2011年の東日本大震災と原発事故はいまだ解決の糸口も見出せない状態ですが、記憶の風化がどんどん進んでいます。悲惨な原発事故を経験した俳人で高校教員の中村晋さんは、原発事故後、福島の高校生たちと俳句を通じて語り合い、「命そのものの尊さ」を実感できる社会を取り戻そうとしています。そんな中村さんの俳句から、もう一度震災と原発事故をみつめ直し、今の社会について考える短期連載です。
中村さんの「東北観」
ウネラ 今回は「東北」をキーワードに進めていきたいと思います。というのも、私は山形県(高畠町)で生まれ育ちました。福島よりも雪深い土地に育ち、都会に出たくて仕方なく大学で上京し、いろいろあって、今は故郷の隣の福島に辿りついています。これまで詳しくお聞きしたことはありませんが、中村さんは福島のご出身ではありませんよね。だから、ふたりの「東北観」は接点もあるし、相違点もあると思います。中村さんの句を通じて、読者の皆さんに「東北」を様々な角度から見てほしいと思いました。
中村 なるほど、それはおもしろそうです。
ウネラ そして、掲句。これは「嚙み」に震えました。家が農家(兼業ですが)だったからか、この「嚙む」という表現が私にはとてもしっくりきたんです。そこはかとない悲哀もあり「簡単にわかってくれるな」というような東北の屈折(あまり悪い意味に取られたくないんですが)も感じます。
中村 「嚙む」にこだわって読んでもらって光栄です。この「嚙む」にどんなイメージを抱いてもらえるか、そこが狙いでしたから。「田作」(「ごまめ」のことですね)の味と「フクシマ」への思いとを嚙みしめるとどんな味がするか。ちょっと苦い感じがして、なんとなく顔がゆがんでくる感覚を得てもらえればうれしいですね。ウネラさんのいう「屈折」というのもそんな感じではないでしょうか。
もう一つ「田作」という季語の面白さにも影響を受けました。米を作るのが困難になった福島で食べる「田作」というところに、言葉の面白さを感じたんですね。正直、ちょっと遊び過ぎたかなとも思うところもあったのですが、そういう句があってもいいかなと。言葉遊びで言えば、「大根干す老婆は一日に成らず」なんていうのもありました。いつもしかめっ面して俳句を作っているわけではないんですよ、とこれは強調しておきたいところです。
「福島生まれ」でないコンプレックス
ウネラ 次にお聞きしたいのはこの句です。
中村 なるほど~。どんなふうに感じましたか。
ウネラ 「肉厚な闇」に衝撃。幼少期にタイムスリップした感じでした。都会でも夏祭り、盆踊りを経験しましたが、「実家の盆踊りと何か違う……」といつも思っていたんです。それが「闇の違いだったのか」と一気に合点がいきました。獣や化け物も一緒にそこにいる、この世とあの世の重なりみたいな闇。そんなふうに捉えました。
中村 ウネラさんの感覚にまったく賛同です。私は、東京都八王子生まれなんです。父親の転勤で、幼少期に広島、静岡に行き、中学3年から高校を静岡県の浜松で過ごしました。初めて東北(仙台)にやってきたのが大学生になってからです。ですからネイティブ東北人ではないんです。
その後は、宮城県で教員を3年、その後は福島県に移ってきて今に至っていますから、実際には東北在住期間のほうが圧倒的に長いのですが、自分としては、「福島の俳人」と言われても微妙な感じ。一方で「東京都生まれ」と言っても偽っているような気がして、ほんとに微妙な感じです。ですから、句集には「福島市在住」としか書けませんでした。それがコンプレックスになっています。
ウネラ あのプロフィール表記はそういうことだったんですね。
中村 しかし、だからこそ感じることができるものもあるのかなとも思います。ウネラさんが都会に行くことでかえって「故郷の盆踊り」は他と違うと感じたように、私もネイティブ東北人ではないゆえに「東北の盆踊り」は何か違うと感じていました。そのことは長い間言葉にできませんでしたけれど、この句で少し表現できたかも、と感じています。今一つ、リズムがこなれていないんですけれどね。
