大矢英代さんに聞いた:戦後73年。今こそ「沖縄戦」から学ぶべきことがある

現在、全国で公開中の映画『沖縄スパイ戦史』。住民を動員して行われた「スパイ戦」、強制移住によって多くの住民が犠牲になった「戦争マラリア」など、これまでほとんど知られていなかった沖縄戦の側面を、多くの人たちの証言で描き出すドキュメンタリーです。この映画を、マガ9でもおなじみのジャーナリスト・三上智恵さんとともに監督したのは、三上さんの琉球朝日放送での後輩でもある大矢英代さん。弱冠31歳という若い世代の彼女が、なぜ今「沖縄戦」を取り上げたのか。沖縄との出会い、取材の中で感じたことなど、お話をうかがいました。

責任感と悔しさ。留学先のアメリカで出会った「沖縄」

──三上智恵さんと共同監督された、沖縄戦がテーマの映画『沖縄スパイ戦史』が公開中です。大矢さんはもともと千葉のご出身ですが、沖縄とのかかわりはどこから始まったのですか。

大矢 大学3年生のとき、アメリカのカリフォルニア大学に留学したんです。そこで、アメリカ人外交官が特別講師を務めるあるワークショップに参加したのがきっかけでした。彼は対日政策を専門にしている外交官だったのですが、私を見て「今日は日本人留学生がいるから」といって、沖縄にある米軍基地についての話を始めたんですね。
 それまで私は沖縄に行ったこともなかったし、正直なところ基地の問題にもそれほど関心があったわけではありません。国連職員や難民キャンプでのボランティアにあこがれたりと、国内よりも海外にばかり目が向いていた時期でした。それでも、その外交官の話には、「おかしい」と感じることがたくさんあったんです。

──どんなことですか?

大矢 「米軍基地があることで、沖縄は経済的に助けられている」とか「米軍は沖縄の人々とフレンドリーな関係を築いていて、住民はみんな米軍に対してウェルカムだ」とか……。沖縄で米兵による事件が多発していることや、基地建設に反対する県民大会が開かれていることは知っていましたから、それはおかしいんじゃないかと思って、授業が終わった後に講師のところへ行ってそう伝えたんです。
 そうしたら、彼は鼻で笑って「いいかい、沖縄に米軍基地があることはグッド・ディール(いい取引)なんだよ」。北朝鮮や中国のような「クレイジーなやつら」が攻めてきたときに、日本人のかわりに米兵が死んでくれるんだから、というんです。
 それに対して、私はうまく言い返すことができませんでした。

──おかしい、とは思っても……。

大矢 そうです。沖縄に行ったこともなければ、そこに住む人たちの声を自分の耳で聞いたこともない。地元の人たちの抱える不条理を、自分の言葉で伝えることができなかった。そのことがとても悔しかったんです。
 同時に、「ボランティアに行って戦争で傷ついた人を助けたい」と思っていながら、紛争地に爆弾を落としている軍隊の飛行機が自分の国にある基地から飛び立っているという事実についてはまったく意識していなかったことにも気付かされました。海外で人を助ける前に、まず自分の国のことと向き合わないといけないんじゃないか、と感じましたね。そういう責任感と、うまく言い返せなかった悔しさと、二つの思いを抱えたまま留学生活を終えることになりました。

「戦争マラリア」って何? 「知りたい」思いに突き動かされて

──初めて沖縄に行かれたのは、その後ですか。

大矢 大学院に進学してからです。留学からの帰国後、どうしたら私は一番人の役に立てるだろうと考えた末に、もともと話したり書いたりするのが好きだったこともあって、ジャーナリストを目指そうと思うようになりました。それで、まずはスキルを身に付けるために東京の大学院に進学して。もちろん、ずっと「沖縄」は頭の中にあったので、1年生の夏のインターンシップ先に八重山毎日新聞を選んだんです。

──石垣島に本社のある地域新聞社ですね。

大矢 そうなんです。実は私、本当に沖縄のことを知らなくて……最初に社に行ったときに、「どんな記事を書きたいですか」と聞かれたので、「米軍基地の取材がしたいです」と答えてしまって。周りの方たちに大笑いされました(笑)。

