発事故以降は、勤務する高校の授業にも俳句を取り入れ、生徒たちと作句を通じ命や社会のあり方について考え続けている。著書に第一句集『むずかしい平凡』(BONEKO BOOKS/2019年)、『福島から問う教育と命』(岩波ブックレット/大森直樹氏と共著、2013年)など。

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ウネリウネラ
元朝日新聞記者の牧内昇平(まきうち・しょうへい=ウネリ)と、パートナーで元同新聞記者の竹田/牧内麻衣(たけだ/まきうち・まい=ウネラ)による、物書きユニット。ウネリは1981年東京都生まれ。2006年から朝日新聞記者として主に労働・経済・社会保障の取材を行う。2020年6月に同社を退職し、現在は福島市を拠点に取材活動中。著書に『過労死』、『「れいわ現象」の正体』(共にポプラ社)。ウネラは1983年山形県生まれ。現在は福島市で主に編集者として活動。著書にエッセイ集『らくがき』(ウネリと共著、2021年)、ZINE『通信UNERIUNERA』(2021年~)、担当書籍に櫻井淳司著『非暴力非まじめ 包んで問わぬあたたかさ vol.1』(2022年)など(いずれもウネリウネラBOOKS)。個人サイト「ウネリウネラ」。【イラスト/ウネラ】