2005年3月にスタートした「マガジン9」。たくさんの人に支えられ、こつこつ週1回の更新を続けているうちに、今年でなんと15周年を迎えました。
この15年間、コラムやインタビュー、対談などの記事を通じて、本当にさまざまな方たちのお話をうかがうことができました。その蓄積をただ眠らせておくのはもったいない! というわけで、過去の「マガジン9」掲載記事の中から、スタッフが厳選した「今だからこそ読みたい」コンテンツを再掲していきます。掲載当時とは状況などが変わっているところもありますが、今の状況との共通点に気づかされたり、新たな視点が見えてきたりすることも。未読の方も再読の方も、改めて、ぜひ読んでみてください。
※記事の内容、プロフィールなどは公開当時のものです。このシリーズは不定期で更新していきます。
7月20日の東京新聞朝刊を見て、思わず息をのみました。今年3月に行われた、東京都立学校253校(当時)のすべての卒業式で、「君が代」が斉唱されていたことがわかった──という記事が、一面に載っていたのです。
3月といえば、新型コロナウイルスの感染拡大で、小中学校も休校になっていた時期。卒業式や入学式なども、多くが来賓の数を減らしたり、プログラムを縮小したりしながら行われており、飛沫感染防止の観点から校歌を歌わなかった学校も多かったようです。その中で、なぜ「国歌斉唱」だけが変わらず行われたのか──。
感染拡大防止の観点から考えて許されることではないのはもちろんですが、それだけではありません。記事の中で、新潟大学の世取山洋介准教授は、都の教育委員会が式典で国家を謳わなかった教員を何百人も懲戒処分してきた結果として、教育現場が萎縮して合理的な判断ができなくなっていることを指摘しています。そうだとしたら、非常に怖いことではないでしょうか。
この「懲戒処分」にどのような問題があるのか。憲法とのかかわりから解説していただいた、2006年の伊藤真さんのコラムを読んで改めて考えたいと思います。
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2006年9月27日UP
「伊藤真のけんぽう手習い塾」
日の丸や君が代に思いを寄せるのは自由だが、国の強制が問題
9月21日に東京地裁で画期的な判決が出ました。入学式や卒業式で日の丸に向かっての起立や君が代の斉唱を強要するのは不当だとして、東京都立の高校や養護学校などの教職員が東京都教育委員会を相手に、起立や斉唱義務がないことの確認や損害賠償を求めた訴訟において、原告の全面勝訴となったものです。
憲法を理解している者からすれば、あまりにも当然の判決なのですが、画期的な判決と言われてしまうのが悲しいところです。しかし、それが日本の現実なのでしょう。『「日の丸」は、かっての軍国主義の象徴であり、「君が代」は天皇の御世を指すといって、拒否する人たちもまだ教育現場にはいる。これには反論する気にもならない』と著書『美しい国』で堂々と書く人が総理大臣になるような国なのですから。
日の丸や君が代にどのような思いを持つかは人それぞれであり、安倍さんのようにすばらしいと思う人がいてもいっこうにかまいませんが、問題なのは、それを国が強制することにあるという点についてまったく理解していないのは困りものです。
1999年の国旗国歌法の成立の際には、当時の小渕首相も「新たに義務を課すものではない」との談話を発表していました。文部大臣も「学習指導要領に基づくこれまでの指導に関する取り扱いを変えるものではない」と述べています。しかし、現実には教育委員会によるひどい強制と不当な処分が行われています。これは明らかに思想良心の自由(憲法19条)の侵害ですから、今回の判決は当然の結果といえるものです。
日の丸、君が代はいつから、どんな場面で使われてきたのか?
強制の点はさておいて、そもそも、日の丸が国旗として、君が代が国歌として、この国民主権の国にふさわしいものなのでしょうか。
日の丸、君が代には共通点があります。天皇制、靖国神社とともに、天皇を中心とした「神の国」としてのシンボルとして利用されてきたという点です。万世一系の天皇を神として位置づけ、その天皇のために死んだ人を英雄としてまつる神社、天皇のために戦うときの旗、天皇の世が長く続くように願う歌なのです。
明治憲法を起草した伊藤博文はヨーロッパには宗教という国家の機軸があるけれども、日本にはそうした社会の機軸となるものがないと考えました。そこで、天皇を利用しようと思い立つわけです。しかも宗教と結びつけて神格化すれば、権威づけることもできる。そこで日本に古来あった神道を組み替えて、国家神道として天皇制とともに利用することにしました。全国の神社を統廃合して組織化し、神官はすべて国家公務員として、国家に従属することになりました。
天皇制国家へ国民の意識を向けていくためには、シンボルも必要となりました。そこで、平安末期から祝い歌として歌い続けられてきた古歌に曲をつけて、1880年の天長節に宮中で始めて演奏されたものが君が代です。
もともとは古歌に歌われた「君」は主人、友人、愛する人という意味だったものを天皇を意味するものに変えることによって、「天皇統治の時代が永遠に続きますように」という意味の歌にして、小学校で歌うべきものとされたわけです。
けっして昔から歌い継がれてきたものでもないのに、戦時中の国定教科書では、「昔から私たちの祖先が皇室のみさかえをおいのりして歌い続けてきたもので、……戦地で兵隊さんたちが、はるかに日本へ向かって、声をそろえて君が代を歌うときには、思わず涙が日に焼けたほほをぬらすということです。」とあります。国民はあたかも昔からの日本の伝統のように教え込まれてきたわけです。