──そうですよね。石垣島には、というか八重山諸島には米軍基地が……

大矢 そう、ないんです(笑)。「何しに来たの」、って笑われるところからインターンシップがスタートしました。

──でも、そこで「戦争マラリア」の問題に出会われた。

大矢 ちょうど、8月15日を向こうで迎えたのですが、朝刊の一面を見てびっくりしたんです。千葉で生まれ育った私にしてみれば、8月15日といえば、結びつくワードは「終戦」、そしてヒロシマ・ナガサキです。でも、石垣島の一面トップは「戦争マラリアの犠牲者に黙祷を捧げる」というものでした。
 「戦争マラリアって何?」と思って読んでみると、沖縄戦のとき八重山諸島では地上戦がなかったのに、軍の命令で「強制疎開」させられた結果、風土病のマラリアで3600人もの人が亡くなった、と書いてあった。まったく知らない話でした。そもそもなぜ米軍が上陸しなかった島々で「強制疎開」なのか。住民たちがどんな体験をしたのか。記事を読んで「もっと知りたい」と思って。そこから、戦争マラリアの体験者を訪ね歩く取材を始めたんです。

──いかがでしたか。

大矢 お会いすることはできても、なかなか話していただけないことが多かったです。「もう終わったことだから」「なんでいまさら話さなきゃいけないの」という感じで。それでも何人もお話をお聞きすることはできたし、「疎開」先の土地にいっしょに行かせてもらったりもしました。でも、それぞれの人の人生そのものに迫るといったような、深い取材ができたわけではなかった。
 それもあって、インターンシップが終わって東京に帰ってからも「戦争マラリア」のことはずっと心に引っかかっていました。「インターンシップどうだった?」と誰かに聞かれて「戦争マラリアの取材をね……」という話をしても、「何それ?」となってしまう。
 あれだけたくさんの人たちが亡くなった、八重山の人たちにとってものすごく大きな出来事だったのに、東京ではまったく知られていない。考えてみれば1カ月前までの私もそうだった。この、「見えない壁」みたいなものはなんだろうと思いました。単なる私たちの無知なのか、それとも誰かが意図的に「知らさない」ようにしてきた結果なのか……。
 そういうことをずっと考えた末に、この「戦争マラリア」を私の大学院生活のテーマにしよう、そのドキュメンタリー映像を卒業制作にしよう、と決めたんです。

──そのときには、文章ではなくて映像をやりたい、と思われていたのですか。

大矢 3週間新聞記者をやってみて文才の無さに気が付いたというのもありますが(笑)、これからいついなくなってしまうか分からない戦争体験者の肉声を伝え残すには、映像という手段が一番いいと思いました。
 それに、映像って、作り手自身の姿もそこに投影されると思っていて。私は、戦争マラリアの問題を見つめる23歳の自分自身を問う手段として、映像を選んだということだと思います。

映画『沖縄スパイ戦史』より
(c)2018『沖縄スパイ戦史』製作委員会

波照間で見えた「ジャーナリストとしての原点」

──それで、また沖縄に行って取材を?

大矢 もっと取材をしよう、と思ったときに考えたのが、東京と沖縄を行ったり来たりする形ではやれないな、ということでした。私自身がもし体験者だったら、遠くから突然来た人に自分の傷口を開いて話をしたのに、その人はすぐ帰ってしまってその後自分が話したことがどうなったのかもわからない……というのはつらいだろうな、と思ったんです。
 それで、ちょうど学生で時間もあったし、1年間休学して、現地に住み込んでしっかり人間関係をつくりながら取材しよう、と決めたんです。それで、向かった先が波照間島でした。

──石垣島からも高速船で約1時間の、「日本最南端の有人島」ですね。インターンシップ先は石垣島だったのに、どうしてまた波照間へ?

大矢 戦争マラリアの被害が一番大きかった島だというのが一つ。そして、こちらが本当の理由なんですが、インターンシップ中に波照間に遊びに行ったときに出会った、あるおばあちゃんに惚れ込んでしまったんです。
 たまたま島を散策していたときに知り合って、家におじゃまして夕飯をごちそうになったりしたんですが、実はそのおばあちゃんもまた戦争マラリアの被害者だったんですね。家族11人のうち、彼女と妹を除く9人が犠牲になったという人でした。

──『沖縄スパイ戦史』にも証言者の一人として登場されていますね。

大矢 そうです。浦仲のおばあというんですが、彼女の話を聞いているうちに、顔に刻まれた皺とか、澄んだ瞳とか、その何もかもにすっかり惚れてしまって。彼女のいる波照間に住みたい、と思ったんですね。
 それで、事前におばあに手紙を出して「家に泊まらせてもらえないか」とお願いしたら、浦仲のおじいのほうから「いいよ、おいで」という返事が来たので、意気揚々と向かいました。でも、浦仲の家の門を開けて「来たよー」と声をかけたら、出てきたおばあが私を見て言った言葉は「あんた誰ねー」でした……。

──え?

