東日本大震災と原発事故から12年目。今も課題は山積みですが、世の中の関心は薄れ、記憶の風化が進んでいます。悲惨な原発事故を経験した俳人で高校教員の中村晋さんは、事故後から現在に至るまで、福島の高校生たちと俳句を通じて語り合い、「命そのものの尊さ」を実感できる社会を取り戻そうとしています。そんな中村さんの句を取り上げ、お話を伺うことで、もう一度震災と原発事故をみつめ直し、今の社会になんとか光を見出していこうという短期連載です。
複雑な光り方
ウネラ 句集『むずかしい平凡』全259句のうち、直接「光」「ひかり」という語が使われている句が20句弱あると思います。
この企画のリードにも書いたのですが、光を見出すのが困難な社会。中村さんの句を読んでいると何か「光」に託す祈りというか切実なものを感じます。
中村 どう読まれたか、聞いてみたいですね。
ウネラ まずはこの句です。
中村 なるほど。
ウネラ 「光ること」と言い切っていることに凄みがあるなと感じました。
中村 いきなり「光ること」から始まりますからそこに驚かれたんでしょうね。これは「光ること」と言い切っているようですが、次のフレーズ「除染後の田をひた打つこと」と対句になっている構造ですね。ですから、ちゃんとした文法をなしている俳句じゃないかもしれません。「ああ、よく光っていることだなあ。除染のあとの田んぼをひたすら打ち返していることだなあ」と、そんな句意でしょうか。
福島市内もあまねく原発事故の影響を受けましたから、田んぼも汚染を逃れられませんでした。それでも農家は田を棄てるわけにはいきません。除染をして、ゼオライトを使って米にセシウムが移行しないように苦心するわけです。そしてなんとか生産できるようになった。そんな時期に作った句です。春、田んぼがトラクターで耕されて、景色がどんどん変わっていく光景が私はとても好きで、いよいよ何かが動き始まる喜びを感じたものです。
でも、「除染後の田」には喜びとともに不安もあって、なんというかその光景が余計光に満ちているように感じられたんですね。「光ること」を冒頭にいきなり持ってきたのは、そういう心の動きだったのでしょうか。読む人はどんなふうに感じるでしょうか。原発事故以降の句の「光」は、とても複雑な光り方をしますね。
ゆがんだ人体のイメージ
ウネラ 「光」というとポジティブなイメージをしがちですが、実はそうではないのでは、と感じたのが次の句です。
中村 この句、実は作者自身はそんなに深く考えて作った句ではないのです。
ウネラ そうなんですね。「人体」は放射能に貫かれた人の体を指しているのでしょうか。
中村 作者自身はそういうことまで考えてはいませんでした。ただ、この句集の全体的な雰囲気からそういうことを読み取ることも可能かもしれませんね。それは読者が自由に読み取っていい部分だと思います。「直線はない」というところに、放射線を浴びて少しゆがんだような人体のイメージが浮かんだのかもしれません。そういう読み方があるんだ、と作者も驚き、かつ喜んでいます。
ウネラ この句では「人体」ですが、世の中全体、たとえば教育や政治、思想、言論などが直線的(もしくは画一的、短絡的)に感じることが多く、それに危機感を抱く日々の中で、時々この句を想起します。
中村 この句から、「世の中全体が直線的」であることへの何らかの示唆を感じ取ってくださっているのも、意外でした。たしかにそういう読み方もありますね。なんだか、自分の句じゃないようでこれもまた驚きです。
この句がどんなふうに生まれたのかは、もうよく覚えていないですね。夏のある日、街の中を歩いていて、通りを女性がしなやかに歩く美しい姿を見ていたような気がします。それを眺めながら「ああ、人体っていうものには直線がないものだなあ」とでも思ったのでしょう。「人体」という言葉が出たのには、その時は意識しませんでしたが、やはり無意識的に師・金子兜太の代表句「人体冷えて東北白い花盛り」があったと思います。
また「晩夏光」も、たまたまそんな季節だったせいもありますが、曲線に満ち溢れた人間の身体に晩夏光を取り合わせると、とても映像的になるんじゃないかなあ、などと思いながら作った、即興的な句だったと思います。ですから、ある意味こんないいかげんな句から、深い意味を読み取ってもらえるのはうれしいことですし、そこにまた俳句の面白さもありますね。一つの映像が、読む人の中で成長して、作者の元を離れていくというのは、俳句にとっても喜ばしいことじゃないでしょうか。
言葉を溜めるひかり
ウネラ 作者を前に自らの鑑賞をぶつけるのは勇気がいるものですね(笑)。しかし恐れずいきます。次はこの句です。
中村 ウネラさんの読みを聞いてみたいと思います。
ウネラ とても好きな句なんです。ただいつも、「言葉を溜めているひかり」なのか、言葉を溜めている、で切れて「ひかり」が置かれているのか、と少し気になっています。私は勝手に、言葉を溜めている、のあと間をおいて「ひかり」と読んでいるのですが。
中村 なるほどそう読みますか。「言葉を溜めている」で切れるということですね。でも、俳句的には、そう読むのはちょっと難しいかもしれませんね。というのは、「凍蝶よ」でいったんはっきり切れていますから。でも、その読み方気になりますね。「ひかり」の手前で切れるとなると、どんなふうに読みが変わってきますか。もしよければ教えていただきたく思います。