この句は、震災後にできた句です。できるだけ福島から離れ、被曝を避けようと、夏の間、盛岡に旅行したときの光景だったように記憶しています。盆踊りだけでなく、灯籠流しもしていました。そんな光景を見ていると、東北って祭りが盛んだなと思いましたね。青森のねぶた、秋田の竿灯、山形の花笠、仙台の七夕などなど。精霊を迎えて祭り、そしてまた送るという儀式に厚い地域だなと。それが「肉厚」なんていう言葉になったんでしょうね。でも、これも種明かししてしまうと、金子兜太の句、「暗闇の下山くちびるをぶ厚くし」がどこかにあったと思います。どれだけ金子兜太から影響を受けているか、今自分でも確認しているところです。
雪を受け入れる度量
ウネラ 次の句は私が大好きな句でもあるのですが……。
中村 この句を気に入ってくれたんですね。
ウネラ 自然と故郷を意識しました。私の実家あたりは「しんしんと」などという美しい雪の降り方はしないんですね(苦笑)。「深眠り」という表現を見た時「これだ!」と思いましたね。明朝の積雪を思う憂鬱、静かすぎてかえって音が聞こえてくるようにさえ感じる静寂。私にとってはそれらが苦痛だったのですが、「深眠り」という表現がとてもやさしく、しかも本質を捉えているように感じられて、故郷への思いが一変しました。
中村 雪国に住む方が抱く雪への思いは複雑ですよね。妻子が自主避難していたのは山形県の川西町(ウネラの実家の隣町)でしたが、ここも豪雪地帯で、地元の人はよく「雪は悪魔だ~」と語っていました。とはいえ、この雪あっての文化や風土というものを地元の人は誇りに思っているようなところもあって、愛憎入り混じった面があったのではないでしょうか。雪が多ければ雪を憎み、かといって雪が少なければそれはそれで夏の水不足なども心配していたのではないかな。
ウネラ 確かに、生活と雪は切り離せないものでした。私が仕事で静岡に赴任していた時、静岡では「雪見遠足」があると知って驚き、複雑な気持ちになりました。雪って生死にかかわるものだという意識ですから、子どもが見たり触ったりして楽しむものなんかじゃないぞと。
中村 この句は、妻子が自主避難している時期の句です。主に私が福島と川西町を週末に往復していました。雪の時期は天候や交通事情を気にかけながらの往復でした。山形の雪の降り方は、福島市内などとはまったく異なっていて、雪が降ってしばらくして止んだな、と思っても、どんよりと暗く重く、やがてそれもつかの間、またさらに激しく降り出してきたりして、はたしていつになったら止むのだろうかと人を憂鬱にさせるものがありました。
そんなとき、真っ白に平らに広がる雪の田んぼの様子を見ていると、ここにはただ雪を受け入れているだけの動じない度量があるなあ、などと思ったものでした。人間は小さいなあ、なんてことも思ったかもしれませんね。そして、この度量の大きさというものに、なんとなく東北らしさを感じたのかもしれません。
「深眠り」なんて言葉がどこからやってきたのかはよくわかりません。冬の季語に「冬眠」とか「山眠る」などという語もあるので、その連想かもしれませんね。あるいは、やがて雪解けがきて、その水が地中深くにしみこんでいくことを思って、「深眠り」なんて使ったのかなあ。ウネラさんの故郷への思いに、この一句が変化を与えたのだとしたら、この句もなかなかやるなあと褒めてあげたいですね。
雪の福島(撮影:ウネリウネラ)
青い胸板
ウネラ そして、この句です。どうしても紹介したかった作品です。
中村 この句、純粋な東北礼賛の句です。
ウネラ はじめて読んだ時、すとんと胸に落ちました。
中村 この句ができたのは、ちょうど学校の「衣更え」の時期でした。俳句では「更衣(ころもがえ)」と書くんですが、そんな爽やかな時期に、山々を見ていると、なんだか「東北っていう地域は、青々とした胸板みたいだなあ」と思ったのです。日本地図でも、ちょうど三陸海岸あたりが、胸を反り返しているみたいじゃないですか。そういう肉体感覚と「更衣」という季語とがぴたっとはまる感じで、この句がふわっと舞い降りてきたんですね。こういう経験はめったにありませんが、この句はそんなまれな形で降りてきた一句です。
あとで、先輩から「あなたのこの句、兜太先生の『人体冷えて東北白い花盛り』を踏まえていますね」と指摘されました。自分では気づきませんでしたが、明らかにそうですね。「春の牛空気を食べて被曝した」もそうですが、ほんとうに金子兜太という存在の大きさを痛感します。