大矢 夏に会ったことも、一緒に夕食を食べたことも、もう完全に忘れ去られていて。じゃあ、おじいの手紙は? と聞いたら「誰か分からなかったけど、どこかの子どもが波照間に来たいっていうから、いいよって書いたんだよー。ああ、あれがあんたねー」……。改めて「はじめまして」から始めて、無事に泊まらせてもらいました(笑)。

──大変な出だしですね(笑)。じゃあ、その浦仲家に泊めてもらいながら取材を?

大矢 そうです。でも行ったのが12月だったので、最初の3〜4カ月は毎日サトウキビ刈りを手伝っていました。1日8時間、ひたすら体を動かすんですけど、すっごくつらかったです(笑)。
 ただ、そうやって浦仲のおじいおばあや島の人たちと一緒に働いて、話をする中で、見えてきたことがあります。戦争マラリアって、蔓延したのは1945年の3月から夏にかけてなんですが、それで「終わった」わけではないんですよね。マラリアで家族を亡くしたために学校に行かずに働かなくてはならなくなったとか、目指していた夢が叶わなかったとか、一人ひとりの人生に後々まで影響しているんです。

──「戦争マラリア」があったことによって、命が助かった人たちのその後の人生もまた大きく変わってしまったわけですね。

大矢 そうです。島に行く前は、戦争マラリアばかりを見ていたんですが、1年間島で過ごしたことで、そこから続いてきた人々の人生が見えるようになったというか。単に「戦争体験者」という枠でくくるのでなく、まずは島に生きてきた一人の人間としての人生を描きたい、と思うようになりました。その分、撮った映像も豊かになった気がしています。

──波照間の言葉も学ばれたとか。

大矢 波照間のじいちゃんばあちゃん世代は、普段「ベスマムニ(“私たちの島の言葉”という意味)」という波照間島でのみ話されている言葉で会話しています。いわゆる「日本語」は日常会話ではほとんど使わない。同時に、学校で「方言札」(※)を掛けられ、苦しみながら「日本語」を習得してきた人たちです。さらに戦争マラリアのために、学校で学ぶ機会すら奪われてしまった。
 浦仲のおばあも「私は日本語がうまくできない」って今でも悲しそうに言います。最初にインタビューしたときも、一生懸命「日本語」で話そうとしてくれるんですけど、何度も「ああ、これはヤマトの言葉で何て言ったかー?」みたいになって、どうにも苦しそうなんですね。言葉に感情や記憶が乗ってこないんです。私は大学で第二外国語として韓国語を選択したのですが、もし「自分の思いを韓国語で答えろ」と言われ続けたらすごく苦しいな、それを私はおじいおばあたちに強いているんだな、と思いました。
 そのことに気付いてからは、「じゃあ、私が波照間の言葉を覚えればいいや」と思って、ばあちゃんたちの会話をひたすら聞いて、書き取って勉強しました。あと、三線と一緒に民謡を習って、歌いながら覚えたり。そういうことも、私にとって人間関係構築のための大事な時間でした。

※方言札…いわゆる「標準語」の使用を徹底させるため、学校で方言を使った生徒に罰として首から掛けさせた札のこと。東北、北海道などでも用いられたが、沖縄では特に厳しく、明治時代終わりから第二次世界大戦後まで使われていた。

──サトウキビ刈りといい、まさに生活の中で取材をした、という感じですね。話し手との距離感も違ってくるような。

大矢 そうですね。最初は、浦仲のおばあにも戦争マラリアのことは「話したくない」と言われました。「自分の家族があれだけ亡くなったのに、誰がそんなことしゃべりたいか」と。
 私自身も、そうやってつらい記憶を語ってもらうという、その人のかさぶたをはがしていくような──もしかしたら、まだかさぶたにさえなっていないのかもしれない傷口をこじ開けるような作業を、何のためにやらなきゃいけないんだろうと、ずっと悩みながらの取材でした。
 ただ、おばあや島の人たちと一緒に時間を過ごす中で、話を聞いたからには伝えるんだ、一緒にこの傷を背負って、二度と同じことが起きないための教訓にしていくんだ、と感じるようになりました。その意味で、自分のドキュメンタリストとして、ジャーナリストとしての原点をつくってくれたのは波照間島だと思っています。

つくられた「分断」を目にして、涙が止まらなかった

──その後、東京に戻られてからは?

