第8回:コロナ騒動のなか、あえて難民危機と国家について考える(岸本聡子)

福祉国家の黄金時代を生きたニナ

 昨年の夏、ニナが亡くなった。

 デンマークのケアハウスで暮らしており、心不全で息を引き取っていたのを朝、看護師さんが発見した。ニナはデンマーク人で私のパートナーの母親、つまり義理の母だ。私のよき友人で、ずっと名前で呼んできたのでこのままニナと呼ぶ。

 ニナが亡くなった時、私は日本に帰国しており、葬式にも出られなかった。しかし、ニナの死を自然に受け止めた。きっと幸せな人生だっただろうと。私が他に知らない程、穏やかで温かく邪心のない人だった。いつも近所の人たちの悩み聞き役になり、感情移入して自分がつらくなってしまうような優しすぎる人だった。そのためか、晩年はうつ病に苦しみ、その後乳がんを患った。奇跡的な強さで乳がんとうつ病をともに克服したが、その後うつ病が再発し、最後は肝臓がんにも侵された。積極的な治療はせず、がんで亡くなったというより衰弱死だったと私は思っている。

 1970年代の、宗教や家族観からの解放を求めたカウンターカルチャーの盛り上がりの中で青春を過ごした。彼女は離婚してシングルマザーとなり、3人の息子のうちの一人(私のパートナー)を育てた。弟2人は母と離れてオランダ人の父と暮らすことになった。保育士の仕事を続けながらつつましく過ごし、80年代には仲間たちとコミューンでヒッピー的な共同体生活を送った。このころのヨーロッパには、はっきりとした「福祉国家」というビジョンがあり、社会民主主義や連帯が社会に共有されていた。古き良き時代はその後、新自由主義の台頭で大きく変わることになる。ニナはヨーロッパの黄金時代を生きた。

 事実、彼女は福祉国家の恩恵を生涯受けることができた。ひとり親でコミューンでの生活後は公営住宅に入居した。最後の数年を過ごしたケアハウスは公的な施設で、彼女の唯一の収入である年金から払うことができた。贅沢はできないものの、公民館で行われる無料の文化イベントや演劇、高齢者向けの活動にもよく参加していた。うつ病やがん治療も息子たちが費用を負担することは全くなかった。貧しかったが最後まで個人として尊厳のある生活を送ることができたのだ。

 ニナが亡くなって半年後、私は福祉国家デンマークの底力を見た。彼女のお葬式の費用6800ユーロ(約81万円)は息子3人が負担したが、半年ほどたった今、それが国家から全額還元されたのだ。当人に貯金や資産がない場合、葬儀費用は国が保障するという個人主義を基礎とする福祉政策に基づくものだった。

トルコ・ギリシャ国境で起きている難民危機

 話は変わるが、ヨーロッパでは北イタリアを発端にコロナウイルス流行の拡大が深刻化し、今週からイベントや会議などが中止になっている。その騒動に隠れて、トルコとギリシャ国境で信じがたい非人道的な危機が進行している。

 内戦が複雑化するシリアからの難民が後を絶たないなか、これまでトルコはEU委員会から援助を受けることを条件に、難民を国内に留めていた。しかし、2月下旬にEUへの圧力をかけるカードとして国境を開き、1万人の難民がトルコの国境を越えてギリシャへ渡る事態となっている。その難民に対して、ギリシャ政府・警察は催涙ガスを浴びせ高圧放水砲で攻撃。押し戻された難民たちは、今度はトルコ側の警察に呼吸困難や胸痛を引き起こす兵器で攻撃されたのだ。この事態は、下着姿にされた難民たちが寒さに震えて国境地帯で寄り添うショッキングな写真とともに報道された(日本語の記事はこちら)。

 スペイン・バルセロナ市のアダ・コラール市長は、この危機に対していち早く行動を起こした一人だ。3月6日の英ガーディアン紙に「ヨーロッパの自治体はゼノフォビア(外国人嫌悪)や気候危機と立ち向かう」という意見記事を出し、下記のように述べている。

ヨーロッパはその設立起源の価値である人権と民主主義の保証を再確認しなくてはならない。今日の憎悪を煽る政治はそのための最大の脅威であり、ヨーロッパ各地の自治体は連帯、公正、社会的包摂、多様性を実現する政治の実現のためにつながっている