ウネラ ただ、ひねくれ者の私は今読むと「この国はどこまで東北の胸板によりかかかり続けるつもりなんだ」といった気持ちも抱いてしまいます。
中村 「どこまでよりかかるんだ」とは「どこまで東北を犠牲にするんだ」という怒りですよね。私も震災があってからしばらくはそんな思いにとらわれました。
でも、よく考えると、これは東北だけのことではなくて、日本全体で、とくに立場の弱い人たちにいえることではないか、と感じるようになりました。コロナ禍では、東京都内の方でも見捨てられていましたから、こういうことは東北だけじゃない、もう、どこでも起こり得るんだと今では思っています。
原発再稼働だって、福島以外のところで始められるのでしょうから、もう東北に限ったことではないです。でも、原発事故にしても、遠い「福島」のことだと思っている方々がまだ多いんじゃないかな。その危機感の薄さに私などは落胆しますけれどね。でも、落胆はしても絶望しちゃいかんとも思います。そこがつらいところです。
東北の蝉時雨
ウネラ 生徒さんの句で印象的だったものを紹介します。
この句は「放射能」という語が入っていますから、被曝の問題を否応なく想起させますが、私は「蝉時雨」が悲鳴のようであるという表現に「東北」らしさを感じました。都市で暮らしてから、夏休みで田舎に帰省するたびに、蝉の鳴き声の凄まじさを感じました。一体いつまで鳴き続けるんだと苦しくなるような絶叫なんですよね。それを作者は「悲鳴」を表現しています。この悲鳴に実感があるからこそ、「放射能」という語と見事に響いたのではないでしょうか。中村さんはどのように感じていますか。
中村 ウネラさんがこの句に「東北」らしさを感じたとのこと。正直意外な感に打たれています。「蝉時雨」という語に対する個人的な思いというものがそうさせているんでしょうね。面白いですね。
この句のことはよく覚えていますよ。以前に話題になった「原発なんか全部爆発すればいいんだ」という発言があったときに、同じ教室にいた生徒の作品ですから。彼とは、放射能のことを話題にしていろいろ話したことがあるんですが、当時19歳だったこともあって、自分たちより若い子ども、小学生などのことを心配していました。僕たちはまだ、そういう危険についてある程度理解できるからいいけれど、子どもたちはわからないから、危険を感じないで生活するかもしれませんよね、それはなんだか心配です、と語ってくれました。同じ被曝体験をしても、どの年齢でそれを体験するかで感じ方が違うなと思ったことを覚えています。「悲鳴のような」というところに、彼は、子どもたちやその母親たちのことを思っているんじゃないかなと思いました。
定時制の生徒で、働きながら学んで、またとてもやさしい気持ちをもった生徒でしたから、他者への思いやりがこういう句になったんじゃないでしょうか。同時作に、「マスクして被災者にさし出すマイク」というのもあります。震災当時、彼はボランティアをしたそうです。そのときテレビのレポーターが、自分はマスクをして、マスクをしていない被災者にマイクを突きつけていた。その非対称性に違和感を覚えたんでしょう。いや、憤りかな。そういう気持ちをもっている生徒でした。というように、この句はその震災当時を色濃く思い出させる作品ですね。
また、実は、この生徒はこの句の前年に、神奈川大学高校生俳句大賞に入選していて、2011年3月12日、一緒に授賞式に参加する予定だったのです。ところがその前日に大地震。11日の深夜にやっと連絡が取れて、「明日の授賞式、どう考えても無理だね」などと話しました。当然授賞式も中止。そして、彼は再度これらの作品で応募して、再度入選しました。でも、今度は私が8月に転勤。結局彼と授賞式には参加できなかったというのも何かの因縁ですね。
ですから、ウネラさんとは別の意味でこの句は個人的な記憶を呼び起こす作品です。俳句って、面白いですね。
福島市内はよく虹がかかる(撮影:ウネリウネラ)
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