大矢 しばらくは、ずっと編集作業をしていました。修士論文と一緒に、卒業制作として作品を出さなくてはならなかったので。周囲では就職活動の話も聞こえてきましたが、私にとっては編集作業のほうが重要だったし、「卒業してから考えればいいか」と。無事に作品は完成して卒業できたものの、進路は何も決まらないままでした(笑)。

──それが、三上智恵さんのいらした琉球朝日放送(QAB)で、記者として働くことになるわけですが……。

大矢 卒業が決まった後、ひとまず波照間の人たちに「無事に卒業できました」と報告に行こうと思って、沖縄に向かったんです。それで、那覇の空港で乗り継ぎ待ちをしていたときに、「仕事どうしようかなあ」と思いながら、スマホをいじっていて。ドキュメンタリーを、それも沖縄でつくりたいという思いはずっとあったので、「沖縄 映像 仕事」で検索してみたら、琉球朝日放送の「契約記者募集」が出てきたんですよ。三上さんとは以前、あるイベントでお会いしていましたし、「あ、これ三上さんのところだ!」と。しかも、条件が「すぐ来れる人」だったので、「これ私のことじゃん!」と思いましたね(笑)。
 それで、波照間に着いてからすぐ履歴書を出しました。ちなみに、原稿用紙2枚の作文を書かなきゃいけなかったんですが、波照間島には原稿用紙を売っているところがなくて。浦仲のおじいが出してきてくれた、古くて黄色くなったぼろぼろの原稿用紙に、「2枚しかないんだから失敗するなよ」って言われながら書いて、出しました(笑)。
 面接のときも波照間からそのまま行きましたから、背中にリュック背負って……でしたし、落とされてもしょうがないと思うんですが、無事に入社が決まったんです。QABの懐の深さには本当に、感謝ですね。

──QABでの5年間で、特に印象に残っている取材はありますか。

大矢 たくさんありますが、中でも忘れられないのは、2012年の7月19日、三上さんと一緒に行った高江取材です。その日、ヘリパッド建設に反対する人たちが座り込みを続ける中で、工事資材の搬入が強行されて。私はまだ入社して2カ月で、基地がつくられようとしている現場に立つのは初めてのことでした。
 撮影していて何より悔しかったのは、資材を搬入している業者も、それを身を挺してでも止めようとする人たちも、沖縄県民同士だということです。抗議する人が「あんたもウチナンチューなのに、なんで戦争のための基地をつくるのに協力するの」と言えば、業者は「俺たちも仕事だから」という。でも、やりとりを続けるうちに、互いの言葉のイントネーションから「あれ、あんた宮古島の出身なの、俺もだよ」みたいな話も出てきたりする。基地さえなければ、分断されなくて済んだ人たちなんですよね。
 それを見ながら、なぜ同じ県民同士が、日本とアメリカという二つの政府の取り決めで沖縄に集中的につくられた米軍基地の存在によってこんなふうに分断され、踏みつけられて傷つかなくてはならないのかと、悔しくてなりませんでした。しかも、刃を振るってその「分断」を生み出しているはずの当事者たちは、誰もその現場にはいないわけで。そういう状況を初めて目の当たりにして、泣けて仕方ありませんでした。

今だからこそ、戦争体験から学ばなくてはならない

──昨年春には、QABを退社してフリーになられました。

大矢 ハードな仕事で肉体的に疲れていたというのもあるんですが……ローカル放送であるQABにいて、年々悔しさが増していたということもありました。人々が分断されているこんなひどい状況を生んでいるのは「沖縄県民」ではなくて「国民」なのに、沖縄で起こっていることを知らなくてはならないのは「沖縄県民」よりも「国民」のほうなのに、という葛藤をずっと抱いていたんです。沖縄の報道現場で学んだ者として、沖縄を離れて、より多くの無関心な人たちに伝える仕事をしなければ、という思いがありました。

──そして今回の『沖縄スパイ戦史』につながるわけですね。

大矢 もともとは三上さんに、「テレビで沖縄戦の番組をやろう」と誘っていただいたんです。ただ、結局その企画は通らなかったので、せっかくだから映画としてつくろうということになって。最初は「予算もあまりかけず、1時間くらいの短いドキュメンタリーに」と言っていたはずが、結果的にはその倍の長さになってしまいましたが(笑)。

──共同監督という形ですが、取材や編集はどのように進めたのですか。

大矢 沖縄本島の取材は主に三上さんが、波照間のほか与那国島、石垣島、あとアメリカの取材は私が担当しました。取材中はLINEなどで時々報告し合って、それぞれの自分の撮影分を粗編集したものを持ち寄ってつなげる、という形で。最初につなげてみたときは5時間くらいあったので、それを少しずつ削って今の形にしていきました。