日の丸もまた、1854年の徳川幕府が船の旗として定めたのが始めのようですから、けっして日本古来のものではありません。君が代とともに、まさに、ときの権力者が天皇の下に国民を支配するために創り出し、国民を天皇のために戦争に駆り立てるための道具として利用されてきたものです。
今回の判決でも、君が代、日の丸が明治時代以降、皇国思想や軍国主義思想の精神的支柱として用いられてきたことがあるのは、否定しがたい歴史的事実であると指摘しています。ですから、これらに軍国主義との連想を感じ、血塗られたイメージを持つとしても、それはある意味で当然のことといえます。
内心の自由は何人にも侵すことはできない
客観的に国旗や国歌がどのような意味をもっているか、どのような意味を象徴しているかは問題ではありません。たとえば、フランスの国歌は、過激な内容になっています。それが問題なのではありません。重要なことは国民がそこからどのような意味を感じるかは、一人ひとりの個人の問題だということを認めるかどうかなのです。
国旗や国歌というシンボルにどのような気持ちを持つかは一人ひとりの自由であり、まさに内心の問題です。憲法では思想良心の自由として保障されています(19条)。そして、仮に多くの国民が納得するような新しい国旗や国歌ができたとしても、それに敬礼したり、歌ったりすることを強制できません。多くの国民がそれをよしとしても、少数の人たちにそれを強制することはできないのです。
そもそも憲法の下では、一人ひとりの人権は他人に迷惑をかけない限り最大限に保障されます。心の中でどのような思想を持とうが、それだけでは誰にも迷惑をかけませんから、こうした思想良心の自由も、内心にとどまる限りは絶対的に保障されます。そして、どのような思想や良心を持っているのかを国が調査したり、それを強制的に言わせたりすることもできません。心の中のことは人に言いたくないこともあるはずです。それを無理矢理に言わせるというのは、その人の人格を無視することになり、人間としての尊厳を軽視することになるからです。これでは一人ひとりを個人として尊重するという憲法の理念(13条)に真正面から反してしまいます。
しかし、その思想が表現活動や行動に表れて他人に迷惑をかけるようになると話は別です。こうした場合には一定の制限を受けることはやむをえません。公共の福祉による制限です。特定の思想から、人を傷つける行動に出ることが許されないことは当然です。たとえテロリストが自分の信念から行動したとしても、テロという犯罪行為を許すことはできません。
憲法に違反することは、公務員への職務命令があっても強制できない
では、特定の思想や良心を強制するわけではないけれども、一定の行為を強制することはどうでしょうか。たとえば、日の丸や君が代に反対する気持ちを持つことは自由だが、起立したり歌ったりすることを職務命令として義務づけるのは許されるのでしょうか。
確かに形式的には、心の中でどのように思っていようと自由なわけですから、こうした行動の強制は一定の必要性があれば許されるようにも思われます。ですが、そもそも思想良心の自由を保障した趣旨は、その人が自分の考えを持つことによって、その人らしく、自分らしくありたいと思うその気持ちを尊重しようとするところにあります。
とすると、たとえ、内心でどのように思っていてもいいから、とにかく起立して歌いなさいと強制することは、君が代を快く思っていない人にとっては大変な苦痛ですし、自分らしさを強制的に奪われることになってしまいます。本質的にその人らしさにつながるようなことはたとえ、形式的な行動でも強制することはできないのです。
自分が悪いことをやったわけではないのに、土下座して謝れと強制されると誰でもいやな気持ちがするはずです。それは「自分は悪いことをしていないのだから謝りたくない」という自分の人間としての譲れない思いがあるからです。そこで謝ってしまっ たら自分ではなくなってしまうと考えるからです。それと同じように自分らしく生きたいという自分の人格の本質にかかわることについては、たとえ法律によっても強制することはできません。君が代の斉唱を強制されることがその人にとってこうした意味を持つ場合には、その強制は憲法違反になります。そして憲法に違反することはたとえ、公務員としての職務命令によっても強制することはできません。公務員には憲法尊重擁護義務(99条)がありますし、職務命令も憲法に拘束されるのですから、当然です。
起立を強制することは、踏み絵を強いるのと同じ意味を持ちます。つまり、起立したくないという信念をもっている人にとっては、信念をまげて起立するか、それとも、自己の内面を権力にさらけ出して起立を拒否するかの選択しかないのです。このように個人の内心を引きずり出そうとする行為ですから、この点からも許されるわけはないのです。
起立しない人のまわりにそのことによって不快だと感じる人がいたとしても、それは 仕方のないことです。いろいろな考えの人がいて当たり前なんだ、人と違うことは許されるし、むしろ良いことだという個人の尊重を思い出すべき場面です。
憲法は多様性を認め合う社会をめざします。その人なりの自分らしく生きたいという思いを最大限尊重しようとします。思想良心の自由は自分らしく生きたいという個人の尊重(13条)の延長線上にあり、日の丸・君が代の強制はこれを真正面から否定することになるという点をしっかり理解しておかなければなりません。
(いとう・まこと)1958年生まれ。81年東京大学在学中に司法試験合格。95年「伊藤真の司法試験塾」を開設。現在は塾長として、受験指導を幅広く展開するほか、各地の自治体・企業・市民団体などの研修・講演に奔走している。近著に『高校生からわかる日本国憲法の論点』(トランスビュー)。法学館憲法研究所所長。法学館のホームページはこちら ※プロフィールは初出当時