ウネラ 蝶と自分を並列に置きたかったのかもしれません。自分が蝶なのか人間なのかをはっきりさせたくないような感じもしました。うまく伝わるでしょうか。
中村 なるほど。作者としてはこんなふうに読んでもらえることを期待していました。「ああ、凍蝶(凍り付いたように動かなくなった冬の蝶)がいることだなあ。これは言葉を溜めている時の光のような感じがするなあ。」
ただ、それだと、言葉を溜めているのが人間であることに限定されてしまいますよね。俳句だとその辺があいまいで、凍蝶が言葉を溜めているようにも読めるし、人間が言葉を溜めているようにも見えます。それから「言葉を溜める」なんて言っているけれど、どういうこと? そしてそれが光っているってさらにどういうこと? と疑問だらけになる作りをしています。そこが作者のたくらみでもありますね。
ウネラ 私はうまく「たくらみ」にはまったのかもしれません。
中村 思っていることをうまく言えないとき、うまく言葉にならないとき、その言葉が形になるのをじっと待っているようなときが私にはよくあって、そのときの感覚と凍蝶の姿がなんとなく重なったんです。そこからこの句が生まれました。この光はどんなひかりなのでしょう。「ひかり」と仮名で書いているから、まだはかない光でしょうかね。そして、その光に、読者がどんなものを感じてくれるのか、この光をどう育ててくれるのか。それをこの俳句は期待しているのではないでしょうか。
ウネラ それは、今回この企画で取り上げた「311子ども甲状腺がん裁判」(※第1回参照)に訴えかけた若者にも通じるところがあるのではないでしょうか。もちろん、原告以外の被災したすべての人たちにも。
中村 そうですね。彼らが溜めている言葉の重さ、いや「ひかり」の重さを私たちは忘れたくないですね。そしてそれはやっぱり命の存在の重さということになるような気もします。
生命力と光
ウネラ 続いては、中村さんの句集『むずかしい平凡』の「初期句編」の作品を紹介したいと思います。
中村 震災よりかなり前に作った初期の作品です。
ウネラ 「光が脱げない」という表現はなかなか出ないなあ、と思った印象深い句です。馬って物凄く生命力を感じさせる生き物だと思うのですが、その馬がどれだけ駆けても脱げない「光」って、一体何なんだろうと考えました。
中村 たしかに馬は「生命力」を感じますね。その象徴としての「光」を描きたかったんでしょうね。自宅近くに乗馬の練習場があって、そこで見た印象的な光景を句にしてみたものです。単なる写生句から脱出したいともがいていた時期のころの作品です。
「印象深い句です」と言ってもらってありがたいことなのですが、実はこの句のヒントもやはり金子兜太にあります。金子兜太の若いころの作品にこんな句があるんです。
ウネラ なるほど。
中村 当時は、まだ句誌にも参加せず、独学で俳句を作っていたんです。でも、限界を感じはじめて、いろんな俳句作家の句をノートに書き写して、体にしみこませていました。その過程でこの句に出会い、すっかりほれ込んでしまいました。
そして、この秋の光を浴びて走る馬を見たときに、こういう句になったのでした。パクリではないと思いますが、かなり影響を受けてしまっています。
ただ後年、同じ乗馬の練習場で、似たような光景を素材にこんな句を作りました。これも『むずかしい平凡』に収録しています。
ここまで来てはじめてやっと自分の句が作れたかなという思いになったものでした。
でも、確かに「光」とは何なのでしょう。私自身は、どういうわけか、きらっと光るものについ惹かれてしまいます。なんというか、何かが光るその一瞬の中に、とても大切なものを感じるんでしょうね。それが何なのか。わからないから俳句を作り続けているんですけれどね。
見えないから光る
ウネラ 生徒さんの句でとても心に響く作品がありました。
ウネラ うまく言葉にできないのですが、ぎゅっと胸を掴まれるように、切なく苦しく感じました。でもこの句から私は独特な光を感じるんです。セシウムが「見えない」ことで、花吹雪が普通と違う光り方をしているような。ちょっと理屈っぽい読み方でしょうか。
中村 この句は、「セシウムが見えない」で切って、「こんなに花吹雪」と読みますね。意味的に、前半と後半がつながるような、つながらないような、なんだか微妙な切れ方というか、つながり方というか。
目に見えているものは花吹雪。こんなに花吹雪が舞っている。目で見えている世界ではきれいだな、と思っているんでしょうね。でも、心の中では「セシウムが見えない」と思っている。セシウムってどこにあるかわからない。その不安。ひょっとしてこの花吹雪と一緒に舞い上がっているのかもしれない。その二重性ですよね。これこそ「季語の被曝」(※第3回参照)じゃないかな。花吹雪という現象をとても安心して見ていられない。その異様な感覚。それが「独特な光」を感じさせるのかもしれませんね。
この生徒は2012年に高校に入学した子です。普通に生活していたように見えましたが、2014年にこの句を作って、やっぱりそういうふうに感じていたのか、と思いました。
今は、「311子ども甲状腺がん裁判」の原告の方たちと重なる年齢の若者です。そういう生徒たちと一緒に教室で過ごしていたので、今回の裁判のことも他人事じゃなく感じるのかもしれません。この句も、いろんなことを呼び起こしてくれる作品ですね。
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