──完成・公開した今、どんな気持ちでいますか。

大矢 波照間にいたときから「やらなきゃいけない」と思いながらもやりきれなかったことが、やっとできたという思いですね。八重山での強制移住の真相や、その背景にあった陸軍中野学校卒業生たちによる作戦、そこから見えてくる沖縄戦の知られざる秘密戦の実態……。それも自分だけの力ではなくて、誘ってくださった三上さん、製作費カンパに協力してくださった方々はじめ、いろんなご縁が積み重なってできたものだと感じています。
 そう考えると、今これをつくりなさい、と誰かに言われてできたような映画のような気がします。戦後73年経って、なんでいまさら沖縄戦の話なの、と言う人もいるでしょうが、73年経ったからこそ伝えなきゃいけないんだ、という思いをこの映画に込めたつもりです。

映画『沖縄スパイ戦史』より
(c)2018『沖縄スパイ戦史』製作委員会

──73年経ったからこそ体験を話せるという方もいるでしょうし、私たちにとっても、戦争体験についての証言を直接聞ける、本当に最後の機会にもなりつつあります。

大矢 私たちは、過去の歴史からしか学べません。その歴史を語れる人がいなくなりつつある中で、私たちが何を学ぶのかが今、問われていると思います。
 「戦争体験者がいなくなる」というニュースを時々見かけますが、私はそれ自体は社会現象ではあってもニュースではないと思っています。本当に「ニュース」にすべき問題は、私たちがたくさんの人たちが語ってくれた戦争体験を、ただの「かわいそうな、つらかった記憶」にしてしまって、民衆がどんなふうに国家に利用され、捨てられてしまったのかという大事なところを学び取ってこなかったこと。だからこそ、安保法制が成立したり、沖縄に新しい基地がつくられるような、そんな状況になってしまっているのではないでしょうか。73年目を生きる私たちは、もしかしたらもう「戦前●年」を生きているかもしれない。今こそあの戦争から学ばなくてはいけないんだと思います。

──今後、取材したいテーマなどはありますか。

大矢 今年の秋からアメリカに行く予定で、最低1年は滞在したいと思っています。QAB記者時代に『テロリストは僕だった』という、イラク戦争で戦い、沖縄での基地反対運動に身を投じた元米兵を追ったドキュメンタリーをつくったので、その取材を続けたい。経済的理由から入隊した若者、ホームレス生活になってしまったり、PTSDで苦しんだりしている元兵士、軍で性暴力を受けた女性兵士……そうした人たちを、もっと丁寧に取材してきたいと思っています。

──『沖縄スパイ戦史』もそうですが、「軍隊」というものの本質が見えてくる内容になりそうですね。

大矢 そうですね。軍隊というものが「国防」の名の下にいかに兵士の人間性を破壊して機械化していくか、かかわった民衆を利用して捨てていくか、それはおそらくどこの国でも同じで。その部分を、もっと追及したいと思っています。
 波照間にいたとき、浦仲のおじい──昨年に亡くなられたのですが──にこんなことを言われたことがあります。「英代には、『学んだ者』としての責任があるんだ」。おじいやおばあの世代は、学校に行きたくても行けなかったし、行っても「国のために死ね」という軍国主義教育しか受けられなかった。本当の教育というものを自由に受けられなかった悔しさを、今も背負って生きているんだ、と。
 それに対して、私たちの世代は「自由に学ぶ」ことができる。その中で、沖縄戦を、戦争マラリアを学ぶということを決めたからには、ただ興味本位の学びで終わらせるのではなくて、「学んだ者」の責任を果たせるようにしっかりやりなさい、と言ってくれたんです。『沖縄スパイ戦史』をつくっている間、いつも心に抱いていた言葉ですが、これからもずっと心にあり続けると思います。

(構成/仲藤里美・写真/マガジン9)

『沖縄スパイ戦史』
那覇・桜坂劇場、東京・ポレポレ東中野、大阪・第七藝術劇場、京都シネマなどにて公開中。ほか全国順次公開
公式ホームページ http://www.spy-senshi.com/
 

(おおや・はなよ) 1987年生まれ、千葉県出身。ジャーナリスト、ドキュメンタリスト、早稲田大学ジャーナリズム研究所招聘研究員。2012年、琉球朝日放送入社。2016年に制作した「この道の先に〜元日本兵と沖縄戦を知らない私たちを繋ぐもの〜」でPROGRESS賞優秀賞、同年制作「テロリストは僕だった〜沖縄基地建設反対に立ち上がった元米兵たち〜」でテレメンタリー年間優秀賞などを受賞。2017年にフリー転身後は、「戦争・軍隊と人間」「米兵のPTSD」「沖縄と戦争」「国家と暴力」をテーマに取材活動を続ける。共著に『市民とつくる調査報道ジャーナリズム』(彩流社)。『沖縄スパイ戦史』が初映画監督作品。