 そして世界の1000以上の自治体が加盟する最大の都市・自治体連合(UCLG)の代表であるモロッコのアル・ホセイマ市長とともに、国連事務総長宛てに公開書簡を出し、トルコ・ギリシャ国境の人道的な危機に対応するよう要請した。加えて、国家だけではなく、難民を実際に受け入れる自治体との対話を開いてほしいし、そのために自治体は最大限の協力を惜しまないと結んだ。

 戦争(シリア内戦・軍事攻撃)、貧困、気候危機は加速するばかりで、数年にわたる難民危機は子どもを含めた命を奪いながら依然として続いている。それにもかかわらず、地理的に少し距離のある国では「見えない、見ない、見たくない」という雰囲気を反映してか、報道は減っていった。私が住むベルギーも難民危機の前線の国ではない。しかし難民が直接到着するギリシャ、イタリアの社会不安は深刻だ。ギリシャで難民申請をしている10万人のうち、およそ3万4千人が一時的に滞在しているエーゲ海の島々では、食べ物、水、インフラ、衛生施設などすべてが不足し、不満が爆発寸前だという。島のキャパシティーを完全に超えており、住民による難民キャンプの襲撃など、社会的な緊張が高まっている。

 オランダ・アムステルダム市は3月5日に声明を出し、この危機の最前線であるエーゲ海にあるレスボス島から500人の子どもを引き取ると申し出た。「レスボス島には親がいない一人きりの難民の子どもも多数おり、彼(女)らは暴力、人身売買、失踪といった高いリスクにさらされている。ヨーロッパ各国のリーダーたちがこの人道的な危機を解決しないばかりか政治的なカードとして使っていることを非難し、アムステルダム市は連帯の声を上げる」。アムステルダム市はこう述べて、バルセロナ市をはじめ他のフィアレスシティ(※)と連帯していく姿勢だ。

※フィアレスシティ(恐れない自治体):抑圧的な国家政府、多国籍企業、マスメディアを恐れず、難民の受け入れを恐れず、地域経済と地域の民主主義を発展させることで制裁を受けることを恐れない自治体が、国際的に緩やかにつながっている

「国家の役割」とは何か?

 冒頭のニナの話からずいぶん離れてしまったが、私は国家の役割について考えている。ニナが福祉国家の恩恵を受けて最後まで尊厳をもって過ごせたように、国家というのは一人の尊厳を守ることのできる力をもつ。それと同時に、今回の難民危機に見るように多くの人の命を奪うことができる力ももっている。

 国家は、私たちが目指す変化をもたらす主体なのか、変化を阻む張本人なのか。国家を民主化することは可能なのか、それとも真の民主主義は草の根にしかありえないのか。自治体の潜在力のみに戦略を集中するべきか、国家の変革を優先すべきか――これらはおそらく100年以上の間、左派の間で議論されてきた終わりのないテーマだ。今日的には、ミュニシパリズム(コラム第1回第2回)、つまり国家よりも地域に根付いた自治体での民主主義を拡大し深めていくことに集中すべきなのか、ラディカルな地方政治の実現だけで満足していいのか、という問いになる。

 昨年末にアムステルダムで行った国際会議「公共の力と未来」のパネルディスカッションでは、1970年代からのピノチェト独裁のもとで新自由主義の実験場となり、その結果もたらされた格差と生活苦に対する抵抗運動が起きているチリから、若き研究者であり活動家のアレキサンダーが登壇。「国家とともに(with)、国家に対抗して(against)、国家を超える(beyond)」戦略を見つけなくてはいけないと語っていた。

 一方、ミュニシパリストの政権下で、スペインのバルセロナ市とマドリッド市は市営の葬儀会社を設立している。民間会社の葬儀費費用を支払えない多くの家族のために、市が非営利のサービスを提供するものだ。自治体が国家を待たずに、市民の命と尊厳を守るための行動を起こし、それによって国家に圧力をかけていく。そんな戦略も大ありだと、私は信じている。

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岸本聡子
きしもと・さとこ:環境NGO A SEED JAPANを経て、2003年よりオランダ、アムステルダムを拠点とする「トランスナショナル研究所」(TNI)に所属。経済的公正プログラム、オルタナティブ公共政策プロジェクトの研究員。水(道)の商品化、私営化に対抗し、公営水道サービスの改革と民主化のための政策研究、キャンペーン、支援活動をする。近年は公共サービスの再公営化の調査、アドボカシー活動に力を入れる。著書に『水道、再び公営化! 欧州・水の闘いから日本が学ぶこと 』(集英社新書)